中村 敦夫(、1940年〈昭和15年〉2月18日 - )は、日本の俳優、作家、脚本家、ニュースキャスター、政治家。日本ペンクラブ環境委員長。身長179cm。本名は中村 敦雄(読み同じ)[1]。旧姓は遠藤()。株式会社中村企画(1976年 - 2014年)を経て、クロスポイント所属。
勲等は旭日中綬章。参議院議員(1期)、さきがけ代表、みどりの会議代表、同志社大学大学院総合政策科学研究科で講師などを歴任した。
来歴
東京府東京市豊島区(現在の東京都豊島区)千早に遠藤家の長男として生まれる[2]。父親は新聞記者。幼少期の1945年に東京大空襲をはじめとする連合国軍による空襲があり、福島県平市(現在のいわき市平地区)に疎開[3][4]。平市立第一小学校(現在のいわき市立平第一小学校)を経て、平市立第一中学校(現在のいわき市立平第一中学校)を卒業後[2]、福島県立磐城高等学校に進み、その後東京都立新宿高等学校へ転校した[4]。
1958年(昭和33年)東京外国語大学インドネシア語学科に入学した。これが後に『チェンマイの首 愛は死の匂い』、『ジャカルタの目』、『マニラの鼻』といった、東南アジアを舞台とする国際小説執筆へと繋がる。両親の離婚後、母方の中村姓を名乗る[5]。
1959年(昭和34年)、同大学を2年で中退し[2]、俳優座養成所を経て新劇の劇団俳優座に入る[4]。いわゆる「花の12期」であった。若手のリーダー的存在であり有望株であった半面、劇団幹部などが左翼傾向の強い劇団内では異端児であった。そのため、「トロツキスト」のレッテルを貼られた。その際「ああ、いいですよ、トロでも白身でも」と受け流していたら、今度は新左翼、過激派ということになったという[6]。1965年(昭和40年)ハワイ大学に留学した[2][4]。このとき知り合ったアメリカ人と結婚するが3年で離婚した[2]。1971年(昭和46年)に中村ら中堅・若手が希望した『はんらん狂想曲』の上演に幹部が反対したことで、俳優座首脳との対立が決定的となる。中村は『はんらん狂想曲』を自主公演した後、市原悦子・菅貫太郎・原田芳雄と共に俳優座を退団した。
1968年(昭和43年)に起きた陳玉璽事件に衝撃を受けて、アムネスティ・インターナショナル日本支部設立に携わる。
1971年(昭和46年)の NHK大河ドラマ『春の坂道』で石田三成を演じ、マスコミに大きく取り上げられた[2][7]。
1972年(昭和47年)に市川崑監修のテレビ時代劇『木枯し紋次郎』で主役の渡世人・紋次郎役に抜擢される。それまでも、準主役級の二枚目俳優として活動していたが、同作品の大ヒットにより一躍人気を獲得した[2]。
1984年(昭和59年)から3年半にわたり、ドキュメンタリー『中村敦夫の地球発22時』の司会を務めた[4]。その後1989年(平成元年)10月1日から1992年(平成4年)9月27日までは日本テレビの情報番組『中村敦夫のザ・サンデー』などで司会を務めていた。この間はジャーナリスト活動に専念し、俳優活動からは一旦身を引く。作家としても「チェンマイの首」を発表している[4]。
『ザ・サンデー』を降板し、1993年に映画『帰ってきた木枯し紋次郎』で俳優として復帰し、以後は俳優活動と政治活動を平行して行う。
1995年(平成7年)の参議院選挙で、さきがけ公認、生活者ネット推薦で出馬したが落選する。1998年(平成10年)7月に同選挙さきがけの推薦及び市民の党の応援を受ける無所属候補として立候補し、東京都選挙区から初当選し、政治家となる。同年10月に「環境主義・平和外交・行政革命」の3つを基本理念とした民権政党「国民会議」を1人で旗揚げする。
2000年(平成12年)7月に「さきがけ」代表[注釈 1]、同年8月には議員連盟「公共事業チェック議員の会」会長にそれぞれ就任し、静岡空港建設反対運動[8]などに取り組む。2002年1月さきがけと国民会議が合流し、院内会派「さきがけ環境会議」を経て、党名をさきがけから「みどりの会議」に変更した。
2004年(平成16年)7月11日の参議院選挙では比例区に転向して、みどりの会議は中村をはじめとする10人の候補者を立て、90万を超える票を得るも全員落選した。これにより、みどりの会議は国会での議席を失うことになった。みどりの会議は同年11月に解散し、一部メンバーがみどりのテーブルを設立したが、中村は参加していない。
政治家を辞してからは、小休止状態だった俳優に再び復帰した。2008年(平成20年)にドラマ『CHANGE』(フジテレビ)では与党・日本政友党幹事長・小野田朝雄を演じて、2009年(平成21年)にはサントリー「BOSS食後の余韻」のシリーズ広告で政財界の大物を演じるなど、自身の経歴を重ねたような役柄を演じることが多くなっている。
いっぽう評論活動も続けており、2007年(平成19年)から2009年(平成21年)まで同志社大学で行った、「環境社会学」の講義録を再編した『簡素なる国』を2011年(平成23年)に出版。その中で「みどりの政治思想」などについて言及して、近代経済学に代わる新しい哲学の必要性を主張した。
2020年(令和2年)8月から日刊ゲンダイでコラム「末世を生きる辻説法」の連載を開始した。
人物
- 好きな言葉は「攻めの人生」。
- 「世界平和統一家庭連合(旧統一教会)」の問題に長年取り組んでいる[9][10]。
- 中村企画所属で、同社の社長も務める。父は読売新聞記者の遠藤節(えんどう さだむ、1907年 - 1969年)[11]。弟はシナリオライターの中村勝行。
- 競輪ファンとして知られ、前述の『ジャカルタの目』等の小説の主要な登場人物は、ほとんど実在の競輪選手の名前をそのまま使用している。また、解説の寺内大吉とともに、1970年代後半頃から特別競輪(現在のGI)決勝戦中継のレギュラーゲストとして出演した。寺内が1992年の高松宮杯決勝戦中継を最後に出演から退いた後も出演を続けたが、参議院議員としての職務を全うするため、1998年の高松宮記念杯競輪決勝戦中継を最後に退いた。
政策
栄典
受賞
出演作品
映画
テレビドラマ
情報番組
CM
著作
小説
- 『渡世人気質』ブロンズ社、1972年11月20日。
- 『チェンマイの首 愛は死の匂い』(1983年、講談社)のち講談社ノベルス、講談社文庫
- 『ジャカルタの目』(1985年、講談社)のち文庫
- 『マニラの鼻』(1989年、講談社)
- 『コーカサスの風 My silk road』(1989年、全国朝日放送)
- 『結婚しましょ!』(1993年、講談社)
- 『狙われた羊』(1994年、文藝春秋)
- 『時よ、怒れ!』(1996年、近代文芸社)
- 『ドブねずみを撃て!』(1997年、近代文芸社)
- 『ごみを喰う男』(2007年、徳間書店)
- 『暴風地帯』(2010年、角川書店)
評論・エッセイ
朗読劇
脚本
翻訳
- グレッグ・ノーマン『ゴルフ100マジック』(1996年、ゴルフダイジェスト社)
作詞
脚注
注釈
- ^ さきがけはかつては「新党さきがけ」として自由民主党・日本社会党とともに自社さ連立政権の連立与党であり、閣僚も送っていたが、主要議員の多くが離党した上、1998年の参議院選挙以降は所属国会議員がいなくなっていたため、エコロジーを中心とした党への変革を進めていた。
出典
外部リンク
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第1回 (定数8) |
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↓:途中辞職、失職、在職中死去など、↑:補欠選挙で当選。 |
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