この項では、日本の首都 (にっぽんのしゅと、にほんのしゅと)について解説する。
現在、日本 の首都 は東京都 と認識されている。現行の法令には「首都圏 」の定義は存在するが(首都圏整備法 )「首都 」についての定義はなく、また過去においても「首都」という明治以前には一般的でなかった語と伝統的な用語である「都」「京」との関係について明確にされたことがなく、「日本の首都」という語そのものについて議論がある。
概要
日本の法令 で初めて「首都」の語を用いたのは1950年 (昭和 25年)に制定された「首都建設法 」(昭和25年法律第219号)だが、同法は1956年 (昭和31年)に廃止されており[1] 、現行の法令で「首都」について直接的な表現を用いて定めるものはない[2] 。同法の第12条には「東京都が国の首都 であることにかんがみて」とあり、東京都が首都であると明記されていた。
首都建設法を引き継いだ「首都圏整備法 」(昭和31年法律第83号)では、「東京都の区域及び政令 で定めるその周辺の地域を一体とした広域」を首都圏 と定めている(2条)。同条の「政令で定めるその周辺の地域」とは、埼玉県 、千葉県 、神奈川県 、茨城県 、栃木県 、群馬県 及び山梨県 の区域である(首都圏整備法施行令1条)。
2018年 (平成 30年)2月には衆議院議員逢坂誠二 の質問[3] に対し、「首都を東京都であると直接規定した法令はないが、東京都が日本の首都であることは、広く社会一般に受け入れられているものと考えている」と日本国政府 としての公式見解が示されている[4] 。
以上のような認識に対しては、多様な「首都」の認識に基づく異論もある(次節を参照)。
多様な「首都」の認識
日本では歴史上天皇 による朝廷 の下に、国際的には時に「日本国王 」「日本国大君 」とも称された征夷大将軍 による幕府 のような武家政権 が存在したことや、東京 と京都 の両京制 (東西両都)などの面から首都の議論があり、現在も法律上では「どの都市が首都であるか」という直接的な定義がなされていないため、「首都は現在の首都圏にある東京である」という意見の他、「現在も京都と東京という2つの首都が並存している」「京都が正式な首都である」等、様々な首都論・首都認識がある。
「首都」の意義
「首都 」とは中央政府のある所、首府[5] のことであるが、日本 で「首都」という語が一般化したのは第二次世界大戦 後のことであり、戦前から戦後しばらくまでは帝国全体の中心都市は「帝都」と呼称した。後述のように「都」(みやこ)の地位についての議論は東京奠都 がなされた明治の頃から存在しており、旧都については旧皇室典範 (昭和22年5月2日廃止)第11条では「卽位ノ禮及大嘗祭ハ京都ニ於テ之ヲ行フ」と規定され典憲の上で配慮されていた[6] 。旧来の「都」(みやこ)と「首都」との関係について用語面においては戦後しばらくまで「主都」「首邑」(プライメイトシティ )を「首都」と記述する事例も多く[7] 、明確な区別はなかった。「首都」という語の定義は、1950年 (昭和 25年)の「首都建設法 」の発布以来に同法に謳われる「首都」の意で一般的に普及している。
元来での日本の首都機能を有する「都=みやこ」は有史 以来、天皇 の遷都 宣言に基づき、天皇が御座し政治を行う地として遷都が行われてきた。794年 12月4日 (延暦 13年11月8日 )に桓武天皇 によって平安京 (現在の京都府 京都市 中心にあたる)への遷都が行われて以来、遷都に関する宣言は出されておらず、また大日本帝国憲法 を始めとした旧法令や日本国憲法 を始めとした現行法令のいずれにおいても、「日本の都が何処であるか」という点については謳われていない。なお、山城国 、大和国 、摂津国 、河内国 、和泉国 (京都府の一部、奈良県 、大阪府 、兵庫県 の一部)は併せて畿内 (「畿」はかきね・門の内側。転じて、天子 に直隷する帝都から五百里以内の土地を意味する)と呼ばれていた。現在でいう首都圏 と同義である。
日本の現行憲法下においては「首都」を制定すべき法的要請はない。また首都を制定する法令もない。歴史的には「みやこ」が常に唯一であったわけでもなく、複都制 が採られることがしばしばあった。日本の歴史的な慣例では、遷都がなされていない御座所は厳密には行宮 とみなされる。こんにち、「東京都が唯一の首都」と慣例的にみなす根拠としては、「首都」という語が一般使用されるようになった戦後に発布された現行の日本国憲法において天皇が「象徴」として定義づけられており、その常座される都市として戦前の帝都の地位を引き継いでいる象徴的な「みやこ」とみなせること、国会 (立法府)、首相官邸 や中央省庁 (行政府)、最高裁判所 (司法府)という三権の最高機関が東京都の千代田区 に所在することなど、一国の中心都市とみなせる内政上の外形を備えていることが挙げられる。平成11年11月4日東京都知事 石原慎太郎 の質問[8] に対して、衆議院法制局長 および参議院法制局長 、内閣法制局長 から示された回答においては、我が国の法令法律に定義は存在せず見解を示す立場に無いとされている[9] 。なお、国会 召集 の詔書 には国会議事堂 が所在する「東京に召集する」と書かれていること[10] や静穏保持法 別表第1で国会議事堂周辺地域を「東京都千代田区霞が関二丁目及び三丁目並びに同区永田町一丁目及び二丁目の区」と規定されていること、小型無人機等飛行禁止法 第2条で国会議事堂を「国会に置かれる機関の庁舎であって東京都千代田区永田町一丁目又は二丁目に所在するもの」と規定されていることから、国会議事堂が東京都千代田区に所在することが前提になっている。また裁判所法 第6条では「最高裁判所の所在地は東京都」と規定されていること、小型無人機等飛行禁止法第2条では最高裁判所の庁舎について「東京都千代田区隼町に所在するもの」と規定されていることから、最高裁判所が東京都千代田区に所在することが前提になっている。各国大使館 などの外交部は東京に常設されており国際的に東京は日本の首都と認識されており、地図等に解説なく日本の首都として東京を図示するものが多い。
国内の統計等では23の特別区 (23区、いわゆる東京都区部 )が「東京」という1都市であるかのように扱われることが多く、一般にも東京都のうち23区を東京都区部、その他の市町村を多摩地域 や東京都島嶼部 (いわゆる東京都下 )と区別することもあるが、これは23区が旧東京市 に相当することに由来するもので、現在では23区を一体とし自治権を有する行政単位は存在しない。
東京都に対して公式に用いられる英語 名称は"Tokyo Metropolis"である[11] 。Metropolis自体にも法令上の定義は存在しないが、一般には「(周辺都市に対する)中核都市・主要都市」「母都市(mother city)」「首都」の語義で使用される[12] 。
2011年 、当時の石原慎太郎 東京都知事と橋下徹 大阪府知事は、東京を「首都」、大阪を「副首都」とすることを目指す方針で合意をした。橋下は「副首都」について「東京から行政機関を移転するということではなく、副首都を担える行政機構、都市機能を整備していくということ」と説明した[13] 。
辞典による日本の首都
天皇・都に注目したもの
首都機能・武家政権に注目したもの
平氏政権 による福原京 の計画が平安京 との複都構想だったとし、また鎌倉幕府 の置かれた鎌倉が、京都と首都機能を分担した事実上の複都制であるとするもの[22] 。
江戸時代初期に行われた大御所政治 (駿府政権)では、外交や内政の指示など駿府 が実質的な首都として機能した[23] 。
江戸は中央政府の所在地として首都と意識されていたが、幕末 に政治の中心となった京都が首都となり、更にそれが明治政府の置かれた東京に移ったとするもの[24] 。
江戸時代に江戸は政治・行政の中心と認識され、首都として機能もし、外国人も江戸を首都と認識していたとするもの。1719年 (享保 4年)の朝鮮通信使 ・申維翰 の『海遊録 』によれば、都(首都)は初め大和 にあり、その後豊臣秀吉 が大坂 に、次いで徳川家康 が江戸に移したと認識されていたという[25] 。
国会等に着目したもの
首都機能移転 問題に関して1990年 (平成2年)11月7日 に政府機能の地方移転決議が衆参両院本会議で決議された。ここでは国会および政府機能の移転をおこなうべきとの決議がなされたが、皇居は移転の対象とはならず、そのため遷都ではないという認識であった[26] 。また1992年 (平成4年)に国会等の移転に関する法律 が法制化された。
国会等の移転で移転対象と考えられているのは、国会、国会活動に関連する行政の中枢機能であり、皇居や、経済・文化など現在の首都東京が有する機能すべてではない。いわば首都東京の機能の一部を移転しようとするもので、首都移転とは異なる。1996年(平成8年)6月13日 の衆議院国会等の移転に関する特別委員会において「私は、首都移転というつもりはありません。皇室に御動座をいただく意思はありません」「国会等の移転に関する法律に基づきます検討、それは首都移転あるいは遷都を前提として行われるものではありません」との内閣総理大臣 橋本龍太郎 の国会答弁がある[27] 。
法的根拠
2024年(令和6年)現在、日本の首都を直接定める現行法令は存在しない。そこで、旧法、現行法及び慣習法 の読み方によって、東京都を唯一の首都と解さない論者もいる。論争に登場する主要な立法及びその解釈について列記する。
江戸ヲ称シテ東京ト為スノ詔書
1868年 (明治元年)、東京行幸 に際して明治天皇 が発した詔勅 である「江戸ヲ称シテ東京ト為スノ詔書」には、「首都」の語はない。同義ではないが、元来、首都の意味を含有していた「京」を地名の語尾に付したことから、この詔書によって、東京を京都と並び首都とすることかつ(複都論 )を定めたと解する立場がある。
朕今万機ヲ親裁シ億兆ヲ綏撫ス江戸ハ東国第一ノ大鎭四方輻湊ノ地宜シク親臨以テ其政ヲ視ルヘシ因テ自今江戸ヲ称シテ東京トセン是朕ノ海内一家東西同視スル所以ナリ衆庶此意ヲ体セヨ
帝都復興ニ関スル詔書
…抑モ東京ハ帝国ノ首都 ニシテ政治経済ノ枢軸トナリ国民文化ノ源泉トナリテ民衆一般ノ瞻仰スル所ナリ一朝不慮ノ災害ニ罹リテ今ヤ其ノ旧形ヲ留メスト雖依然トシテ我国都 タル地位ヲ失ハス是ヲ以テ其ノ善後策ハ独リ旧態ヲ回復スルニ止マラス進ンテ将来ノ発展ヲ図リ以テ巷衢ノ面目ヲ新ニセサルヘカラス…
東京都制
1943年 (昭和18年)に制定された「東京都制」(昭和18年法律第89号)は、太平洋戦争 下における、いわゆる戦時法制 の一つであり、その目的は「帝都 たる東京に真の国家的性格に適応する体制を整備確立すること」、「帝都 に於ける従来の府市併存の弊を解消し、帝都 一般行政の、一元的にして強力な遂行を期すること」、「帝都 行政の根本的刷新と高度の効率化を図ること」にあったといわれる[29] 。この東京都制は、1947年 (昭和22年)の地方自治法 の施行に伴い廃止された[注釈 1] 。現在、地方自治法において「都」制度は道府県制度と並び規定されているが、都制度の適用があるのは東京都を区域とする地方自治体に限定されるとは規定されていない。また、首都である自治体のみに適用されるという規定もなく、例えば大阪府 に特別区を設置して都制度を適用することもあり得ることであり、実際に大阪府と大阪市 を合併させた上で府の名称も「大阪都」に変更しようとする動きもある(大阪都構想 )[30] 。
首都建設法
1950年 (昭和25年)には、東京都を日本の首都として新しく計画することが明確に定められた「首都建設法」が制定された。同法は、当時数多く制定された特別都市建設法 の一つである。
第一条 この法律は、東京都を新しく我が平和国家の首都 として十分にその政治、経済、文化等についての機能を発揮し得るよう計画し、建設することを目的とする。
第十二条 東京都の区域により行う都市計画事業については、東京都が国の首都 であることにかんがみて必要と認めるときは、建設省、運輸省その他その事業の内容である事項を主管する行政官庁がこれを執行することができる。(後略)
首都圏整備法 (現行法)
首都圏整備法は、首都建設法を強化したもので、首都建設委員会が作成した衛星都市整備促進法案、工業整備法案を統合したものであった[31] 。
(定義)
第二条 この法律で「首都圏 」とは、東京都の区域及び政令で定めるその周辺の地域を一体とした広域をいう。
附則
(首都建設法の廃止)
4 首都建設法(昭和二十五年法律第二百十九号)は、廃止する。
首都圏整備法施行令 (現行法)
首都圏整備法を受け、「内閣は、首都圏整備法 (昭和三十一年法律第八十三号)の規定に基き、この政令を制定する。」として首都圏整備法施行令が制定されている。
首都圏整備法施行令(昭和32年12月6日政令第333号)
(東京都の区域の周辺の地域)
第一条 首都圏整備法 (以下「法」という。)第二条第一項 の政令で定めるその周辺の地域は、埼玉県、千葉県、神奈川県、茨城県、栃木県、群馬県及び山梨県の区域とする。
首都直下地震対策特別措置法 (現行法)
東京都を中心とした関東地方一帯で発生が予測されている首都直下地震 に対する対策の推進を定めた法律。首都中枢機能の維持と、国民の生命、身体及び財産の保護を目的とする。
首都直下地震対策特別措置法(平成25年11月29日法律第88号)
(定義)
第二条 この法律において「首都直下地震」とは、東京圏(東京都、埼玉県、千葉県及び神奈川県の区域並びに茨城県の区域のうち政令で定める区域をいう。次項において同じ。)及びその周辺の地域における地殻の境界又はその内部を震源とする大規模な地震をいう。
2 この法律において「首都中枢機能」とは、東京圏における政治、行政、経済等の中枢機能をいう。
天皇居住地の変遷
なお、首都機能を経済 ・交通の面で補完する第二首都とも言うべき副都 (陪都)が設けられることもある(複都制 )。例としては、難波宮 が置かれていた地の天武天皇 の難波京 を始め、淳仁天皇 の「北京」保良宮 (滋賀県大津市、761年 (天平宝字 5年) - 764年 (天平宝字8年))、称徳天皇 の「西京」由義宮 (大阪府八尾市 、769年 (神護景雲 3年) - 770年 (宝亀 元年))が知られている。保良宮と由義宮は短命に終わったが、難波京は長岡京遷都まで副都の地位を保ち続けた。
平安時代 末の福原京 を首都とみなせるか否かについては近年議論がある[32] 。首都否定論の立場からは、『平家物語 』などの文学作品に語られる「福原遷都」の実態については、平氏政権 が和田(神戸市)方面への遷都を目的として福原に行宮 を置いたに過ぎず、それによって平安京が従来の首都機能を失った様子も特に見られないことから、建前はどうあれ、福原は京都の機能を軍事・貿易面で補完する事実上の副都に留まった、とする主張がある[33] 。実際、福原への遷都宣言が出されたことはなく、行宮滞在中も行事は京都で行われている上、遷都計画が頓挫した後は、京都を首都とする方針が政権中枢にて決定されている。これに反し、福原には八省院 や官衙の整備計画も持ち上がったが、結局実行されなかった(『玉葉 』治承 4年7月16日条・8月4日条・11日条・29日条)。
南北朝時代 (1336年 - 1392年 )は、「正平一統 」(1351年 - 1352年 )の短期間を除き平安京が北朝 の都である。
日清戦争 中の1894年 (明治27年)9月15日 から1895年 (明治28年)5月30日 には、広島県 広島市 に置かれた大本営 (→広島大本営 )において、明治天皇 が直接戦争の指揮にあたった(広島大本営は翌1896年 (明治29年)4月1日 に解散)。1894年(明治27年)10月の第7回帝国議会 は広島市で開催されている。立法・行政・軍の統括が東京から広島に移転していたことになり、この時期は広島が一時的に首都機能を担った。
太平洋戦争 末期の1944年 (昭和19年)には、皇居と大本営を長野県 松代町 (現長野市 )に移転させる計画が陸軍 により始められたが、敗戦により中止された(松代大本営 )。
東京奠都
明治初年に京都から大坂のち江戸への遷都 計画が立案されたが、公卿や保守派、京都の住民などから反対の声が挙がった。また戊辰戦争 がいまだ継続されている中、維新直後の混乱した政情のもと、政府内外での各藩閥や派閥による意思決定過程に不満をもつ不平分子がこの課題を政治問題化し、とくに久留米 や肥後 の尊攘派や脱藩浮浪が一部公卿と結びつき(この動きは後に知られる佐賀の乱 や神風連の乱 など九州・山口を舞台とする士族反乱 に発展する)、明治新政府による天皇行幸(東行)すら新政府中枢による政治の壟断として反論が噴出する状態であった。この経緯があり、天皇の東行は遷都 として公表されるわけではなく、より慎重な表現と手続きにより実施されることとなった。
文部省が1941年(昭和16年)に発行した『維新史』では天皇のこの東行を遷都(せんと)ではなく「東京奠都(てんと)」と表現している。奠(てん)は「定める」「祭る」意味を表わしており、遷(せん)「移す」「移る」とは異なる意味を表現している。「奠都」については1895年に行われた「平安奠都千百年紀念祭」のように使用される言葉である[35] 。
大王宮・皇居所在地の変遷
この記事は検証可能 な参考文献や出典 が全く示されていないか、不十分です。 出典を追加 して記事の信頼性向上にご協力ください。(このテンプレートの使い方 ) 出典検索? : "日本の首都" – ニュース · 書籍 · スカラー · CiNii · J-STAGE · NDL · dlib.jp · ジャパンサーチ · TWL (2014年10月 )
この節には独自研究 が含まれているおそれがあります。 問題箇所を検証 し出典を追加 して、記事の改善にご協力ください。議論はノート を参照してください。(2015年1月 )
以下の表について、古代については記紀 の記述によるものであり、その実在や所在が考古学的に特定されていないものを含む。一般の遷都論においては第33代推古天皇 の代以降から語られることが多い(通説)[36] 。
脚注
注釈
^ ただし、地方自治法の「昭和22年法律第67号附則第2条」ただし書により、東京都制第189条 - 第191条、第198条はなお効力を有した。しかしその効力も、「昭和39年 7月11日 法律169号附則第2条」、「昭和49年 6月1日 法律第71号附則第2条」、「平成10年 5月8日 法律54号附則第2条」、「平成11年7月16日 法律第87号附則第15条」により、更に制限された。
出典
文献情報
関連項目