石神井村(しゃくじいむら)は東京府に存在した村の一つである。古く石神井郷と呼ばれた地域にほぼ対応しており、江戸時代初期にも同名の村が存在していた。
北豊島郡の南西端に位置しており、石神井川とその支流を南北に挟む緩やかな丘陵地である。石神井川の南岸は急斜面であるのに対し、北岸の傾斜は緩やかで川に沿って水田が存在していた。石神井川の水源として三宝寺池があり、またさらに西へ延びる支流の大川(現在はこちらが石神井川の本流)に「関の溜井」(現在の武蔵関公園)があった。南側の丘陵には千川上水が通っている。[2]
現在の東京都練馬区の石神井町、石神井台、上石神井、下石神井、上石神井南町のいわゆる石神井地区、および周辺の三原台、谷原、高野台、南田中、関町北、関町東、関町南、立野町に相当する。
旧村が大字となり、それぞれ以下の小字がある。[2]
石神井川に沿うように各地から旧石器時代の遺物が発掘されており[3]有史以前から活動の盛んな地域であった。特に三宝寺池南岸には旧石器時代から室町時代にまでおよぶ遺跡群が集中しており、古くからの地域拠点であったと考えられる。しかし南北朝時代に豊島氏の支配が及ぶまで、史料上の記録は乏しい。1349年(貞和5年)に石神井郷は豊島氏の支配を受けるが、1368年(応安元年)武蔵平一揆の乱に敗れて関東管領上杉憲顕に所領を没収され、1395年(応永2年)に還補されてこの頃から石神井城が築かれ豊島氏の本拠となったと考えられている。石神井城は1477年(文明9年)長尾景春の乱のさなかに太田道灌に攻められて落城、一帯は上杉氏・後北条氏のもと太田氏の所領となり、その後は徳川氏の領有となる。文禄年間に谷原、田中、石神井、関の4村に分かれ、その後正保年間までに石神井村は上下2村に分かれ、さらに1784年(天明4年)に竹下新田が開墾される。江戸時代を通じて幕府直轄領であり、明治維新後は品川県を経て東京府の所轄となる。
麦、陸稲、大根などの畑作を主とする農村であり、商工業は水利を生かし製粉を行ったり醤油製造を行ったりする程度で盛んではなかった[2]。しかし、鉄道の開通と関東大震災による東京市内からの人口流入、さらに各種学校が開設されたことにより住宅地化が進展した[8]。
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