称号:女王
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敬称 |
殿下 Her Imperial Highness the Princess |
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瑶子女王(ようこじょおう、1983年〈昭和58年〉10月25日 - )は、日本の皇族。身位は女王。敬称は殿下[1]。お印は星。勲等は勲二等宝冠章。学位は学士(日本文化)(学習院女子大学・2006年)。第126代・今上天皇(徳仁)の再従妹(はとこ)にあたる。第123代大正天皇のひ孫。寬仁親王と同妃信子の第2女子。現在、存命中かつ皇籍離脱していない皇族14名のうちのひとりであり、天皇の血を直系で受け継ぐ男系皇族(親王・内親王・王・女王)8名のうちのひとりである[注釈 1][注釈 2]。
略歴
寬仁親王と信子妃の第二子として誕生。松濤幼稚園から学習院幼稚園に移り、初等科・女子中等科・女子高等科を経て、学習院女子大学国際文化交流学部日本文化学科卒業。
2003年(平成15年)10月25日に成年を迎え、皇族身位令により第125代天皇明仁から勲二等宝冠章(のちの宝冠牡丹章に相当)を受ける。同年から、宮中行事・祭祀に出席している。
初等科5年時から剣道を始め、大学時代は女子副主将も務めた。2005年(平成17年)3月フランス・ドイツへの第2回日欧交流関東学生剣道連盟親善使節団に参加し、また同年8月に開催された愛知万博での剣道のデモンストレーションにも参加した。2006年(平成18年)7月の全国家庭婦人剣道大会にも出席、観戦した。また、大学卒業後は、初等科剣道部でボランティアで剣道の指導も行なっている。平成29年7月現在で、段位は五段[2]。第61回全日本剣道選手権大会では、優勝した内村良一に天皇杯を授与した。
2006年(平成18年)12月から2012年11月まで日本赤十字社(事業局組織推進部青少年・ボランティア課を経て血液事業本部販売管理課)で嘱託ながら常勤で勤務しており、これは女性皇族として史上初のことである。一方で、父母がともに闘病中、姉・彬子女王が留学中で不在であった時期には、その分の公務も務めていた。また、2013年(平成25年)8月29日付で一般財団法人国際ユニヴァーサルデザイン協議会総裁に[3][注釈 3]、2014年(平成26年)1月14日付で第3代社会福祉法人友愛十字会総裁に[4]、2021年(令和3年)12月1日付でNPO法人日本ユニバーサル・サウンドデザイン協会名誉総裁に[5]、それぞれ就任している。2022年(令和4年)初の公務では大阪府で開催された、第55回全国道場少年剣道大会へ出席し、観覧した。
2022年(令和4年)2月7日にのどの痛みを訴えたことから、翌8日午後に赤坂御用地内の宮邸でPCR検査を受けた結果、新型コロナウイルスへの感染が確認されたため、同日夜に宮内庁病院に入院した。皇族の新型コロナウイルス感染は初の事例。その後の検査で肺炎が判明したため、翌9日に東京大学医学部付属病院へ転院したことが発表された[6][7]。症状が改善したため、16日に退院した[8]。
同年3月25日に埼玉県入間市で行われた「ヒアリングフレイル予防講習会」でのNPO法人日本ユニバーサル・サウンドデザイン協会名誉総裁としての講演で、自身がメニエール病を原因とした低音型の感音性難聴を患っていることを明かした。また、自身が宮内記者会宛てに寄せた直筆の手紙で、感音性難聴という難聴の一種を患っている心境を綴った。西村泰彦宮内庁長官は同年6月23日の会見で、瑶子女王の症状についてはこの講演で初めて知ったと明らかにした[9][10]。
外遊歴
2019年12月11日から17日にかけて、即位礼正殿の儀で来日したアウンサンスーチー国家顧問からの招待により、ミャンマーを私的訪問した。日本の皇族が同国を訪問するのは初めて[11]。
系譜
栄典・称号
勲章
日本
役職
瑶子女王杯
「瑶子女王杯」を冠したスポーツイベントとして、2024年7月20日-21日に富士スピードウェイで行われる「SUPER FORMULA Rd.4 富士大会」を「第1回瑶子女王杯 全日本スーパーフォーミュラ選手権 第4戦富士大会」として実施し、瑶子女王の賜杯が贈られることが株式会社日本レースプロモーション(JRP)から発表された[17]。
その他
官報等における正式な呼称は宮号を冠さず「瑶子女王」である。なお、一部に旧字体の「瑤子」を用いる向きもあるが、出生当時の官報告示では新字体で表記されている。
脚注
注釈
- ^ 現在、王は不在。
- ^ 現在、女系皇族は不在。現在の皇室典範では女系も男系皇族と結婚すれば皇籍になることが可能だが現在はいない。
- ^ 2019年(令和元年)7月31日付で辞任
- ^ 開催は2年に1回
出典
外部リンク