唐沢 民賢(からさわ みんけん、1937年1月3日[2] - )は、日本の俳優、タレント。長野県上伊那郡箕輪町出身[1][2]。宝井プロジェクト所属[3]。長野県箕輪町ふるさと大使(上伊那郡箕輪町のふるさと大使)[1]。
実家は農家で、長男でもあり後を継ぐ予定だったが[1]、上原謙の大ファンでもあり、映画好きが高じて父に猛反対され勘当されて家出[1]。東京五反田にあった劇団東芸養成所1955年に入所した[1]。養成所に講師で来ていた小野登に「東映ニューフェイスの試験を受けてみろ」と進言され応募するが落選[1]。小沢茂弘から「助監督で来ないか」と誘われ、そのツテで1956年に東映京都撮影所(以下、東映京都)と契約する[1]。当時は時代劇の全盛期で、東映京都は役者と呼ばれる人が300人以上いた[1]。当時はヒロポンを打ちながら撮影に挑む人が多かったという[1]。1964年の沢島忠監督『間諜』のスパイ役で、当時の東映京都所長・岡田茂に所長賞と金一封を貰い、これを切っ掛けに岡田所長に特に目をかけられる[1]。所内で岡田に挨拶すると、岡田がお付きのプロデューサーに「なぁ、唐沢くん、いいよなぁ」と話し、それは「唐沢を使え」という意味で、これを機に撮影所契約の大部屋俳優から、本社契約となる[1]。本契約は年6本の本編(映画)専属契約でギャラが跳ね上がり、一本立ちして家を建てることが出来たという[1]。
その後も時代劇や東映任侠映画、実録映画などで、脇役・悪役として活躍した[1]。1970年半ばに汐路章の発案で、汐路、唐沢、西田良の3人で「アメーバ芸団どん」を結成し、映画村内で即興劇やコントを行った[1]。汐路と唐沢は「ガンバルジャン」というコンビでレコードを出したこともある[1]。1978年にフリーとなった後は[1]、1980年代以降からは活動の拠点を東京に移し、新倉事務所に所属[1]。ワイドショーの司会等でも活躍した[1]。現在は舞台のプロデュースや演出指導の他、遠藤太津朗を中心に結成された[1]「劇団赤かぶ座」代表[1]、「シニア劇団極楽とんぼ」(脚本・演出・代表)を24年努めている[1](各地で公演173回・2020年(令和2年)7月15日まで)。
1990年代後半以降は刑事ドラマ・時代劇などで善人役や老人役を多く演じる。