菅 貫太郎(すが かんたろう、1934年〈昭和9年〉12月12日[1][2] - 1994年〈平成6年〉3月22日[2])は、日本の俳優。本名は同じ[1]。愛称はスガカン。
秋田県[1]湯沢市出身[2]。秋田県立湯沢高等学校卒業[2]、中央大学中退[1][2]。劇団俳優座出身[1]。田村企画を経て[1]、東映俳優センターに所属していた[3]。
高校卒業後、中央大学に進むが中退。
1957年(昭和32年)に俳優座養成所に第9期生[2]として入所。
1960年(昭和35年)に座員となり、「セチュアンの善人」で初舞台を踏む。
1971年(昭和46年)に菅孝行作の「はんらん狂騒曲」上演を禁じた俳優座幹部と対立、市原悦子、中村敦夫、原田芳雄らと共に、俳優座劇場で同作の造反公演劇団を行い、退団した[4]。
劇団在籍中から、映画やテレビドラマにも出演。独特のオーバーリアクションと、病的な異常性を秘めた表情の演技(特に悪役で活かされる)で強烈な印象を残した。
主な映画出演作は、『霧丸霧隠れ』(1961年(昭和36年))、『十三人の刺客』(1963年(昭和38年))、『幕末残酷物語』(1964年(昭和39年))、『田園に死す』(1974年(昭和49年))など。寺山修司監督の『田園に死す』は唯一の主演作。
劇団所属のまま、映画は東映作品の常連となり[5]、特に工藤栄一監督『十三人の刺客』で演じた松平斉韶役は「酷薄な馬鹿殿さま」として、以降の時代劇で同様の役を演じるほどの当たり役となった[5]。その後十年を経てなおも類似の出演依頼が続き、演技指導では「松平斉韶役みたいに」と同様の演技を求める制作や演出家の技量に対して菅は演技者の立場から批判している[6]。1964年(昭和39年)の新聞インタビューでは、東映の時代劇に出演するきっかけは、当時の俳優座の経営が厳しかったこともあり、上層部の命令で出演することになったと答えており、俳優座のリーダー格だった千田是也を目標の俳優に挙げている[7]。
テレビ作品では『水戸黄門』や『必殺シリーズ』、『暴れん坊将軍』など多数の時代劇や刑事ドラマにゲスト出演し、主に悪役として活躍した。善人役を演じる時は、普段の悪役のイメージを逆手にとり悪役風に姿を現し、終盤で実は善人だったという役は予定調和型ストーリー展開にトリック的な演技で視聴者に強い印象を残す。準レギュラー出演した『ご存知!女ねずみ小僧』では町奉行所同心羅門京十郎役を前述のオーバーリアクションを交えつつ各話で心境や様子に工夫する芸の細かさ・芸域の幅広さも見せた。
プライベートは「べらんめぇ」口調の飾らない性質で頭髪は演技都合で拘らず、夫人の作成した登山帽(チロリアンハット)を愛用していた[8]。映画や現代劇の出演にはチロリアンハットを身に付けることも有った。
1994年(平成6年)3月16日の夜、神奈川県川崎市麻生区の自宅へ帰宅途中、自宅前の横断歩道でオートバイと接触して頭部を強打し入院。6日後の3月22日、脳挫傷のため横浜市緑区の病院で死去。59歳没。
3月23日、家族親族による密葬が行われた後、3月24日に新聞各紙の知るところとなり、翌3月25日に各紙で訃報が報じられた。4月10日、東映京都撮影所所長・佐藤雅夫を葬儀委員長に川崎市山口台会館で葬儀・告別式が行われた[9][10]。
その他 出演作品
Strategi Solo vs Squad di Free Fire: Cara Menang Mudah!