後円融天皇(ごえんゆうてんのう、旧字体:後圓融天皇、1359年1月11日〈延文3年12月12日〉- 1393年6月6日〈明徳4年4月26日〉)は、日本の北朝第5代天皇[注 1](在位:1371年4月9日〈応安4年3月23日〉- 1382年5月24日〈永徳2年4月11日〉)[6]。諱は緒仁(おひと、旧字体:緖仁)。
後光厳天皇の第二皇子。母は左大臣広橋兼綱の養女の広橋仲子(崇賢門院、実父は石清水八幡宮の神職善法寺通清〈紀通清〉)。仲子の実姉紀良子が生母にあたる室町幕府第3代将軍足利義満とは、従兄弟同士に当たる。
譲位後の永徳3年(1383年)には、配偶者にあたる三条厳子(後小松天皇生母)への傷害事件を起こしている。
概要
延文3年(1359年)、後光厳天皇の第二皇子として誕生。後光厳天皇は、兄の崇光上皇との間に皇位継承問題を抱えていたが、幕府や公卿らの支持を得て、第二皇子への譲位を実現させた。(→#皇位継承問題と践祚)
ところが、後光厳上皇による院政は、春日神木の在洛により挫折し、さらに、後円融天皇の即位礼も践祚から4年を経て挙行されるという前例のないものであった(→#春日神木入洛)。
後円融による親政が行われる中、北朝の政務や朝儀は急速に停滞・衰退してゆく。その中で、後円融は二条良基や足利義満といった臣下とたびたび衝突した。義父にあたる三条公忠とも軋轢が生じている。(→#諸臣との衝突)
後小松天皇への譲位直後、義満との対立が激化し、後円融は即位礼の準備および出席を放棄するまでに至った。永徳3年(1383年)から義満との関係はさらに悪化し、義満が献上した正月儀礼の費用を突き返して仙洞御所の正月行事がすべて中止となったり、父後光厳天皇の供養仏事に公卿が参加しないなどの事態が発生している。(→#混迷を極める譲位・#義満との関係悪化)
そして、後光厳天皇の仏事より2日が経った日の夜、些細なきっかけにより、後小松の生母にあたる三条厳子を刀の峰で打擲し、出血多量の重傷を負わせるという傷害事件を起こす。さらには、義満が自身を流罪に処そうとしていると思い込み、持仏堂に立て籠もったうえで、切腹すると宣言した。(→#傷害事件・#自害を図る)
結局、母仲子のとりなしで切腹はせず、仲子の邸宅に引き取られると冷静さを取り戻した。以後は義満や良基との関係修復が図られ、義満も後円融院政の仕切り直しを行った。(→#良基・義満との関係修復)
その後は特に目立った行動は無く、明徳4年(1393年)4月に36歳の若さで崩御した。後円融上皇の崩御をもって、公家による政治は事実上終焉を迎えたとされる。(→#崩御・#後円融院政)
生涯
※和暦を原則としつつ、()の中に西暦年を併記した。なお、特段必要の無い場合南朝元号は併記せず、北朝元号を使用した。
※「後円融天皇」は没後に定められた称号であるが、生前の記述においても、在位中は「後円融天皇」、譲位後は「後円融上皇」とする。
※特記する必要のない場合や登場二回目以降の場合は、後円融天皇→後円融、足利義満→義満といったように人物名を略式にした。
※注意がない場合、年齢は数え年である。
践祚
皇位継承問題と践祚
延文3年(1358年)12月12日、後光厳天皇の第二皇子として誕生した[10]。母は広橋仲子。仲子の実父は善法寺通清であり、その娘の紀良子が室町幕府第3代将軍足利義満を生んだため、後円融天皇と義満とは実の従兄弟にあたる。
後光厳天皇には、正平一統のとき南朝に廃された崇光上皇がいたが、皇位継承面において、後光厳の皇子に先んじて崇光の皇子栄仁が親王宣下されるなど、後光厳は出遅れていた。
応安3年(1370年)8月、後光厳は第二皇子へ譲位する意向を示し、幕府管領の細川頼之に使者を派遣した。結果は、後光厳が「心中歓喜」するものとなり、これを聞きつけた崇光も使者を派遣したが、「先立ちて聖断たるべきの由、奏聞す。武家更に是非を申しがたし」と、要請を拒絶されてしまった。後光厳は太閤二条良基にも相談し、こちらも「為悦歓喜」する結果となった。崇光は後光厳に弁明しようとしたが、勅使の任を命じられた良基と勧修寺経顕はどちらも固辞する。
かくして、後光厳は幕府と公卿らの支持を得、応安4年3月21日、第二皇子は緒仁という諱で親王宣下され、23日には元服と譲位が行われた。(以後、後円融天皇とする)同時に、後光厳上皇による院政が開始された。
春日神木入洛
後円融の即位礼は12月19日に行われることとなった。ところが、挙行直前の12月2日、興福寺の衆徒が春日神木[注 2]を奉じて入洛し、嗷訴[注 3]を起こした。後光厳は当初迅速に対応したが、即位礼を年内に挙行したい後光厳は、神木を洛外に遷そうとした。これが衆徒の怒りを招き、後光厳の側近らが次々と放氏に処された。後光厳院政は手足を失った格好となってしまう。
衆徒との交渉は難航・停滞し、ついに即位礼は前例のない践祚翌々年にずれ込むことが確定してしまった。応安6年(1373年)7月には、後光厳が自ら交渉に乗り出したが、衆徒の下層部にあたる六方衆と激しく対立し、そのさなか、後光厳は疱瘡を患い、応安7年(1374年)1月29日に崩御した。
結局、後円融の即位礼は神木帰座直後の12月28日に挙行された。践祚から足掛け4年を経た開催であった。
治世
親政の開始
後光厳の急逝により、政治的な空白が生じてしまった。ところが、後円融は17歳と、後見が必要な年齢であったため、朝廷における政務の一切は良基が執り行うよう、幕府から申し入れがあった。しかし、後円融は、父の中陰が明けた直後の応安7年(1374年)4月7日に奏事始を行い、同日に議定衆と伝奏を指名した。なお、この際、良基は放氏を理由に指名されなかったが、このころからすでに後円融は良基の影響力を排除しようとしていたのではないかと小川剛生は指摘している。後円融が雑訴を親裁し始めると、良基は自身がすべて決定すべきであると主張し、対する後円融はその主張を却下している。即位礼においても、後円融は、二条家が行うべき即位灌頂を、良基からではなく尊道法親王から独自に受けたという。
ともあれ、永和元年(1375年)2月21日に鬼間議定始がなされ、3月18日には御前議定始と記録所始が執り行われ、後円融の親政は正式に開始された。
義満の朝廷進出
ところが、後円融親政においては、公家政権が行ってきた訴訟制度の整備や商工業者への課税といった、実質的な政務が急速に衰退した。さらに、朝儀の廃絶も著しく、御斎会・女叙位・踏歌節会・石清水臨時祭・灌仏会・最勝講・乞巧奠・例幣・神今食・京官除目がこの期間に廃絶している。
寺社からの嗷訴も頻繁に起こり、北朝は政務・朝儀の停滞に陥る。こうした北朝の危機を受けて、良基は義満に期待し、朝儀の作法を伝授し始めた。義満は朝廷での昇進を重ね、永和4年(1378年)8月には、権大納言と、公家社会では競望の的であった右近衛大将とを兼任するに至った。翌康暦元年(1379年)7月には、武家としては初めての拝賀を遂げている。
さらには、南都北嶺からの嗷訴、外宮の遷宮、日吉神輿造替といった公家社会の諸課題も、義満が積極的に介入して解決した。義満は、それまでの将軍とは異なり、公家社会の一員として北朝を支えてゆくことになる。
康暦元年(1379年)8月14日、またしても春日神木が入洛したが、神木の帰座を待たず、義満が10万疋の献金を行い、後光厳天皇七回忌の法要が盛大に行われた。そして、神木在洛中、藤原氏ではない公卿の義満を中心としていくつかの朝儀が再興され、義満を放氏することが出来ず、もはや神木在洛の意味が失われてしまった。そして、義満が右大将として明春の節会に出仕することを決定し最後通牒を突きつけると、公卿や殿上人の供奉もないまま、神木は帰座することとなった。これを最後として、春日神木の入洛は行われなくなる。
諸臣との衝突
そうした中、後円融は良基や義満といった臣下とたびたび衝突した。
前述のとおり、後円融と良基は早くから対立の兆しが見えるが、永和3年(1377年)正月には、准三后となった良基が年爵の申請を辞退するといった事件が発生している。これは、義満の侍医であった坂士仏を法印に叙す件を後円融が良基に相談した際、良基が幕府の頼之に相談したことが後円融の逆鱗に触れたためであったという。
永徳元年(1381年)8月には、配偶者にあたる三条厳子の父三条公忠との間に軋轢が生じている。12日に公忠は義満に京都の土地を要求したが、「京都の地の事、公家御計なり」という原則があったため義満は困惑し、結局義満は推薦という形で武家執奏を行った。自身の権限が侵害された形となった後円融は、「以外(もってのほか)に御腹立」となり、数日返答を延ばしたのち、公忠の要求を拒絶した。ところがその後、後円融は一転して要求を受け入れて綸旨を発した。しかし同時に、「口もきかず顔も見たくない」として厳子を追放してしまったという[注 4]。
また、同月9月には、後円融の勅裁延引によって義満が激怒するという事件が起こった。右近庁頭に中原職富を補すように義満が武家執奏を行ったが、後円融の返事が大幅に遅れたため義満が激怒し、それを聞きつけた後円融は慌てて勅裁を下している。
公武関係をめぐって諸臣と衝突する後円融の姿は、幕府が朝廷の権限を吸収したとする「権限吸収論」が根強かった時代において、「王朝権力を吸収しようとする武家に最後の抵抗を示し、孤独に闘う王者」として捉えられていた。しかし2020年現在の研究においては、義満の「公家化」が進む中で、後円融が精神的に追い詰められていったというように捉えられている。また、衝突の原因を後円融の個人的性格に求める意見もあり、小川剛生は、後円融を「癇癖の強い人」とし、石原比伊呂は、「やるべきことをちゃんとやらない(できない。しかも、すぐにへそを曲げる)」としている。
譲位
混迷を極める譲位
永徳元年(1381年)冬、後円融は義満に、皇子幹仁へ譲位する意向を示した。11月30日、参内した義満に、後光厳と崇光の因縁を説明したうえで、「朕進退の事もよくよく存知すべし」と命じた。義満は即答を避けたが、12月24日、本命の幹仁のほか、後円融の弟宮の存在も挙げたうえで、「器用の事(皇位継承者)、真実に武家の所存たるべし、計らひ申すべし」と迫った。すると義満は、「兄弟などは私ざまにも始終は只不快の習ひなり、いたづらに又若宮おはす、なにとてかくの如く仰せい出さるや」と述べ、幹仁への譲位を支持した。さらに義満は、後円融が崇光上皇一家の動向を恐れていることを指摘して、「縦ひ(たとい)誰人引級申すとも、此の如く我が身候はんほどは、心安く思し食さるべし」(たとえ誰が崇光院一家に肩入れしても、こうして私がいる限りは、ご安心下さい)とまで述べている。
ところがその後も、後円融は何度も義満の真意を確認した。桃崎有一郎は、義満の発言は後円融との密室でなされたものであるので、後円融は公の場において明言して欲しかったとしている。翌永徳2年(1382年)閏1月11日、義満は何度も同じことを聞いてくる後円融に苛立ち、「今は外様より奉り、ひし〳〵と沙汰あるべきばかりなり(中略)相国などにもしかるべきか」と、内々の仰せはもう不要であり、良基を通じて公的なルートで教えてくれればよい、とした。
永徳2年(1382年)4月7日、幹仁親王の着袴の儀が室町第(義満邸)にて行われ、11日、中園第(洞院公定邸)にて後円融の譲位が、土御門東洞院殿にて幹仁(後小松天皇)の践祚が行われた。後円融上皇は院政を敷き、執事別当には義満が、院執権には裏松資康が補されたが、院評定は一向に開催されなかった。
後小松の即位礼の準備は、摂政の良基と左大臣義満が協力して進めたが、自身が差し置かれている状況に後円融は立腹し、即位礼の準備を放棄するに至った。10月27日夜に義満が後円融の仙洞御所に赴き、即位礼の指揮をするように奏上するも、後円融は沈黙して不快の意を示した。すると義満は憤怒して退出してしまったという。一条経嗣は自身の日記(『荒暦』)に、「叡慮、尤も不審」と記し、公忠も日記(『後愚昧記』)にて、「仙洞の御意、毎事尋常ならず」や、「武家と乖離して豈に御意を達せらるべけんや」(いくらあがいたって義満がいなければ何もできないくせに)とまで述べている。結局、即位礼は良基と義満の主導で行われ、12月28日につつがなく挙行されたが、後円融は即位礼を欠席している[注 5]。
錯乱
義満との関係悪化
永徳3年(1383年)、後円融の周辺はさらに混迷を極め、後円融は義満の献じた正月儀礼用の費用を突き返し、仙洞御所での行事はすべて停止された。『荒暦』には、次のようにある。
新院
御薬幷びに拝礼以下、
元三の儀一切停止せらる、希代の珍事なり、旧年より子細有りてかくの如し、言ふ莫れ言ふ莫れ、(中略)抑も新院と武家との間、以ての外(ほか)なり、旧冬廿九日貢馬幷びに元三要脚以下沙汰し進らすと雖も、御違例の由を称して、悉く返し遣らる、所詮御生涯一途に思し食し定めらるゝの由、仰せ遣らる、然りと雖も武家強ち又驚動せられず、仍て貢馬禁裏に引き進らす、要脚以下重ねて進らすことあたはずてへり、随ひて院中格子を下し閉門し給ひ、離宮の如しと云々、仙洞治政の始、かくの如き事定めて先規無きか、凡そ言詞の覃ぶ(およぶ)所に非ざるのみ、
さらに、1月29日に開かれた後光厳天皇の供養仏事では、人々が義満を憚ったため、「良憲僧正・院司一両の外、参仕の人無しと云々」という有様となった。
傷害事件
2月1日夜、後円融が厳子[注 6]を御湯殿(風呂場)に呼ぶと、厳子は入浴の手伝いに必要な湯巻と袴が手許になかったため、参上しなかった。すると、後円融は厳子の部屋に乱入し、刀の峰で厳子を散々に打ち据えた。厳子は出血多量の重傷を負い、何度も意識不明に陥っている。
知らせを受けた三条家では、公忠の妻が裸足で駆け出すほどであったという。公忠は日記に、「たとえ娘に罪があったとしても、上皇たる方がこのような振る舞いをなさるというのは信じられない。前代未聞である」と、激しい怒りを記している。
翌2日、ようやく厳子の出血が止まり、同日後円融の生母である仲子が仙洞御所(中園第)に駆けつけ、後円融を酒でなだめて気を引きつつ、密かに厳子を脱出させた。この事件を聞きつけた義満は、医師を派遣するなど手厚い配慮を見せている。
自害を図る
事件から8日後の9日には、後円融が丹波国山国荘へ没落するという噂が立ち、義満から連絡を受けた仲子が再び仙洞御所に駆けつけて、どうにか制止することができた。同日義満は、仙洞御所と室町第がわずか数町の至近距離にあることをふまえ、仲子を通じて北山への御幸を提案した。ところが後円融は、離宮に遷されてから配流された後鳥羽天皇や後醍醐天皇の例を想起してか、自身が流罪に処されると思い込んで恐怖した。経緯を聞いた一条経嗣は、「聖運の至極なり」(天皇・王家の命運はもう尽きる)と嘆いている。
さらに11日には、寵愛していた按察局と義満との密通を疑い、按察局を出家させたうえで追放した。
そして14日、義満が後円融を流罪にして京都から追放するという噂が後円融の耳に入ると、仙洞御所を訪れた義満の使者を流罪を告げる使者と思い込み、持仏堂に立て籠もって、切腹すると宣言した。
結局、この際も仲子の取りなしがあって気を静め、16日夜、仲子に伴われつつ、後円融は北山の梅町殿(梅松殿)に移った。
良基・義満との関係修復
仲子の住む梅町殿に移ると、後円融は急におとなしくなり、3月1日には、按察局との密通を否定する義満の誓状も受け入れた。
3月3日には、後円融は義満と同じ車に乗って、新居となる小河殿(勧修寺家の邸宅)に遷幸した。28日にはようやく院評定が開催され、5月28日には後円融・良基・義満の三者で酒宴が開かれ、関係修復が図られている。
この事件の背景としては、崇光上皇の院政を阻止すべく義満が行った家司編成(院政を支える名家・羽林家の廷臣を、義満の家司に取り込んだ)が、結果として後円融の近臣集団も解体してしまったことが、家永遵嗣によって指摘されている。そのため義満は、事件後に後円融院政の仕切り直しを行い、新たな院執権である勧修寺経重を中心とした新たな近臣層が形成された。
その後、理性を取り戻した後円融は、義満に大きな借りを作ってしまったことに気づき、6月26日、ときに従一位左大臣であった義満に最大限の優遇を与えるべく、准三后を宣下した[注 7]。
崩御
その後の後円融には、残存する史料が少ないという事情もあるが、特に目立った動向は見られない。そして、南北朝合一後の明徳4年(1393年)4月26日、仙洞御所の小河殿にて崩御した。宝算36。
政治
後円融親政
後円融親政においては、後光厳親政と同じく毎月6日・16日・26日に雑訴沙汰が開かれた。国政審議の場である議定も開かれている。
もっとも、後光厳親政同様、本来は別日に開かれる記録所庭中も雑訴沙汰と同日の開催とみられ、また参仕人の懈怠も目立つ。森茂暁は、雑訴沙汰も「活発な機能を認めることは到底できない」としている。
記録所に関しても、康暦元年(1379年)までは一応機能していることが窺えるものの、それ以降は急速に衰退し、後花園天皇が在位していた文安元年(1444年)には、「記録所御沙汰久中絶」という状態となる。
また、後円融親政期より、朝廷が有していた一国平均役賦課権・京都の警察権などが幕府に渡っていき、京都市政権は朝廷から幕府へ移っていったとされる。
後円融院政
後円融院政においては、院評定始が一応は行われているものの、その実質的な意味はほとんど喪失していた。雑訴沙汰や文殿の活動は、もはや窺い知ることができない。
もっとも、森によれば、検非違使庁の活動に関しては至徳末年までは確認できるという(この時期をもって検非違使庁は衰滅)。
京都市政権は後円融親政期より幕府に渡りかけていたが、後円融上皇の崩御後の明徳4年(1393年)11月、義満は自身の経済政策の総決算として、土倉役・酒屋役の恒常的な課賦を始めている。
美川圭は、南北朝合一(1392年)および義満の隆盛と時を同じくした後円融の崩御をもって、宮廷貴族による政治は事実上終焉を迎えたとしている。
人物・評価
後円融を見る周囲の目は当時から厳しいものがあったが、研究者の間でも厳しい評価が存在する。
石原比伊呂は、「後円融は『なんでもかんでも幕府に相談するのはやめろ!』という人で、他者の影響力を排除し専断したい人であった。しかし、いかんせん、その能力が皆無だった」と評している。また、後光厳や足利将軍家も嗜んだ笙の習得を義満が勧めたところ、後円融がどういうわけかはぐらかしたという出来事を挙げ、「常識的な判断のできる人物ではなかった」とも述べている。
桃崎有一郎は、後円融を、その孫の称光天皇と並んで「微塵も天皇らしく振る舞えなかった」としている。
一方で、義満による「王権簒奪計画」の存在を主張した今谷明は、後円融の錯乱に触れたうえで、「少なくとも上皇側には同情すべき事情が多く、また上皇の行状も、はかない抵抗とはいえ、不敬を示す義満に正面から立ち向かおうとした人間的な言動として、個人的には感動を覚える場面すらある」と述べている。
系譜
系図(皇統譜)
系図(本朝皇胤紹運録)
后妃・皇子女
以下、主に(図書寮(2) 1947, pp. 323–355)による。
- 上臈:三条厳子(通陽門院)(1351年 - 1406年) - 三条公忠女
- 第一皇子:幹仁親王(後小松天皇)(1377年 - 1433年)
- 第一皇女:珪子内親王(1381年8月5日 - 1399年4月12日)
- 典侍:四条今子(帥典侍・大典侍局) - 四条隆郷女
- 第二皇子:道朝法親王(上乗院宮)(1378年 - 1446年)
- 後宮:藤原氏 - 正親町三条実音女
- 後宮:橘氏(按察局) - 橘知繁女
- 生母不詳
- 皇女(? - 1391年) - 落飾
- 皇女 - 大聖寺門跡
在位中の元号
葬礼
後円融上皇は崩御の際、父後光厳天皇と同じく、竹岩聖皐を戒師として臨終出家を行った。4月27日に、葬儀が泉涌寺にて行われ、遺骨は深草法華堂に納められた。また、同日朝廷にて、遺詔奏・警固固関が行われ、後小松天皇より廃朝五箇日が宣下された。
後円融上皇の葬列には、現任の左大臣である足利義満が供奉しており、それまでの天皇経験者の葬儀は院司や外戚などが中心であったため、甚だ異例なことであった。このことについて、後世の三宝院満済は、義満の「一段の懇志」によるとしているが、南朝の残党や崇光法皇の存在を背景として、義満が「一段の懇志」を演出して後光厳院流を支えなければならなかったと、島津毅は指摘している[94]。
陵・霊廟
陵(みささぎ)は、宮内庁により京都府京都市伏見区深草坊町にある深草北陵(ふかくさきたのみささぎ)に治定されている[95]。宮内庁上の形式は方形堂。泉涌寺別院雲龍院にある分骨所が、「後円融天皇分骨所」として治定されている[96]。
脚注
注釈
- ^ 明治時代まで一般的であった『本朝皇胤紹運録』による天皇代数では、後円融天皇は100代天皇[5]。
- ^
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春日神木.
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春日神木(かすがのしんぼく)とは、奈良春日大社において、榊(もしくは梛)の枝に春日明神の御神体(依代)である神鏡を付けて注連をかけて神木とした物。強訴の際の神威として掲げられることも多かった。
- ^
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強訴.
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強訴(ごうそ)とは強硬な態度で相手に訴えかける行動を指す。「嗷訴」とも。
特に日本の平安時代中期以後、寺社勢力が仏神の権威と武力を背景に、集団で朝廷・幕府に対して行った訴えや要求、江戸時代に農民が領主に対して年貢減免などを要求したことを指す。
- ^ なお、公忠はこの土地を辞退したが、後日、前回申請した土地の二倍もの面積にあたる土地を後円融より与えられた。ところがその数か月後、後円融は、武家執奏によって与えられた良基と公忠の土地を除外するという条件付きで、京都の土地を本主に返還させる命令を発する。これは後円融の公忠に対する嫌がらせであり、後円融から土地を辞退しなければ厳子を咎めると伝えられると、公忠はこの土地も辞退するに至った。
- ^ 上皇が天皇の即位礼に参加した例としては、光明天皇の即位礼にて、治天の君であった兄の光厳上皇が会昌門外に牛車を立てて見物した例がある[58]。
- ^ 1月12日、産後わずか20日であった厳子は、後円融の矢の催促により実家から帰参していた。
- ^ 太政大臣は老年の臣下に対する名誉の官であり、このとき26歳であった義満には相応しくなかった。
- ^ 『雍州府志』や「石清水祠官系図」によれば、善法寺宮清が後嵯峨上皇から格別の恩顧を蒙り、「懐胎之宮女」を賜って生まれた子供が尚清であるという[90]。
出典
参考文献
外部リンク
ウィキメディア・コモンズには、
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