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この項目では、バスケットボール指導者、選手について記述しています。その他の同名の人物については「長谷川誠 (曖昧さ回避)」をご覧ください。 |
長谷川 誠(はせがわ まこと、1971年4月2日 - )は、日本のプロバスケットボール選手、指導者である。愛称は「ひげ」[1]及び"Mike"(マイク)。マネジメント契約先はスポーツビズ。
能代工業高校、日本大学を経て1994年に日本リーグの松下電器に進み、この年リーグ優勝、新人王とMVPを同時に獲得。その後ゼクセルを経て2000年にアメリカ・ABAのサンディエゴ・ワイルドファイヤに1シーズン加入した。帰国後はいすゞ自動車、新潟アルビレックスBBを経て、2010年より秋田ノーザンハピネッツのプレイングマネージャーを務めてきたが、2012-13シーズン限りで現役引退した。日本初のプロ選手契約を結んだ選手であり、また日本人で初めて日本国外のプロリーグに所属した選手でもあった。ポジションはポイントガード。現役時代の身長186cm、体重85kg[2]。
引退後は秋田のテクニカルディレクター職を経て、2014-15シーズンよりヘッドコーチに就任。B.LEAGUE 2016-17シーズンB1残留プレーオフ終了後、ヘッドコーチ辞任を表明した。
略歴
学生時代
1971年、秋田県横手市(旧平鹿郡雄物川町)に生まれる。小学5年生の頃からバスケットボールを始め、雄物川中学校時代には3年次に東北大会3位入賞[3]。能代工業高校監督の加藤廣志にスカウトされ同校に入学した[3]。それまではセンターのポジションであったが、高校ではガードに転向し、同級生の関口聡史らと共に加藤三彦コーチの熱血指導で更に磨きをかけ1987年の選抜大会、1988年の国体とウィンターカップ、1989年のインターハイと国体の優勝に貢献[3]。高校卒業後は関口とともに日本大学に進学し、4年次には大学三冠も経験した[3]。
実業団、プロ選手時代
1994年、松下電器に入団、初年度よりチームをリーグ優勝に導き、日本リーグ新人王とMVPを同時に獲得した[3][注 1]。
1996年、この年日本リーグ2部に加入したゼクセルに移籍。初年度に2部リーグを制覇し、1部昇格を果たす。また同年1月2日に放送されたテレビ番組『最強の男は誰だ!壮絶筋肉バトル!!スポーツマンNo.1決定戦』では池谷幸雄らを抑え総合No.1となった[4]。
1997年、ゼクセルとプロ契約を結び、日本初のプロバスケットボール選手となった[3][注 2]。
2000年、ABAのサンディエゴ・ワイルドファイヤに移籍。男子バスケでは日本人初の海外プロリーグ選手となった[5]。マリック・アレン、ピーター・コーネルらとプレーした。
2001年に帰国し、JBLスーパーリーグのいすゞ自動車に入団。JBL準優勝、アジアバスケットボールリーグ準優勝などに貢献したが、チームはこの年限りで休部となり、翌2002年、新潟アルビレックスBBに移籍する。2005年にアルビレックスがbjリーグに移籍し、翌2006-07シーズンに行われたオールスターゲームに選出。JBLとbjリーグ両方のオールスターに選出された初の選手となった。アルビレックスには2009-10シーズンまで所属し、その間2005-06シーズン、2006-07シーズンの2度、フリースロー成功率2位にランクインした[2]。
2010年にフリーエージェント宣言を行い、同年に設立された秋田ノーザンハピネッツに移籍[5]。当初球団はヘッドコーチ就任を打診しており[6]、先に監督契約で合意していたが[7]、現役続行を望む長谷川の意向に応え、bjリーグ史上初のプレイングマネージャーとして契約[8][注 3]。長谷川はフロント業務兼任となり[6]、試合の指揮はヘッドコーチが執った[注 4]。しかしハピネッツ所属初年度となる2010-11シーズンこそ33試合・356分に出場したものの[2]、翌2011-12シーズンには18試合・122分[2]、さらに次の2012-13シーズンでは44試合を消化した時点で出場8試合・32分と、怪我などの影響で出場機会は徐々に少なくなっていた。
レギュラーシーズン8試合を残した2013年4月2日、自らの42歳の誕生日に記者会見を開き、2012-13シーズン限りでの現役引退を表明[6]。シーズン終了後は指導者を目指す意向を明らかにした[6]。
日本代表として
バスケットボール男子日本代表としては1994年から2000年までの7年間にわたって選出され、1994年に広島県で開かれたアジア大会では3位入賞、翌1995年に福岡県で行われたユニバーシアードでは大会得点王となり、日本を準優勝へ導いた[5]。また1998年には、31年ぶりとなる世界選手権出場を果たした[5]。
引退後
引退後は秋田ノーザンハピネッツのテクニカルディレクターに就任し、チーム編成とフロント業務などを担った[9]。また、日本バスケットボール協会3x3推進室専門委員にも就任した[10]。2014年1月25日には、日本人選手としては初となる引退試合を開催した。
2014年7月1日、それまで秋田のヘッドコーチであった中村和雄の後任として、ヘッドコーチに就任した[11]。
秋田ノーザンハピネッツがB.LEAGUE 2016-17シーズンB1残留プレーオフにおいて敗退し、来期からのB2降格が決定した責任を取り、2017年5月18日、ヘッドコーチ辞任を表明した[12]。
2018年4月、3x3日本代表(男・女)のアドバイザーコーチに就任[13]。6月、新規3x3クラブチーム・セカイエのテクニカルアドバイザーに就任[14]。9月、3x3日本代表でトーステン・ロイブルディレクターコーチを補佐するアソシエイトコーチに就任[15]。
引退試合
2014年1月25日に秋田市立体育館で行われた引退試合は、翌26日にで行われるbjリーグオールスターゲームのイベントの一環として行われたものであった。長谷川は親交のある選手や元選手を集めた「長谷川フレンズ」を結成し、長谷川の母校である能代工業高校と対戦した。対戦相手に能代工業を選んだ理由として長谷川は、近年全国制覇から遠ざかっている母校の強化を挙げた。2,214名の観客の前で行われた試合は長谷川フレンズが72対61で勝ち、長谷川は11得点を挙げた[16][17]。
長谷川フレンズメンバー
出演番組
ヘッドコーチ成績
NBAヘッドコーチ実績表略号説明
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レギュラーシーズン
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G
|
試合数
|
W
|
勝利数
|
L
|
敗戦数
|
W–L %
|
レギュラーシーズン勝率
|
ポストシーズン
|
PG
|
試合数
|
PW
|
勝利数
|
PL
|
敗戦数
|
PW–L %
|
プレイオフ勝率
|
チーム |
シーズン
|
G
|
W
|
L
|
W–L%
|
シーズン結果
|
PG
|
PW
|
PL
|
PW–L%
|
最終結果
|
秋田
|
2014-15
|
52 |
41 |
11 |
.788 |
東1位 |
7 |
5 |
2 |
.714
|
準優勝
|
秋田
|
2015-16
|
52 |
35 |
17 |
.673 |
東3位 |
6 |
5 |
1 |
.833
|
3位
|
秋田
|
2016-17
|
60 |
18 |
42 |
.300 |
東5位 |
— |
— |
— |
—
|
B2へ降格
|
通算
|
164 |
94 |
70 |
.573 |
|
13 |
10 |
3 |
.769 |
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脚注
注釈
出典
関連項目
外部リンク
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1980年代 |
1981年度 | |
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1982年度 | |
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1983年度 | |
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1984年度 | |
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1985年度 | |
---|
1986年度 | |
---|
1987年度 | |
---|
1988年度 | |
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1989年度 | |
---|
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1990年代 |
1990年度 | |
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1991年度 | |
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1992年度 | |
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1993年度 | |
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1994年度 | |
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1995年度 | |
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1996年度 | |
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1997年度 | |
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1998年度 | |
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1999年度 | |
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2000年代 |
2000年度 | |
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2001年度 | |
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2002年度 | |
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2003年度 | |
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2004年度 | |
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2005年度 | |
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2006年度 | |
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2007年度 | |
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2008年度 | |
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2009年度 | |
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2010年代 |
2010年度 | |
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2011年度 | |
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2012年度 | |
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2013年度 | |
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2014年度 | |
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2015年度 | |
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2016年度 | |
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代表取締役:山本雅一 |
スポーツ文化人 | |
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現役アスリート | |
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チーム | |
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スポーツ指導者 | |
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旧所属 | |
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