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「千葉治郎」はこの項目へ転送されています。漫画家の千葉治郎(ちば・ぢろう)については「滝沢ひろゆき」をご覧ください。 |
矢吹 二朗(やぶき じろう、1949年1月6日[2][3][4] - )は、日本の俳優・経営者。別名義:千葉 治郎(ちば じろう)。本名:前田 満穂(まえだ みつほ)[2][3][4][5]。
1982年に俳優を辞め、会社員を経て、特定非営利活動法人森林デザイン研究所代表[6][7]。千葉県君津市八幡出身[2]。木更津市出身[8]。身長174cm。60kg(1976年2月)[8]。
兄は千葉真一[2][3][4]、姪は真瀬樹里、甥は新田真剣佑、眞栄田郷敦。
来歴
二男三女の二男で[2]、父は高額のギャラが出るテストパイロットだった[9]。戦時中の前田家は羽振りがよく、持ち家は何軒もあった[9]。しかし戦後は生活が一転し、どん底に落とされた時期に矢吹は生まれている[9]。中学校に上がると両親の負担を減らすため、芸能界に居た10歳上の兄・千葉真一の世話になることが家族内で決まり、東京へ向かう[9]。実家の貧乏生活がつらくて、きっとマシになるという希望を抱き、真一の元に身を寄せた[9]。
1967年に関東高等学校を卒業するが[2]、6年間の学費は兄・千葉真一が支払った[10]。大学へ進学したかったが、世話になっていた真一に「行きたい」とは言えず、一方で真一を通して芸能人と会ったり、撮影所に連れていってもらったことが、周囲にも「役者をやるのか」と言われる機会が増え、面白そうだなと興味を持ち始める[10]。矢吹の意志を汲んだ真一は「演技の勉強をきちんとしなくてはいけない」と文学座附属演劇研究所へ入所させ[10]、第7期生として入り、翌年に卒業した[2][10]。社会経験のため、皿洗い、トラック運転手の助手、バンドボーイなど、さまざまな職業を経て[10]、1969年、『ブラックチェンバー』に千葉 治郎としてデビュー[2][3]。芸名は同作の原作者である生島治郎から名を貰った[10][11][12]。
1970年、兄・千葉真一の主宰するジャパンアクションクラブに入る[2]。その後、藤岡弘の大怪我により、急遽『仮面ライダー』の出演を果たす[3][11]。同作の後は『ロボット刑事』に主演し、『アクマイザー3』では自ら願い出て、三枚目を演じた[5]。矢吹は『仮面ライダー』が企画段階の『マスクマンK』で、主役候補に挙げられていた。矢吹を仮面ライダー2号にしようとする案もあったが、真一は同意せず、実現しなかった。
1975年、『激突! 合気道』で映画初主演を果たし、翌年の『ラグビー野郎』で主人公の名前、矢吹 二朗と改名する[2]。1976年に丹波プロダクションへ移ったが[2]、1982年に俳優を引退[3]。移籍してからも兄・千葉真一の会社を手伝っていたが、税理士から「会社はもっと大きくなる。あなた以外に経営する人がいないから、俳優を続けるか、経営者になるか、どっちか決めてくれ」と言われたことが俳優を辞めるきっかけの一つとなった[15][16]。また、真一と常に比較される悩みや[16][17]、演じる方はもういいから、映画を創りたいという思いがあったと[5][11][18]、複数の引退理由を挙げている。
引退後、兄・千葉真一の会社を経営し、収益は上がり、関連で作ったアパレルの会社も成功した[18]。しかし戦中生まれで裕福に過ごしたことがある真一と[19]、生まれた時から貧乏で裕福な生活の経験がない矢吹では[9]、感性・価値観が全く異なり[9]、一緒に経営していても金銭感覚が真逆だったという[9]。意見が合わないことも増えていき、ほどなくして距離を置くようになった[9]。矢吹は真一を「映画人としては尊敬できますが、経営者としてはどうにもならない人で(笑)」と評している[19]。
古着屋経営を経て[5]、千葉県森林整備協会にて県有林保護監視員として活動[3][20][21]。2008年には、特定非営利活動法人森林デザイン研究所を設立[6]。2015年時点では東京ドイツ村に勤務、同村内に在り、自ら企画した『ジージの森』を運営。ジージの森の名前は「お爺ちゃん(爺じ)が子供の頃に自然の中でやっていた遊びを今の子供たちにも伝えたい」という意味で名付けた[11][17]。
また、2006年には千葉 治郎名義で、仮面ライダー誕生35周年記念イベント「面祭2」にゲスト出演[22]。2009年3月に川崎市内のミニシアターで劇場版仮面ライダー上映イベントが催された際も、千葉 治郎で佐々木剛とともにトークイベントを行った。
人物
出演
テレビ作品
※テレビ映画とテレビドラマ双方の出演作。
映画
演劇
音楽
- 僕のバラ(1971年、キャニオン CA-52) ※シングル B面は「雨の朝ふたり」
脚注
注釈
出典
参考文献