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橘 麻紀(たちばな まき、1951年2月6日 - )は、福島県相馬郡小高町(現・南相馬市)出身の女優、歌手[1]。身長167cm、B90cm、W60cm、H90cm(1973年頃)[1]。
来歴・人物
父親は興行の世界で働き[1]、娘を歌手にすることを小さな頃から決め、3歳のとき[1]、福島から上京[1]。1969年、福島県立小高農工高等学校を卒業後、歌手を志して上京しモデルとして活動した後、19歳の1972年に「加納エリ子」名義で、2歳年の鯖を読み[2]、シングル「汽笛が泣いている」で歌手デビュー[1]。身長とスリーサイズは当時のミス・ユニバースと同じサイズだったと橘は話している[1]。自慢の美脚に1億円の保険をかけて話題を呼んだが[1][2][3]、同時期の朱里エイコのミニスカート、山本リンダのヘソ出しルックに蹴られる[2]。
東映のプロデューサー・日下部五朗が雑誌のグラビアで加納を見つけ[1]、「この娘を連れて来い!」と指示し、山城新伍のマネージャーに東映京都撮影所に来るよう口説かれたが[1]、「京都なんて知らないから嫌!」と断った。しかし今度は日下部から母親と一緒に銀座へ呼び出され、その場でギャラの提示を受け、女優転身を承諾した[1]。1974年2月に[2]、東映に入社し[2]、加納エリ子名義で『やくざ対Gメン 囮』で映画初出演[1]。その後改名した「橘真紀」は、当時の岡田茂東映社長の命名[1]。『ジーンズブルース 明日なき無頼派』で本格的に女優に転身した。
1975年の『好色元禄㊙物語』に出演する際、堂々と脱ぐカルーセル麻紀にあやかり[1]、「橘麻紀」に改名し、『くの一忍法 観音開き』で初主演[注 1]を務めた。「橘麻紀」は脱ぐとき用の名前のつもりだっため、サインは「橘真紀」と書くという[1]。
ピラニア軍団のメンバーといわれることが多い[1]。
2023年現在は東京都練馬区桜台で「スナックおりづる」という店を開いてる事をアートディレクターの中平一史が2023年1月27日に配信された東映のYouTubeチャンネル「東映シアターオンライン」で明かしている。
主な出演作品
映画
テレビドラマ
音楽
シングル
リリース月
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A/B
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タイトル
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名義
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作詞
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作曲
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編曲
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企画品番
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備考
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ワーナー・パイオニア
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1972年5月
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A面
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汽笛が泣いている
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加納エリ子
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千家和也
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都倉俊一
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都倉俊一
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EP:L-1085R
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B面
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太陽が沈むまで
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1972年12月
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A面
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目ざめた朝
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井上忠夫
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馬飼野俊一
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EP:L-1109R
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B面
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愛は誰のために
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キングレコード
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1982年
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A面
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わたしは女
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橘 麻紀
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森 誠
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森 誠
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高見 弘
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EP:NCS-1678
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自主製作盤
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B面
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私は一人
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中村吉伸
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宮西 渡
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1984年3月
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A面
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ミオ・ミオ・ミオ(忘れられない貴方)
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たちばな麻紀
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鄭 旭/日本語詞:谷村新司
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鄭 豊松
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(不明)
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EP:K07S-524
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B面
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私は一人[注 2]
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中村吉伸
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宮西 渡
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高見 弘
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脚注
注釈
![](//upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/thumb/6/64/Question_book-4.svg/50px-Question_book-4.svg.png) | この節は検証可能な参考文献や出典が全く示されていないか、不十分です。出典を追加して記事の信頼性向上にご協力ください。(このテンプレートの使い方) 出典検索?: "橘麻紀" – ニュース · 書籍 · スカラー · CiNii · J-STAGE · NDL · dlib.jp · ジャパンサーチ · TWL(2020年7月) |
- ^ 衣笠恵子、堀めぐみとのトリプル主演。
- ^ 1982年の「わたしは女」B面曲と同一曲。
出典
外部リンク