宣化天皇(せんかてんのう、旧字体:宣化󠄁天皇、467年?〈雄略天皇11年? 〉- 539年3月15日?〈宣化天皇4年2月10日〉)は、日本の第28代天皇(在位:536年1月?〈安閑天皇2年12月〉 - 539年3月15日?〈宣化天皇4年2月10日〉)。
諱・諡号
「日本書紀」では、諱を檜隈高田皇子(ひのくまのたかたのみこ)という。
和風諡号は、「古事記」では建小広国押楯命(たけをひろくにおしたてのみこと)といい、「日本書紀」では武小広国押盾天皇(たけをひろくにおしたてのすめらみこと)という。漢風諡号「宣化天皇」は代々の天皇とともに淡海三船により名付けられたとされる。
系譜
継体天皇の第二子。母は尾張目子媛(おわりのめのこひめ、尾張連草香女)。安閑天皇の同母弟。欽明天皇の異母兄。
- 皇后:橘仲皇女(たちばなのなかつひめみこ、仁賢天皇の皇女・雄略天皇の外孫)
- 石姫皇女(いしひめのひめみこ) 欽明天皇の皇后
- 小石姫皇女(おいしひめのひめみこ) 欽明天皇の妃
- 倉稚綾姫皇女(くらのわかやひめのひめみこ、「古事記」に倉之若江王で男性) 欽明天皇の妃
- 上殖葉皇子(かみえはのみこ、恵波王・椀子) 丹比公(多治比真人)・偉那公の祖
- 某(夭逝、男女不明)
- 妃:大河内稚子媛(おおしこうちのわくごひめ)
- 母不詳
系図
皇居
都は檜隈廬入野宮(ひのくまのいおりののみや、現在の奈良県高市郡明日香村檜前)。
事績・人柄
先代の安閑天皇が崩御したとき、子どもがなかったために同母弟の宣化天皇が69歳にして即位した[1]。筑紫の官家の整備を行い、大伴金村に命じて新羅に攻められている任那に援軍を送った。即位元年(536年?)に蘇我稲目が大臣となり、子の蘇我馬子以降続く蘇我氏の全盛の礎が築かれることとなる。即位3年(539年?)に崩御した。
また、安閑・宣化朝は父継体天皇崩御後すぐに即位した弟の欽明天皇と並立していたとの説(辛亥の変)もあるが、いずれにせよ、宣化天皇の血統も石姫皇女を通して現在まで受け継がれることとなる。
高齢での即位と、在位が3年余りと短いため、目立った事績はない。人柄は清らかで、君子らしい顔立ちをしていたと言われている。
5月の詔で食に関することを述べているのは、世界的に引き起こされた536年の火山噴火による寒冷化(英語版)(火山の冬)の影響に言及したものではないかと考えられている。
陵・霊廟
陵(みささぎ)は、宮内庁により奈良県橿原市鳥屋町にある身狹桃花鳥坂上陵(身狭桃花鳥坂上陵:むさのつきさかのえのみささぎ)に治定されている。皇后橘仲皇女との合葬陵で、宮内庁上の形式は前方後円。遺跡名は「鳥屋ミサンザイ古墳」で、墳丘長138メートルの前方後円墳である。
「古事記」には記載なし。「日本書紀」「延喜式」には「身狭桃花鳥坂上陵」とある。
また皇居では、皇霊殿(宮中三殿の1つ)において他の歴代天皇・皇族とともに天皇の霊が祀られている。
在位年と西暦との対照表
在位年と西暦との対照表
- 年代は「日本書紀」に記述される在位を機械的に西暦に置き換えたもの。太字は太歳干支の年。
後裔氏族
丹比氏
丹比氏(多治比氏)は飛鳥時代から平安時代初期にかけて有力豪族・上級貴族として繁栄した。また、その末裔に武蔵七党の丹党がいる(同じ武蔵七党の私市党にも多治比氏の末裔とする説がある)。
威奈氏
椎田氏
川原氏
茨城氏
脚注
- ^ 「古事記」宣化天皇段(「宣化記」)には「弟(いろと)、建小広国押楯(たけをひろくこおしたて)命、檜垌(ひのくま)の廬入野(いほり)宮に坐しまして、天の下治めらしめしき」とある。なお、「宣化記」には系譜記事として、宣化天皇が二人の比売(ひめ)を娶って産まれた子どもが男子三人・女子二人であることと、その子孫にあたる氏族について書いている。
関連項目
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外部リンク