神武天皇即位紀元 (じんむてんのうそくいきげん)は、初代天皇 である神武天皇 が即位したとされる年を元年 とする日本 の紀年法 である。『日本書紀 』の記述に基づき、元年を西暦 (キリスト 紀元)前660年 としている。
通常は略して皇紀 (こうき)という[ 1] 。その他、紀元 、神武紀元 、皇暦 (こうれき)、神武暦 (じんむれき)、日紀 (にっき)[ 2] 等の名称がある。
概説
昭和 13年(1938年 )に発行された五十銭紙幣 神武天皇即位紀元で「紀元二千五百九十八年」と記載されている
日本 では明治 5年(1872年 )に神武天皇即位紀元を制定するまでは、紀年法 として元号 や干支 を使用(あるいはそれらを併用)していた。明治維新 後、政府 は西洋 に倣って、暦法 を改め太陽暦 を採用するとともに、紀年法として紀元 を使用することにした。
明治 5年(1872年 )、政府は太陰太陽暦 から太陽暦 への改暦を布告し、その6日後に神武天皇即位を紀元とすることを布告した[ 注 1] (詳細は後節の「制定 」を参照)。
ただし、神武天皇即位紀元の元年は西暦紀元前660年に相当するが、この根拠となっている『日本書紀』の紀年は信頼性に疑問符が付き、神武天皇が西暦紀元前660年に即位したことを歴史的事実とするには歴史的証拠に欠けるとされている(詳細は後節の「元年を西暦紀元前660年とする根拠と妥当性 」を参照)。
戦前 、戦中(第二次世界大戦 前)の日本では、単に「紀元」というと神武天皇即位紀元(皇紀)を指していた。条約 などの対外的な公文書 には元号 と共に使用されていた[ 3] 。なお、戸籍 など地方公共団体 に出す公文書や政府の国内向け公文書では、皇紀ではなく元号 のみが用いられており、皇紀が多用されるようになるのは昭和 期になってからである。他に第二次世界大戦前において皇紀が一貫して用いられていた例には国定歴史教科書 がある。
戦後 (第二次世界大戦後)になると、単に「紀元 」というと西暦を指す事も多い。戦後は神武天皇即位紀元はほとんど使用されなくなっており、政府の公文書でも用いられていない。しかし、明治時代に公布された法令の中に現在でも有効な法令があり、その中に、神武天皇即位紀元の記述がある法令が存在する[ 4] (詳細は後節の「神武天皇即位紀元が使われている現行法令 」を参照)。
現在では、日本史 や日本文学 などのアマチュア愛好家、観光 事業者、神道 関係者、居合道 団体の一つである全日本居合道連盟 などが使用している。
日本以外では、神武天皇即位紀元をグレゴリオ暦 に換算した西暦紀元前660年2月11日 を、初代天皇即位や日本国建国の「伝承的日付」「神話的日付」と位置付けていることがある[ 注 2] 。
江戸時代まで
神武天皇即位紀元に類する表現の初見は、平安時代 初期(弘仁 2年〈811年 〉)に成立した『歴運記』[ 注 3] である[ 5] 。そこには「従天皇(神武)元年辛酉 、至今上 弘仁 二年辛卯 、合一千四百七十一年也」と記述され、神武天皇即位から弘仁 2年(811年 )まで1471年と計算されている[ 6] 。
南北朝時代 、公卿 の北畠親房 は、延元 4年/暦応 2年(1339年 )の自著『神皇正統記 』の崇神天皇 の条で「神武元年辛酉 ヨリ此己丑 マデハ六百二十九年」と書いており、雄略天皇 の条では、外宮の鎮座について「垂仁天皇 ノ御代ニ、皇大神(天照大神 )五十鈴ノ宮(皇大神宮 )ニ遷ラシメ給シヨリ、四百八十四年ニナムナリケル。神武ノ始ヨリスデニ千百余年ニ成ヌルニヤ」と記している[ 7] 。
江戸時代 になると、『大日本史 』の編纂に参画した儒学者 の森尚謙 は、元禄 11年(1698年 )に執筆した『二十四論』中の「日本、唐に優る八」の「一 皇祚」の項で、「恭しく惟ふに我が大日本は、天神七代 、地神五代 、その嗣を神武天皇と稱し奉る。其の即位元年辛酉 より今元禄 十一年戊寅 に至るまで二千三百五十八年。皇嗣承継、聖代の数一百十四代(後略)」と記し、神武天皇即位から元禄 11年(1698年 )まで2358年であることを述べた[ 8] [ 9] 。
水戸学 者の藤田東湖 は、天保 11年(1840年 )が『日本書紀』が記す神武天皇即位の年から丁度2500年目にあたっていることから「鳳暦二千五百春 乾坤依旧韶光新」という漢詩を作った[ 10] [ 11] 。また、弘化 4年(1847年 )、藤田東湖は自著の『弘道館記述義 』において、「正史の紀年は神武天皇辛酉 元年に始まる。辛酉より今に至る迄、二千五百有余歳、神代を通じて之を算すれば、凡そ幾千万年なるをしらざるなり(原漢文)」と書き、神武天皇即位元年が歴史の紀年の始めであることを宣揚した[ 9] 。
幕末 に入ると、津和野藩 の国学 者・大国隆正 は、安政 2年(1855年 )に著した『本学挙要』のなかで、西洋にキリスト紀元があることを指摘した上で、神武天皇の即位を元年とする「中興紀元」を提唱した[ 12] 。当時は開国 か攘夷 か、尊皇 か佐幕 かで大きく揺れていた時代であって、神武天皇即位からの年数をかぞえる紀年法(紀元)は尊皇思想と結びついていた[ 13] 。
制定まで
慶応 3年12月9日 (1868年 1月3日 )、王政復古の大号令 が発せられ、新政府が樹立した。王政復古の大号令に「諸事神武創業ノ始ニ原ツキ」とあるように、新政府は「神武創業ノ始」に回帰することを標榜したが、この決定に与って力があったのは、「中興紀元」を提唱した大国隆正 の門人 の玉松操 であった[ 5] 。
その後、一世一元の詔 により明治改元 と「一世一元の制 」が実現したが、明治 2年(1869年 )4月 、刑法官 権判事の津田真道 は集議院 に対し「年号ヲ廃シ一元ヲ建ツ可キノ議」を建議した。津田は年号を使った年月日の表記は煩雑で分かりにくいのでこれを廃して紀元を採用すべきだとした。また、西洋のキリスト生誕紀元(西暦)やイスラーム のヒジュラ紀元 、ユダヤ教 の天地開闢紀元 などいくつかの紀元を例に挙げ、日本も独自の紀元を設けて、以降はそれを使い続けるべきだとした。そしてその我が国独自の紀元として神武天皇即位を紀元とすべきだと主張した[ 13] 。
制定
明治 5年11月15日 (1872年 12月15日 )、神武天皇即位を紀元とすることが「太陰暦ヲ廃シ太陽暦ヲ行フ附詔書 」(改暦ノ布告、明治5年太政官布告 第337号)[ 14] [ 注 4] 公布後に「太陽暦御頒行神武天皇御即位ヲ以テ紀元ト定メラルニ付十一月二十五日御祭典」(明治5年太政官布告第342号)[ 注 5] で布告された。
今般太陽暦御頒行 神武天皇御即位ヲ以テ紀元ト被定候ニ付其旨ヲ被爲告候爲メ来ル廿五日御祭典被執行候事
但當日服者[ 注 6] 参朝可憚事
— 「太陽暦御頒行神武天皇御即位ヲ以テ紀元ト定メラルニ付十一月二十五日御祭典」(明治五年太政官布告第三百四十二号)[ 15] [ 注 7]
口語訳するに「このたび(天皇陛下 が)太陽暦 を頒布され、神武天皇の御即位を紀元と定められたので(天皇陛下が)その旨を(神武天皇の御霊に)お告げになるため、来たる25日に(天皇陛下が)御祭典 を執り行われることになった(ので参内する資格のある者は出席すること)。ただし25日が喪中となるものは参内を遠慮すること」となる[ 16] 。この布告の主旨は、神武天皇即位紀元の制定と祭典 の実施を通知することであった。
公文書では、外務省外交史料館 が所有する、明治5年11月19日 (1872年12月19日 )に外務省 が各国の公使 と領事 へ、翌年から太陽暦に改正する旨を通知した文書に「神武天皇即位紀元二千五百三十三年 明治六年」と見える[ 17] 。
制定後
神武天皇即位紀元を制定した後、文書の日付の書き方をどのように統一するのか(年号を廃して紀元一本とするのか、年号と併用するのか、その場合にどちらを主とするか、など)という懸案事項が残った。政府は神武天皇即位紀元の制定から時を隔てず、明治 6年(1873年 )1月9日 、左院 に紀元と年号の問題を審議させたところ、左院の回答は
紀元が制定されたからには年号の使用は考えられない。年号の使用は公私ともにこれを禁止すべきだ。
正式の表記は「二千五百三十三年」のように、略式は「二五三三年」のように記す。
というものであった。政府があらためて年号と紀元の併用を方針として再度下問したところ「(年号と紀元の併用に)異議無し」との回答が得られた[ 13] 。
明治時代に政府は年号と皇紀の併用を前提として、国書・条約・証書から私用にいたるまでの使用例を細かく規定した。それによると最も正式な文書には皇紀と年号を併記することとし、略式、あるいは私的な文書には年号の単独使用、もしくは月日のみの記載を可とすることになった[ 13] 。
元年を西暦紀元前660年とする根拠と妥当性
元年を西暦紀元前660年とする根拠
『日本書紀』神武天皇元年正月朔の条に次のような記述がある。
「辛酉年春正月庚辰朔 天皇即帝位於橿原宮是歳爲天皇元年」
(読み下し文 :辛酉年 ( かのととり ) 春正月 ( はるむつき ) 庚辰 ( かのえたつ ) 朔 ( ついたち ) 。天皇 ( すめらみこと ) 、橿原宮 ( かしはらのみや ) に於いて即帝位 ( あまつひつぎしろしめ ) す。是歳 ( ことし ) を天皇元年 ( すめらみことはじめのとし ) と爲す)
— 『日本書紀』卷第三 神日本磐余彦天皇
ここでの「辛酉年」は西暦紀元前660年にあたる。その理由は以下のとおりである。
『日本書紀』の紀年法は、誕生から東征開始まで神武天皇の年齢で記された45年間、干支で記された神武東征 の7年間、元号を用いた時代(大化 、白雉 、朱鳥 )以外はその時の天皇の即位からの年数で表している。また、天皇の崩御の年の記載もあり、さらに歴代天皇の元年[ 注 8] を干支で表している[ 注 9] 。『日本書紀』のこれらの記述から歴代天皇の即位年を遡って順次割り出してゆけば、神武天皇即位の年を同定できる。これを行って神武天皇の即位年を算定すると、西暦紀元前660年となる。
日本国外の歴史書では『宋史』日本国伝 (『宋史』卷491 列傳第250 外國7日本國[ 18] )に「彦瀲第四子號神武天皇 自築紫宮入居大和州橿原宮 即位元年甲寅 當周僖王時也 」とあり、ここでは神武天皇の即位年は周 の僖王 の時代[ 注 10] の甲寅 (紀元前667年 )としている[ 注 11] [ 注 12] 。一方、三善清行 は革命勘文 において神武天皇即位を辛酉の年とし[ 注 13] 、これは僖王3年に当たると述べている[ 19] 。
明治維新後、前述のように神武天皇即位が紀元と定められ、上記の『日本書紀』の記述に基づいて紀元と元号との対応関係が規定され、公文書などに用いられることとなった。また、神武天皇が即位したとされる「辛酉年春正月庚辰朔」はグレゴリオ暦 の紀元前660年2月11日に比定された[ 注 14] 。これに基づいて政府は「年中祭日祝日休暇日ヲ定ム」(明治 6年太政官布告第334号)[ 20] で2月11日 を紀元節 と定めた(詳細は「紀元節 」を参照 )。
年代の妥当性
しかしながら『日本書紀』の記述を素朴に信頼し、神武天皇の即位を西暦紀元前660年にあたる年とすることには江戸時代から批判がなされてきた。たとえば、藤貞幹 は『衝口発』[ 注 15] で、神武天皇元年辛酉は周 の恵王 17年(西暦紀元前660年)の600年後としなければ三韓 との年紀に符合しないことを述べた[ 21] 。
神武天皇の即位を西暦紀元前660年とすることを否定する根拠の一つに『古事記』や『日本書紀』において初期の天皇の在位年数が不自然に長く、年齢も非現実的な長寿とされていることが挙げられる。
考古学 の分野では西暦紀元前660年は、伝統的な土器 様式などに基づく編年 によれば縄文時代 晩期、平成 15年(2003年 )以降に国立歴史民俗博物館 の研究グループなどが提示している放射性炭素年代測定 に基づく編年によれば弥生時代 前期にあたる[ 注 16] 。弥生時代前期にはまだ古墳は一般的でない。
寺沢薫 は卑弥呼 即位を3世紀初頭と見て「列島での権力中心地の移動という意味では、新生倭国の王都は結果的にイト国 から東遷したという言い方もできるかもしれない」とし、東遷の史実性には限定的ながら理解を示すが、年代は大幅に修正している[ 22] [ 注 17] 。
神武天皇の即位の年は辛酉年とされるが、中国で干支紀年法が確立したのが太初暦 が採用された紀元前104年 あたりとされる。それ以前には木星 の鏡像である太歳 の天球 における位置に基づく太歳紀年法 が用いられており、11.862年である木星の公転周期から約86年にひとつずれる「超辰」が行われた。こうした中国での干支紀年法の成立の歴史を鑑みるに、紀元前660年相当の時代を干支紀年法で記載しているというのはオーパーツと言える。
辛酉革命説
なぜ『日本書紀』において神武天皇の即位の年が西暦紀元前660年にあたる年に設定されたのかについて、江戸時代から様々な説が唱えられてきた。その一つに、『日本書紀 』の編纂者が紀年を立てるにあたって辛酉革命 説[ 注 18] を採用し、これを基に神武天皇の即位の年を設定したのではないかと考える説がある[ 注 19] (詳細は辛酉#辛酉の年 を参照 )。
辛酉の年は60年に一度必ずやってくるにもかかわらず、紀元前660年という紀年が選ばれた理由についても歴史学者は様々な仮説を立てている。明治の歴史家として名高い那珂通世 は、古代史上で大変革の年であった推古天皇 9年(601年 )から1260年遡った辛酉の年を即位紀年としたと述べた。推古9年が大変革の年であったという理由として、その著『上世年紀考 』で「皇朝政教革新ノ時ニシテ、聖徳太子大政ヲ取リ給ヒ、治メテ暦日ヲ用ヒ、冠位ヲ制シ憲法ヲ定メ」と述べている。1260年というのは60年を「1元」、21元(1260年)を1蔀(ほう)として、1蔀ごとに大いに天命が改まるという讖緯家 の思想によるものである[ 23] 。
さらに有坂隆道 は『古代史を解く鍵:暦と高松塚古墳』で、推古9年は革命とは無縁の平穏な年であったとして、天武天皇 10年(681年 )から1340年遡った年を神武紀年としたと論じた。天武10年は天皇が「帝紀 及び上古の諸事を記し定め」させると詔した年であり、わが国初の正史編纂という画期的な年を基準としたというのである。1340という数字は当時最新の暦であった儀鳳暦 の周数(総法。天文の運行などを循環する数字で表したもの)であり、紀元前660年は天武10年から1340年遡った年であることから紀元として定められたという[ 24] 。
小川清彦の分析 によれば、日本書紀の朔日干支の記述は665年に作成された儀鳳暦 (日本で最初に伝わったであろうより古い元嘉暦 ではない)とよく合致するとされる。儀鳳暦より古い時代の暦は、19太陽年 が235朔望月 と等しいとして19年に7回の閏月 を入れるメトン周期 が用いられているが、このメトン周期は紀元前433年 にアテナイ の数学者のメトン によって見出されたとされ、日本書紀にあるように紀元前660年に日本で太陰太陽暦が用いられていたとすれば、より原始的な太陰太陽暦でなくては時代が合わない。しかし、そうした暦法を想定すると実際の日本書紀の朔日干支の記述と合致させることは難しい。渋川晴海 は日本書紀暦考にて辻褄合わせを試みているが、内田正男は日本書紀暦日原典にて「渋川晴海のように、架空の暦法を創造し、しかも度々の改暦を想像しない限り、閏字脱落のつじつまを合わせることはできない。問題をわざわざ複雑にする必要はない。儀鳳暦(平朔)が用いられたことを認めるべきであろう」と評している。
神武天皇即位紀元が使われている現行法令
「太陰暦ヲ廃シ太陽暦ヲ行フ附詔書 」(明治 5年太政官布告第337号、いわゆる「改暦ノ布告」)では、改暦によって導入された太陽暦の閏年 について4年毎に置くことしか述べておらず、グレゴリオ暦 の置閏法の例外的規則[ 注 20] [ 25] に相当する規定を置いていなかったが、その後1898年 に発された「閏年ニ関スル件 」(明治 31年勅令第90号)[ 注 21] により、日本の暦法はグレゴリオ暦の置閏法と同等の置閏法をもつこととなった[ 26] 。この勅令における閏年の判定は、西暦ではなく皇紀(神武天皇即位紀元)によっている。
明治三十一年勅令第九十号(閏年ニ関スル件)
神武天皇即位紀元年数ノ四ヲ以テ整除シ得ヘキ年ヲ閏年トス但シ紀元年数ヨリ六百六十ヲ減シテ百ヲ以テ整除シ得ヘキモノノ中更ニ四ヲ以テ商ヲ整除シ得サル年ハ平年トス
現代の表記に直すと次の通りである。
神武天皇即位紀元年数(皇紀年数)を4で割って、割り切れる年を閏年とする。ただし、皇紀年数から660を引くと100で割り切れる年で、かつ100で割った時の商が4で割り切れない年は平年とする。
これは、西暦年数から閏年を判定する方法と同値である。
なお、この勅令は、1947年の法律 を経て、法令として、現在でも効力を有する[ 27] 。また、西暦は法制化されていないため、長期紀年法としては、神武天皇即位紀元が、今でも法制上かつ暦法上の唯一のものである[ 28] 。したがって、閏年の判定には、現在も神武天皇即位紀元が用いられている[ 28] 。
紀元2600年記念行事
制式名など
昭和 に入って以降、第二次大戦中まで、日本の陸海軍(旧日本軍 )が用いた兵器の制式名称 には、主に皇紀の末尾数字を用いた年式が用いられている。
航空機を例に取ると「ゼロ戦」の通称で知られる大日本帝国海軍 の「零式艦上戦闘機 」は、皇紀2600年(西暦1940年 、昭和 15年)に採用されたことを示す名称である。したがって、同年の採用であれば「零式三座水上偵察機 」「零式輸送機 」など、同じ「零式」の名を冠することになる。ただし、この命名則には、陸海軍で若干の差があった。
陸軍
大日本帝国陸軍 の場合、航空機は皇紀2587年(西暦1927年 、昭和 2年)採用であることを示す「八七式重爆撃機 」「八七式軽爆撃機 」より皇紀を使用している(実際には両機とも翌年(1928年 ・昭和 3年制式採用)。また海軍と異なり、皇紀2600年制式採用の場合は、一〇〇式重爆撃機 、一〇〇式司令部偵察機 、一〇〇式輸送機 など、零ではなく百(一〇〇)を使用する。
皇紀2601年(西暦1941年 ・昭和 16年)以降は、例えば一式戦闘機 (通称隼 )のように、皇紀末尾一桁のみを使用している。
銃砲、戦車等の場合も命名則の基本は同様(「九七式中戦車 」「一式機動四十七粍速射砲 」など)。
また、皇紀による命名以前は、航空機 はメーカーの略号+続き番号であったのに対し、銃砲等は、元号による年式を用いた。例:明治 38年(1905年 )採用を示す「三八式歩兵銃 」など。
海軍
大日本帝国海軍 の場合、制式名称における皇紀の使用は陸軍よりやや遅く、航空機では皇紀2589年(西暦1929年 ・昭和 4年)採用であることを示す「八九式飛行艇 」「八九式艦上攻撃機 」より使用されている。ただ、実際には両機とも皇紀2592年(西暦1932年 ・昭和 7年)に制式採用。それ以前は元号による年式を使用しており、「三式艦上戦闘機 」は昭和 3年(1928年 )、一三式艦上攻撃機 は大正 13年(1924年 )の採用を示す。
また、海軍では皇紀2602年(西暦1942年 ・昭和 17年)の「二式水上戦闘機 」「二式陸上偵察機 」等を最後に航空機の年式名称を取り止め「紫電 」「彩雲 」「天山 」など、機種別にグループ分けされた漢字熟語の制式名称となった(これに対し、陸軍の「隼 」「飛燕 」などはあくまでも愛称であり、制式名称ではない)。
なお、海軍から各メーカーに対する開発要求については「十二試艦上戦闘機 」「十八試局地戦闘機 」など、一貫して元号が用いられている。
教科書の表記
第二次世界大戦 後、連合国軍最高司令官総司令部 は小学校の歴史に関する授業を停止。1946年 (昭和 21年)10月12日 に授業が再開されたが、新しい教科書『くにのあゆみ』では皇紀の表記が廃され、西暦表記に改められていた[ 29] 。
戦後に皇紀が用いられた例
宮内庁
宮内庁 は、庁内関係部署および職員の事務参考用として[ 30] 、歴代の天皇 ・皇族 の陵墓 についてまとめた書籍である『陵墓要覧』を、戦後では1956年 (昭和 31年)、1974年 (昭和49年)、1993年 (平成 5年)、2012年 (平成24年)に刊行している[ 31] 。それら全ての版において、歴代の天皇・皇族の崩御 ・薨去 の年は、皇紀で表記されている[ 32] [ 33] [ 34] [ 35] 。また、『陵墓要覧』では、歴代の天皇・皇族の式年(式年祭 を行う年)を並べた「式年表」も、全ての版で皇紀の表記がされており[ 36] [ 37] [ 38] [ 39] 、2012年(平成24年)に刊行された『陵墓要覧 第6版(最新版)』においては、式年が皇紀2721年(西暦2061年 )まで記載されている[ 40] 。
ニコン
日本光学 が戦後に試作から初めて製造した「ニコン(ニコンI型) 」に始まるカメラの個体に付けられた製品番号(シリアル番号)は、先頭が「6」から始まる。これはI型の出図が皇紀2606年(昭和 21年・西暦1946年 )9月であったことから「609」で始まる番号をI型試作品に付けたことに始まる[ 41] 。
安田生命保険
安田生命保険 が1970年 (昭和 45年)ごろにコンピュータ による個人情報 管理のシステムを構築したとき、作業に携わった技術者たちは、西暦1900年 (明治 33年)を「00年」として年を処理すると、顧客の生年月日など西暦1899年 (明治 32年)以前の情報の処理に不都合が生じることに気づき、あえて西暦の使用を避けて、皇紀2600年(西暦1940年 ・昭和 15年)を「00年」として用い、さらに負の数を皇紀2500年(西暦1840年 ・天保 11年)までの100年分を処理することのできるパック10進数 を採用することにした。この結果、偶然ではあるが、2000年問題 の影響を回避することができたと言われる。実際に2000年問題で安田生命保険の業務になんらかの支障や影響が生じたかどうかは公表されていない[ 42] [ 43] 。
インドネシア独立宣言文
10万ルピア 紙幣に印刷された独立宣言 右端に「05」の数字が見える
1945年 (昭和 20年・皇紀2605年)8月17日 、インドネシア の独立 がスカルノ およびモハマッド・ハッタ によって宣言された。
大日本帝国軍政期のインドネシア では、皇紀が使われていた(元号は用いられていなかった)。また、インドネシア独立宣言 草案は、軍政時代に設置された独立準備委員会 において起草、採択された。これは解放後に成立したもので、既に日本の影響力はなくなっていたが、インドネシア独立宣言の日付は皇紀2605年の下2桁と同じ、「05年」と記載されている[ 44] [ 注 22] 。スカルノの母はバリ島 出身であり、皇紀は I Ketut Bangbang Gede Rawi(生没年1910-1989)が創始した市販の『バリ暦』にはバリ暦(ウク暦、サカ暦)、西暦、回暦(ヒジュラ暦)、干支、農暦(旧暦)、ウィンドウと共に併記されていた。
1998年 (平成 10年)に今井敬 経団連 会長(当時)がインドネシアのユスフ・ハビビ 大統領 と会談した[ 45] 際に、ハビビが今井に独立宣言を見せて、日付の年が「05」となっているのは日本の皇紀2605年だと説明した[ 46] 。
脚注
注釈
^ 暦の販売権をもつ弘暦者が改暦 に伴い作成した『明治六年太陽暦』の表紙には「神武天皇即位紀元二千五百三十三年」が使用されている。
『太陽暦. 明治6年(1873年) 』 - 国立国会図書館 デジタルコレクション、北畠茂兵衞・製本、1872年(明治5年)
^ たとえば、CIA(アメリカ中央情報局 )が発行している『ザ・ワールド・ファクトブック 』のうち、「独立 」の項目には、1947年 5月3日(日本国憲法 の施行 日)と、1890年 11月29日(立憲君主制 を規定した明治憲法 の施行日)と、紀元前660年2月11日(神武天皇によって建国された神話 的日付)の三つの日付が記されている。
CIA (2019年). “The World Factbook ”. CIA. 2019年4月13日 閲覧。
^ 「弘仁歴運記」とも。延喜式 などに引用があるが全文は残っていない。
^ 明治5年11月9日(1872年12月9日)公布。
^ 明治5年11月15日(1872年12月15日)公布。
^ 「服者」(ぶくしゃ)とは、近親が死んだために、喪に服している者のこと。
^ この太政官布告の効力については、第87回国会 衆議院 内閣委員会 (昭和54年4月11日)において、政府委員 は、「現在のところで法律としての効力を持っているかどうかということは、なお検討する余地があるのではなかろうか」と答弁している。レファレンス協同データベース
^ 『日本書紀』では踰年称元法 を用いており、ほとんどの場合、天皇の即位の翌年を元年としている。
^ 中国では後漢 の建武 26年(西暦50年 )以前は、太歳 の天球上の位置に基づいて干支を定める太歳紀年法が用いられており、60年周期の干支を1年ごとに進めていく干支紀年法が用いられるようになったのはそれ以降である(詳細は「干支#干支による紀年 」を参照 )。しかし、『日本書紀』では干支は60年1周期の干支紀年法を用いており、これを初出の神武天皇即位前紀まで遡って適用している。
^ 『史記 』に基づくと釐王(僖王)の在位は西暦紀元前681年 - 紀元前677年、『春秋左氏伝 』に基づくと紀元前682 - 678年とされる。
^ 『日本書紀』では神武天皇が日向 を出発した年が甲寅となっている。
^ 『宋史』のこの記述は奝然 が太宗 に献上した『王年代紀』に基づいている。
^ 三善清行は西暦紀元前660年にあたる年を想定していると考えられる。
^ 江戸時代 にはすでに渋川春海 が「辛酉年春正月庚辰」を暦法 上特定し、これが「朔 」にあたることを明らかにしている(『日本長暦 』を参照 )。
^ 天明元年(1781年)刊
^ 考古学では古墳 の出現年代などからヤマト王権 の成立は3世紀前後であるとされている。ただし、初期の天皇(神武天皇を含む)の実在性や即位年代などは諸説あり、ヤマト王権と神武天皇との関係は未だに結論が出るに至っていない(詳細は神武天皇 を参照 )。
^ 寺沢は続けて「しかし、それはイト倭国の権力中枢がそのまま東遷したのでもないし、まして東征などはありえない」としている。
^ 辛酉の年には社会的変革が起こるとする讖緯説の一つ。三革説(甲子革令 、戊辰革運 、辛酉革命 )として日本に伝えられた。三革説は、これらの年に改元が行われる、十七条憲法 の発布が甲子 の年とされるなどの影響があった。
^ 伴信友 、那珂通世 、飯島忠夫 、有坂隆道 、岡田英弘 などがこの説を展開した。
^ 100で割り切れて400で割り切れない年は平年とする規則(例:1900年、2100年、2200年、2300年)
^ 明治31年(1898年 )5月10日公布。
^ 現在では、インドネシアのカレンダーや公文書や歴史教科書には西暦が使われている。
出典
参考文献
関連項目
外部リンク