財閥解体

財閥解体(ざいばつかいたい)は、国際政治方針で財閥などの巨大企業が解体される現象である。


財閥の株券差し押さえを行うアメリカ軍(1946年)。
株式の民主化はドッジ・ラインの金詰まりで持続性を失い、株式は機関投資家と事業法人に売られていった。前者については、財閥解体による株式の肩代わり機関として1951年に投資信託制度がスタートした。後者については、株式の持ち合い資本の自由化に根拠を与えることとなった。

日本における財閥解体(ざいばつかいたい)は、連合国軍最高司令官総司令部(GHQ)が占領統治下で行った、過度経済力集中排除政策である。それまでほとんど実物取引がされていなかった企業の株式が、当時の激しい通貨増発を礎として個人投資家に販売された。指定持株会社は財閥のものにとどまらなかった。

安田案が土台に

1945年9月22日アメリカ政府が発表した「降伏後における米国の初期の対日方針」は、その第4章「経済」のB項で、「日本の商業及び生産上の大部分を支配し来りたる産業上及び金融上の大コンビネーションの解体を促進」すると規定していた。アメリカなど連合国側には、財閥を「日本軍国主義を制度的に支援した」との認識があり、これを解体する事で軍国主義を根本的に壊滅できると考えていた。当初、日本政府は財閥解体には消極的だったが、三井財閥内で三井本社の解体論が台頭してきた事や、安田財閥持株会社である安田保善社が、10月15日に自社の解散、安田一族の保善社及び傘下企業役員からの辞任、及び一族保有の株式を公開する方針を決定した事から「財閥解体やむなし」の方向に傾いた。

このような情勢下、GHQ経済科学局長レイモンド・C・クレーマー(Raymond C. Kramer)は10月16日に声明を発し、財閥解体に当たっては日本側の自発的な行動に期待し、GHQはそれを支援するに留めるが、日本側に積極的な動きが見られない場合は自ら実施に乗り出すとの姿勢を示した。これを受け、政府は三菱住友を加えた4財閥やGHQと財閥解体に向けての協議を進め、11月4日、安田案を土台にした財閥解体計画案をGHQに提出した。骨子は以下の四項目である[1]

  • 持株会社所有の有価証券、及びあらゆる企業に対する所有権・管理・利権を示す商標を、日本政府が設ける機関に移管する
  • 上記移管財産に対する弁済は、10年間の譲渡・換価を禁じた登録国債で支払う
  • 三井岩崎(三菱)、住友、安田4家構成員、持株会社取締役・監査役の産業界からの追放
  • 持株会社による傘下企業に対する指令権・管理権の行使を禁止する

11月6日、GHQ総司令官ダグラス・マッカーサーは、総司令官が日本政府案を修正し、また実施に際しての監督・検閲権を留保する事を条件に、日本政府案を承認した。これを受け日本政府は11月23日、勅令第657号「会社ノ解散ノ制限等ノ件」を公布。大蔵大臣に(1)資本金500万円以上の会社及び大蔵大臣の指定する会社の解散または事業譲渡に対する認可権、(2)三井本社、三菱本社住友本社、安田保善社及び大蔵大臣の指定する会社が保有する動産不動産・有価証券など財産の処分に対する許可権を与えた。この勅令をもって財閥解体は始まる。

持株会社整理委員会の発足

1946年4月4日、GHQは、持株会社の有価証券・証憑を引き継ぎ、整理に当たる持株会社整理委員会(以下「委員会」)についての政府案を承認した。4月20日に根拠法である「持株会社整理委員会令」が施行され、5月7日の設立総会、8月8日の定款認可と委員任命を経て委員会は8月23日から活動を開始した[2]

9月6日内閣総理大臣は軍国主義である三井本社三菱本社住友本社安田保善社富士産業(旧・中島飛行機)を持株会社指定した(第1次指定)。これに基づき、委員会は5社に解散を勧告し、財閥解体政策は実行に移された。

4大財閥の持株会社である三井本社等は、「初期の対日方針」が出た時点で内外から解体対象として想定されていた。これに対し富士産業は、軍用航空機メーカーであり、太平洋戦争末期には全生産施設・社員が第一軍需工廠として日本政府に接収・徴用されていた事情もあって、連合国から純軍需産業として認識され、GHQは財閥とは別に同社の解体を日本政府に求めていた。

9月23日の三菱本社を皮切りに、委員会は指定5社に、委員会が譲り受けるべき財産内容を通知し、10月8日(三井本社、三菱本社)、10月16日(住友本社)、10月29日(安田保善社、富士産業)の3回に分けて第1回有価証券譲受を執行した。この時5社から譲り受けた有価証券総額は15億8684万円に及び、これは5社が保有する有価証券総額の約78パーセントに及んでいた。

並行して5社に対する解散勧告も行われ、三井本社、三菱本社、安田保善社は9月30日に解散、委員会の監督下で清算に入った。11月いわゆる会社証券保有制限令(会社ノ証券保有制限等ニ関スル勅令)が出された。

株式の瞬発的民主化

1945年11月、GHQは公債発行によって臨時支出をまかなった。日銀は1946年1月に禁止されるまで国債を引き受けつづけた。しかし軍需融資は続けられた。1947年2月から1949年3月までは復興金融金庫債1680億円が発行され、これを日銀が引受けた[3]

日銀が資金を創出していなかったら、以下に書く大規模な民主化は達成されなかったであろう[4]

証券処理調整協議会(Securities Coordinating Liquidation Committee)に販売が委ねられた株式は根拠法が多岐にわたった。持株会社整理委員会令によるものが76億円で、会社証券保有制限令によるものが14億円であった。これら合計90億円は、1945年末の国内株式総額437億円の約2割であったが、「その他の法人」保有割合24.6%にほぼ符合する。閉鎖機関整理委員会令によるものが14億円であった。売却を強制された株式には、戦時補償特別税独占禁止法などによるものもあった。総計184億円であった。こうなると437億円の約4割である。このうち協議会は141億円の販売を任された。売出しは1947年6月に始まり、1951年6月に完了した。141億円の半分以上が1949年に売れている。買い手は1950年3月までの調べによると、従業員(38.5%)、入札(23.3%)、売り出し(27.7%)であり、56人の財閥家族の持っていた株式2億2300万株のうち7%が約15万人の従業員・地域住民に分散された。売却代金は旧所有者に返却され、その62.51%が旧債務に、またわずか12.13%が租税公課の支払に充てられた。これでこそ帝国銀行は三井本社向けの貸付を回収できた。三井だけでなく、財閥系銀行の対本社焦げ付きも、時価売り出しによって順調に回収された。1945年末に59.8%が三井本社の持分であった三井鉱山は、過度経済力集中排除法により三井金属鉱業が分離されて、さらに株式売却を強制された結果、1951年末の筆頭株主は野村証券(5.3%)になった[4]

1948年末結成のアメリカ対日協議会が、「トップのいない企業結合体」を容認した。

そして、1947年の独占禁止法第10条が1949年に骨抜きにされた。改正前は「金融業(銀行・信託・保険・無尽または証券)以外の事業を営む会社は、他の会社の議決権株を取得してはならない」としていたものを、1949年には適用を社債まで広げる代わりにライバル会社でなければ株式・社債を取得できることになったのである[5]

個人持株の比率が最も高かったのは1949年末であって、その後ドッジ・ラインにより割合が減り始めた。この傾向は1978年もなお進行中であった。個人から流出した株式は金融機関と事業法人に向かい、旧財閥銀行が主導する株式の持ち合いが再編された。逆コースにより財閥解体が株式会社制度を認めた上での有償株式分散となったからであった[4]

そしてシャウプ勧告法人擬制説法人税を個人所得税の源泉徴収的前取りと認識し課税の重点から除外した[6]

1951年、持株会社整理委員会は『日本財閥とその解体』を編纂し、5年にわたる活動を総括した。7月、委員会は証券処理調整協議会と共に解散した。委員会の資料は国立公文書館が所蔵し、一部は国立公文書館デジタルアーカイブで閲覧が可能である。

法人資本主義の形成

財閥系の再結束

1952年グリーンメーラー藤綱久二郎陽和不動産の35%を買占めたので、三菱グループは戦後初めて再結集して全株最高値で買い取った。1953年8月、独禁法第10条、第11条(金融業を営む会社の株式保有制限)、第13条(競争関係にある会社間での役員兼任禁止)、第14条(会社以外の者による株式保有制限)が撤廃された。1954年7月、旧三菱商事130社が大合同を達成したが、12月に4倍弱という大幅増資で完全復活を遂げた。金融機関と事業法人の垣根は関係なく、財閥ごとに株式を持ち合うようになり、戦前の二流以下の財閥や新興コンツェルンも系列融資を受けながら株式の持ち合いに参加していった。富士銀行は旧安田系(東邦レーヨン日本精工沖電気など)や旧浅野系(日本鋼管日本セメントなど)、旧森系昭和電工)を中心に、さらに旧日産系のうち日産自動車日産化学日本油脂などに接近し、系列融資をしながら、これらとの株式持合いを進めた。第一銀行は旧渋沢系のIHI汽車製造をはじめ、戦前から深いつながりのあった古河財閥、川崎系(川崎重工など)、神戸製鋼系、藤山系にも同様の関係を築いた。三和銀行は戦前から密接であった大日本紡績大和紡績帝国人絹日立造船新日本汽船東洋電機東洋ベアリング中山製鋼ダイハツ岩井産業、などに、やはり同様の関係を構築した[7]

投信とのつきあい

1951年に投資信託が再開され旧財閥系資本にとって潜在的な脅威となっていたが、証券不況まで組み入れ株の議決権を代理行使することはなかった。1966年の商法改正まで組み入れ株の議決権について不統一行使ができなかったので、昭和30年代に投資信託は契約残高を急膨張させながらも、株式の発行会社へ白紙委任していたのである[8]

株式の持ち合い傾向は昭和30年代に停滞していた。技術革新としての重工業化は、旧財閥を分裂させることがあった。三菱と三井ともにそれぞれの内部でニ系列のコンビナートが対立した。建設機械や自動車への進出をめぐっては三菱三重工間で対立が生じた。このような事業の資金需要は系列融資でまかなうことができず、系列外銀行シ団の協調融資や世界銀行・米銀からの大規模融資を受けた。1960年前後には大量公募増資が行われさえした。ここが投信の出番であり、株価上昇と株主割当増資で利回りを得た。技術導入と設備投資に限界が見えてくると、三菱グループでは三菱三重工が合併し対立は解消された。また、海運二法により海運会社の合併もあいついだ(日本郵船と三菱海運など)[9]

証券不況の後、日本共同証券と日本証券保有組合が凍結株を放出した。前者の放出株がどこに買われたかを示す資料は公表されていない。後者放出株の銘柄は、恐慌前に投信が保有していた一流企業株に集中していた。金融機関の引取り分は、三菱7.6%、三井3.4%、住友5.6%、芙蓉5.1%、三和3.0%であった。投信の保有していた利権は系列化されたのであった[10]

1967年の投信法改正で、投資信託委託会社が保有株議決権の指図権を行使できることになっていた[8]。したがって1970年前後は、旧財閥グループと海外投資信託が日本株を争って買いつけることになった[11]

オイルショック後のスタグフレーションでグループのメインバンクが傘下企業の資産売却を場外取引させるようになり[12]、それが1980年代まで続いたので機関投資家同士が同一銘柄をキャッチボールし株価を吊り上げた[13]

指定持株会社

第1次指定

1946年9月6日指定。5社。現業部門(林業)を持っていた住友本社と富士産業は解散が遅れ、それぞれ1948年2月、1950年5月に清算に入っている。なお、富士産業が遅れた事情とは、財閥に先行して解体計画が立案された事、当初GHQは、保有株式の処分は委員会ではなく会社自身に行わせる方針であった事、整理に当たっては工場ごとの分割を求める会社側と、より少数の分割を提案した委員会側で対立があった事、戦時補償特別税関係の特別損失の計上を巡って税務当局に訴訟を提起していた事などであった。

第2次指定

1946年12月7日指定。4大財閥に継ぐ規模の財閥やいわゆる新興コンツェルンなどの持株会社トラスト、各産業で独占寡占的地位にあった企業を対象とした。40社。

第3次指定

三菱重工業の分社を告知する広告(『アサヒグラフ』1950年1月18日号)

1946年12月28日指定。財閥傘下で、かつ、その会社自体が各産業で独占・寡占的地位にあり、1次・2次指定の対象にならなかった企業を対象とした。20社。

1947年7月3日、GHQは日本政府宛覚書において、三井物産と三菱商事に対し、より厳しい整理措置を採るよう、以下に記す具体的な内容を示して要求した。

  • 三井物産・三菱商事の解散・清算を直ちに開始する
  • 7月3日以後、委員会の許可なき商取引・資産譲渡を禁止する
  • 過去10年間に両社の「役員、取締役、顧問、在内外支店支配人又は部長であった者」は2名以上、従業員は100名以上、同一会社に在籍するか、会社設立に関わってはならない
  • 両社の役員または従業員を雇用している会社は、両社が過去に使用し、または現在使用している事務所の使用を禁止する
  • いかなる会社も「三井物産」「三菱商事」あるいはそれに類似した商号の使用を禁止する
  • 両社は全資産の詳細な目録を作成して、委員会に提出しなければならない。
また現存する全ての帳簿・記録を保存しなければならない
  • 両社の全資産は、公開市場での売却そのほか公正な方法で処分する[17]

7月5日に、大蔵省経由で覚書を受け取った委員会は、両社の取引が広範囲である事から、両社解体のニュースが流れた場合、手形不渡りや銀行取引停止など激しい経済的混乱を招く危険があると判断し、大蔵省、日本銀行商工省、貿易庁と連絡を取りつつ、両社に対しては、既存契約に基づく取引は(早急に終わらせる事を条件に)委員会の承認下で継続を許可し、これに関わる繋ぎ資金の調達についても、両社に近い帝国銀行三菱銀行横浜正金銀行を加えた3行に融資を要請するなどして、恐慌防止に当たった。両社解体は週明け7月6日に報じられたが、委員会の迅速な行動によって、混乱は回避された。

当座の危機を乗り切った委員会は、専門セクションとして特殊清算部を設置し、両社の清算作業を本格化させた。基本的に清算作業は、商法及び企業再建整備法に基づいて行われたが、債権の回収や所有不動産の処分は困難を極めた。そこで委員会は、新たに会社を設立して、これに未回収債権を引き継がせて回収に当たらせるとともに、未処分不動産を現物出資させ、その活用で収益を挙げさせて経費の削減を図る事にした。こうして1950年3月1日に三井物産を引き継ぐ日東倉庫建物が、4月1日に三菱商事を継承する光和実業が、それぞれ設立され、戦前の日本を代表した2大商社の解体は事実上完了した。

第4次指定

1947年3月15日指定。電気通信施設の国有化政策に基づくもので、便宜的に持株会社整理委員会の所管とされた。2社。

  • 国際電気通信株式会社 → 国際電信電話(現:KDDI)新設のため。通信機器事業は電気興業が承継。
  • 日本電信電話工事株式会社 → 日本電信電話公社(電電公社、現:日本電信電話)新設のため。

第5次指定

1947年9月26日指定。いわゆる地方財閥・小規模財閥を対象とした。16社。

実施されなかった措置

1949年9月、持株整理委員会は三井・三菱・住友に対して商号・商標の使用を1950年7月1日以降7年間に渡り禁止する旨通達したが、実施は後に延期され、1952年講和条約発効と共に撤廃された[18]

脚注

出典

  1. ^ 公正取引委員会 『独占禁止政策二十年史』 1968年 12頁
  2. ^ 持株会社整理委員会「持株会社整理委員会業務報告第一号」、1946年12月31日付 / 国立公文書館デジカルアーカイブ、2011年6月4日閲覧。
  3. ^ 日本経営史研究所 『東京証券取引所50年史』 東京証券取引所 2002年 81頁
  4. ^ a b c 有沢広巳監修 『証券百年史』 日本経済新聞社 1978年 194-196頁
  5. ^ 奥村57-58頁
  6. ^ 奥村54-55頁
  7. ^ 奥村61-68頁
  8. ^ a b 奥村74-75頁
  9. ^ 奥村76-81頁
  10. ^ 奥村84-89頁
  11. ^ 奥村100頁
  12. ^ 奥村112-113頁
  13. ^ 奥村126-127頁
  14. ^ 『中央建物株式会社 会社概要』
  15. ^ 柴垣和夫 『三井・三菱の百年』
  16. ^ 三宅晴輝 『電力コンツェルン読本』 1937年 436頁
  17. ^ 玉城肇 「財閥発達史序説(4)「財閥解体」と再編成(2)」 愛知大学法經論集 第76号 63頁
  18. ^ 三井財閥の解体(後編)”. www.mitsuipr.com. 2023年10月6日閲覧。

関連書籍

関連項目

旧財閥系企業グループ
その他

外部リンク