称号:親王妃
敬称
高円宮妃久子殿下 Her Imperial Highness Princess Takamado
憲仁親王妃 久子 (のりひとしんのうひ ひさこ、1953年 〈昭和 28年〉7月10日 - )は、日本 の皇族 。学者。高円宮家 第2代当主。身位 は親王妃 。敬称 は殿下 [1] 。お印 は扇 (おうぎ)。勲等 は勲一等 [2] 。旧名は、鳥取 久子 (とっとり ひさこ)。
第126代・今上天皇(徳仁) の父のいとこ である高円宮憲仁親王 の妃。
鳥取滋治郎 第1女子。子爵 ・曾我祐邦 の曽孫 。大阪芸術大学 客員教授 を務める。日本サッカー協会 の名誉総裁 [3] 。2023年11月1日より公益財団法人日本バドミントン協会の名誉総裁。
略歴
1953年 (昭和28年)7月10日 、東京都 港区 白金 にて三井物産 勤務・鳥取滋治郎 、二三子(ふみこ)夫妻の長女として誕生。聖心女子学院附属幼稚園 に入園[4] 。父の米国三井物産転勤により一家で渡米。ニューヨーク郊外のウェストチェスター に転居。ママロネック・スクール に入学。帰国後、聖心女子学院初等科・中等科 を卒業 するが、父が欧州三井物産ロンドン支店次長に任命され一家で渡英。ノースヨークシャー のメアリーグラマー女子修道院校 (The Convent of the Ladies of Mary Grammar School)に入学。その後同国、ケンブリッジ大学 ガートン・カレッジ で中国学 ・人類学 ・考古学 を学び[5] 1975年 (昭和50年)に卒業。
日本に帰国し翻訳 会社に勤める。再度、法律 を学ぶために渡英し、1982年 (昭和57年)に帰国した。称号 (名誉学位 )として名誉法学博士 (アルバータ大学 、プリンスエドワードアイランド大学 )[6] 。
三笠宮崇仁親王 が総裁を務めた第31回国際アジア・北アフリカ人文科学会議(1983年 8月31日 ~9月7日、東京・京都にて開催)で、三笠宮の通訳 ・助手を務めた。結婚 前、旧姓の「鳥取」と「久子」のバランスが悪いため、仕事の際は一文字加えた「鳥取恒久子」という名前の名刺 を使っていた。
1984年 (昭和59年)4月23日、カナダ大使館のレセプションパーティーにて1歳年少の憲仁親王と出会う。5月上旬には、憲仁親王の父・三笠宮から好意の有無を確認される。5月20日に英語で「Will you marry me?」とのプロポーズに「Yes.」と答え承諾。同年9月17日 に納采の儀 、12月6日 に結婚の礼を行い[7] 、憲仁親王と結婚。婚儀と同日に、高円宮家 が創設された[8] 。承子女王 [9] 、典子女王 [10] 、絢子女王 [11] の3人の女子をもうけた。
日本サッカー協会 ・名誉総裁である憲仁親王とともに、彼女もサッカー関係の行事に出席する際にはサッカー関連のアクセサリー を身につけるなど、振興に協力した。2002年 (平成 14年)には、サッカー・ワールドカップ日韓大会 の開催中である5月末に夫妻で大韓民国 を公式訪問し、開会式にも出席した。日本サッカー協会総裁としてではあるが、皇族の公式な韓国訪問は、高円宮夫妻が第二次世界大戦 後初である(※それ以前には、韓国最後の皇太子李垠 やその妻・李方子 の葬儀などに参列するため秩父宮妃勢津子 、高松宮宣仁親王 、同妃喜久子 、三笠宮崇仁親王 、同妃百合子 、寬仁親王 が韓国を訪問したことがあるが、公式訪問ではない)。開催期間中19試合を観戦した[12] 。
2002年(平成14年)に憲仁親王が急逝し[13] 、高円宮家の当主となった。その後は日加協会 、日本サッカー協会 、全日本軟式野球連盟 、日本水難救済会 をはじめ憲仁親王が務めていた諸々の総裁・名誉総裁職を引き継ぎ[14] 、精力的に活動している。また憲仁親王の心室細動での薨去がきっかけでAED が普及した縁から、一般財団法人日本AED財団の名誉総裁に就任している。
2012年 (平成24年)に、論題「根付コレクションの研究 : 高円宮コレクションを中心に」で、大阪芸術大学 より博士(芸術文化学) の学位を授与された。
高円宮杯U-18サッカーリーグ の「高円宮杯」を授与する久子(2013年)
2013年 (平成25年)9月、日本サッカー協会(JFA)・アルゼンチンサッカー協会 の友好記念行事に日本サッカー協会名誉総裁として出席するためにアルゼンチン を訪問し、記念式典ではJFAを代表して挨拶を行った後にアルゼンチンナショナルサッカートレーニングセンターを視察した[15] 。また、両国サッカー協会の記念行事と同時期にブエノスアイレス で2020年夏季オリンピックの開催地選考 を行っていたIOC総会 が開催されることから、日本の皇族として初めて出席することになった。だが、東京オリンピック 招致に結び付けたい首相官邸と皇室の政治利用を懸念する宮内庁との駆け引きの末、出席してスピーチはするもののオリンピック招致を直接呼びかけず招致委員会メンバーのユニホームを着ないことになった[16] 。東京のプレゼンテーションにおいて冒頭のスピーチでIOC やスポーツ団体の東日本大震災 救援に対する感謝のスピーチを流暢なフランス語と英語で行った[17] 。スピーチではオリンピック招致を直接呼びかけることはなかったが、スピーチの最後で「チームジャパンがこれからプレゼンテーションを始めます。説得力のあるものとして聞いていただけると思います」とオリンピック招致について間接的に触れた[18] 。
この第125次IOC総会 で2020年夏季オリンピックの誘致活動を行った東京は、マドリード とイスタンブール を破り、2020年東京オリンピック開催が確定した。開催地が東京に決定したのは、彼女の参加が大きな影響を与えたとの分析がある[19] 。このスピーチについては、オリンピック誘致に政治的な側面があることから宮内庁 は慎重であったが、内閣と東京都が押し切って実現した。なお、ライバルのマドリードは、フェリペ王太子(のちの国王フェリペ6世 )など王室メンバーが積極的に関わっていた[20] 。
2015年4月よりバードライフ・インターナショナル 名誉総裁高円宮妃久子のウェブページが新設された[21] 。雑誌『婦人画報 』で根付 と野鳥 の連載もしている[21] 。
2017年 (平成29年)4月より一般財団法人 日本AED財団 の名誉総裁に就任した[22] 。
2018年 1月15日、公益社団法人 全日本アーチェリー連盟 と日加協会の名誉総裁を退任する[23] 。公益社団法人全日本アーチェリー連盟名誉総裁は承子女王 、日加協会名誉総裁は絢子女王 が引き継がれる。同年1月31日、公益社団法人日本スカッシュ協会 と公益社団法人日本海洋少年団連盟 の名誉総裁を退任した[24] 。公益社団法人日本スカッシュ協会名誉総裁は承子女王、公益社団法人日本海洋少年団連盟名誉総裁は絢子女王が引き継がれる。
2018年 (平成30年)3月より公益財団法人 日本心臓財団 の名誉総裁に就任した[25] 。
2018年6月には、サッカーワールドカップ・ロシア大会 に出場するサッカー日本代表 を激励するためにロシア を訪問[26] 。日本の皇族としては1916年 (大正 5年)の閑院宮載仁親王 以来102年ぶりのロシア訪問である。
2019年 (令和 元年)11月17日 、三女の守谷絢子と守谷慧 との間に初孫の男児が誕生した。
2020年 (令和2年)4月1日、公益社団法人 日本ライフル射撃協会 の名誉総裁に就任した。[27]
2022年 (令和4年)11月27日から、日本サッカー協会の名誉総裁としてサッカーワールドカップ・カタール大会 同大会を視察。ワールドカップの現地観戦は今大会で7度目[28] 。
2023年 (令和5年)7月、FIBAバスケットボールワールドカップ2023日本大会 の名誉総裁に就任した[29] 。
年譜
TEDx Tokyo2009の開会式に出席する久子(2009年)
子女
近年の主な外遊歴
イザベル・ラ・カトリカ勲章 (スペイン語版 ) 員としての紋章
マデレーン王女 とクリストファー・オニール の結婚式に参列する久子(スウェーデン・2013年)
1998年(平成10年)6月、 フランス
2000年(平成12年)5月 - 6月、 エジプト 、 モロッコ
2002年(平成14年)5月 - 6月、 韓国
2003年(平成15年)6月 - 7月、 アイルランド 、 イギリス
2004年(平成16年)6月、 カナダ
日本とカナダの外交関係樹立75周年にあたり、親善訪問。
2004年(平成16年)11月、 タイ
2005年(平成17年)6月、 ドイツ 、 ヨルダン
FIFAコンフェデレーションズカップ視察、ヨルダンのバディーア王女の結婚式に参列のため。
2005年(平成17年)11月、 イギリス
2006年(平成18年)1月、 カナダ
「高円宮殿下日本ギャラリー」開会式典に出席のため。
2006年(平成18年)6月、 ドイツ
2008年(平成20年)9月16日 - 10月3日 、 ウルグアイ 、 ブラジル 、 アルゼンチン 、 パラグアイ
2010年(平成22年)6月、 南アフリカ共和国
2013年(平成25年)9月、 アルゼンチン
2014年(平成26年)6月、 ブラジル
2018年(平成30年)6月、 ロシア
2022年(令和4年)11月27日 - 12月3日、 カタール
栄典
日本
ポルトガル
スペイン
スウェーデン
家系
香川県三豊郡豊中町 東京都港区白金
鳥取家は香川県 三豊郡 笠田村 (現・三豊市 豊中町笠田笠岡)の旧家である。曽祖父・鳥取治郎八 は地主で、農業 を営み香川県多額納税者であった[30] 。祖父・鳥取為三郎 も多額納税者であり、地主 であった[31] 。父・鳥取滋治郎 (1924年 - 2013年 )は東邦物産 専務、フランス三井物産 社長、東海観光会長等を務めた。
母・二三子(1927年 - 2023年 )は外交官・友田二郎 の長女。友田二郎は兵庫県会議員や但馬銀行 監査役を務めた友田一郎 の弟である。友田二郎は後に宮内庁式部官も務めた。母・二三子の祖母・曾我晃子 は元貴族院議員 ・曾我祐邦 子爵 夫人。母方の曾祖母の晃子は、貞明皇后 と従姉妹にあたる。晃子は鷹司煕通 公爵 の養女となり、曾我祐邦 子爵 に嫁いだ。したがって、久子は高円宮と遠縁にあたる。
エピソード
サッカーワールドカップ南アフリカ大会 終了後、日本サッカー協会名誉総裁である久子は出場した日本代表 の岡田武史 監督や一部選手、同じく大会に参加した西村雄一 審判員の表敬訪問を受けた。その際、日本代表監督の辞任を表明したものの、その後の予定が決まっていない岡田に対し「いつまでも浮草のようにフラフラしてないで、もう夏休みは終わりですよ」と声をかけたという。
著作
備考
政府 による正式表記(内閣 告示や宮内庁 告示など)では皇族に宮号 が冠されることはない(「皇太子 」を除く)ため、それらの告示が掲載される官報 での表記は「憲仁親王妃久子」とされ、「高円宮」が冠されることはない。ただし、同じ政府による表記であってもホームページ など「国民 一般へのわかりやすさ」が重視される場面では「高円宮妃」の表記も用いられる。
脚注
参照文献
関連項目
ウィキメディア・コモンズには、
憲仁親王妃久子 に関連するカテゴリがあります。
外部リンク