寬仁親王 (ともひとしんのう、1946年 〈昭和 21年〉1月5日 - 2012年 〈平成 24年〉6月6日 )は、日本 の皇族 。身位 は親王 。敬称 は殿下 。お印 は柏 (かしわ)。勲等 は大勲位 。
大正天皇 の皇孫(四男の長男)。
三笠宮崇仁親王 と同妃百合子 の第1男子(3男2女のうち第2子)。明仁 (上皇 )は従兄、徳仁 (第126代天皇 )は従甥、麻生太郎 (第92代内閣総理大臣 )は義兄(妃・信子の兄)にあたる。姉に近衞甯子 (甯子内親王)、弟に桂宮宜仁親王 と高円宮憲仁親王 、妹に千容子 (容子内親王)がいる。
生前の住居 (寬仁親王邸)は、東京都 港区 元赤坂二丁目の赤坂御用地 内にあった。没後の2013年 (平成25年)7月31日 より、旧寬仁親王邸は「三笠宮東邸」(みかさのみやとうてい)と称されている。
略歴
皇統譜 上の記載は「寬仁親王」。「寛」の旧字体 である「寛に『、』が付く字」であるため、政府 による公式表記及び本人の著述活動においては旧字体が使用されるが、新聞では新字体を使用するため、報道等では新字体で表記されることが多い。
髭 をたくわえた容貌から、「ヒゲの殿下 」(ヒゲのでんか)の愛称で知られていた。称号 (現学位 )は政治学士 (学習院大学 )、鈴鹿国際大学 名誉客員教授 [ 1] 。そのほか名誉学位 として名誉博士 (アンカラ大学 )の称号を有する。
来歴
お印に選ばれた柏
神奈川県 葉山町 の三笠宮御假寓所(三井家 別荘)にて、三笠宮崇仁親王 と百合子妃 の長男として誕生した。伯父にあたる昭和天皇 にとっては、初めて授かった甥でもあった。
幼い頃は、姉の甯子内親王 とともに貞明皇后 (大正天皇 の皇后 )に特に可愛がられた[ 2] 。
聖心女子学院 幼稚園、学習院初等科 、学習院中・高等科 を経て学習院大学 へ入学した。父の三笠宮崇仁親王の教育方針は「放任主義」で、「子供の頃は『勉強をしろ』と言われたことが無かった」という。初等科では他の一般児童とは異なる待遇で、登下校の際の下駄箱 が特別室に設置され、「トモちゃん」と口にした友人は、教師から「何事だ!宮様と呼べ!」と怒鳴られた。学校ではスキー 、ソフトボール 等のスポーツ に熱中し、特に小学校4学年からやり始めたスキーは、高校2年次にスキーバッジテスト 1級を取得した。一方、「学業の成績は『メチャクチャに悪かった』」とのこと。
学習院高等科応援団 に入り、3年次には団長を務めた。応援団での威厳をつけるため、ヒゲは2年次に鼻の下だけ、3年次に顎ヒゲも伸ばし始めた。なお、当時の学習院高等科にはヒゲに関する校則 はなかった。
当時の振る舞いについては、後年、テレビ番組『徹子の部屋 』において「高校生になるとチンピラ のように振る舞い、高校1年生あたりからタバコを吸い 、飲酒 に至ってはさらに若い頃から始めていた」と述懐している[ 3] 。
1966年 (昭和41年)1月、成年式に伴い大勲位 に叙され、菊花大綬章 を授けられる。
同年9月15日に、愛車のプリンス・スカイライン GT-Bを運転して、渋谷区 神宮前 の表参道 を運転していた寬仁親王は、Uターン しようとしてオートバイ をはねた。オートバイを運転していた住み込み店員が左大腿骨 骨折 で全治半年の重傷、後部座席に乗っていた少年も軽傷を負った。人身事故 を起こした場合は「自動車 の運転を辞める」と母親の三笠宮妃百合子と約束しており、運転免許証 を東京都公安委員会 に返納した。
1968年 (昭和43年)、学習院大学 法学部 政治学科を卒業した(政治学士 )。同年4月から1970年 (昭和45年)8月までの2年間半、イギリス のオックスフォード大学 モードリン・コレッジに留学 。留学は、父の崇仁親王や義伯母の秩父宮妃 の勧めによった。モードリンは、伯父の一人である秩父宮雍仁親王 が在籍した学寮でもある。
留学当初の英語 は「ハウ・ドゥ・ユ・ドゥー(How do you do ?)」と「サンキュー・ベリー・マッチ(Thank you very much.)」しか理解できなかったが、語学学校「Godmer House School」に3か月通い、コレッジに移って後は、週に一度の論文 を「十あるとしたら、六か七くらいの力で」済ませ「残りは、人と付合うことに費やした」という。保証人はケズウィック家 のジョン・ケズウィックであり、妻の実家である麻生家 も世話を焼いた。
イギリス滞在中にはエリザベス2世 に招かれバッキンガム宮殿 でエディンバラ公 フィリップ 、チャールズ3世 (当時皇太子)、アン 王女の臨席で対面している。欧州滞在中のうち6か月はスイス とオーストリア でスキーをしていた。
1970年(昭和45年)1月5日の24歳の誕生日 に、ロンドンの駐英日本大使公邸において仮装 パーティーを開いた。「(自身の曽祖父にもあたる)明治天皇 に(容姿が)似ているから大元帥 服を着ろ」と友人に促され、父(帝国陸軍 騎兵 将校 であった)から騎兵将校の軍服を送ってもらい、これを着た。日本の一部新聞がこれを批判的に報じた。また、駐車違反の反則金の督促を受けても、これを支払わなかったため、皇族である寬仁親王に逮捕状 が出された。
学位を取得せずに日本に帰国し、1970年(昭和45年)から1972年 (昭和47年)には、札幌オリンピック 組織委員会事務局職員として勤務し北海道 札幌市 に居住した。初任給は、41,700円だった。1975年 (昭和50年)には、沖縄国際海洋博覧会 世界海洋青少年大会事務局に勤務した。
1972年 (昭和 47年)2月、麻生信子(当時16歳)に求婚したが、まだ高校生で若すぎるということもあり、8年後の1980年 (昭和55年)4月18日 の皇室会議 を経て婚約した。同年11月7日、結婚の儀を行った。信子の父は麻生鉱業 ・麻生セメント(現・株式会社麻生 )社長と衆議院議員を務めた麻生太賀吉 、母は吉田茂 の三女・和子 、兄は第92代内閣総理大臣 麻生太郎 である。母方高祖父は大久保利通 (贈 右大臣 )、曽祖父は牧野伸顕 (伯爵 )である[ 4] 。
伯父の高松宮宣仁親王 の影響を受けて、早くから障害者福祉 やスポーツ振興などの公務に積極的に取り組んできた。特に障害者 が、スポーツ への取り組みを通じて社会参加することを促すため、自らも指導に当たり、社会福祉法人 「ありのまま舎」(宮城県 仙台市 にあるキリスト教 バプテスト 系の筋ジストロフィー 障害者 福祉施設 )の活動に見られるように、施設の運営などにも関与し、講演や著述を通じて啓発活動に取り組んだ。
イギリス 留学を機に、国際親善にも強い関心を持ち、日英協会 名誉総裁を始め、諸外国との交際にも意欲的に取り組んだ。
皇族としては表に出る機会が多く、東アジア反日武装戦線 は、寬仁親王を暗殺者リストに入れて、行きつけの理髪店 、レストラン 、画廊 等を調べ上げており、身辺警備が強化された。
皇族としての制約の多さに苛立ち、1982年 (昭和57年)に「皇籍離脱発言」をして、世間を騒がせた。これについて昭和天皇 は記者会見 において、「国民の皇室に対する期待が、どのようなものなのかを十分に把握して、その期待に沿うように努力するように望む」と述べた。
1995年(平成7年)に「競輪・競艇などに名義貸しをして毎年1000万円近くの謝礼を受けていた」ことが国会で問題視された。当時の藤森昭一宮内庁長官は「宮家で使う金としてではなく、公共のために寄付するご意向だった」と説明した。
2012年 (平成 24年)6月6日 15時35分、多臓器不全 のため、入院先の東京都 千代田区 の佐々木研究所附属杏雲堂病院 で薨去 した。66歳没。斂葬の儀 は同年6月14日に執り行われ、喪主は長女の彬子女王が務めた。その後落合斎場 で火葬に付され、豊島岡墓地 に埋葬された。
なお、三笠宮本家からは独立の生計を営んでおり寬仁親王が当主を務める「寬仁親王家 」(ともひとしんのうけ)として他の宮家に准ずる扱いを受けていた。親王の薨去に伴い、当主不在の状態が続いていたが、2013年 (平成25年)6月10日 に宮内庁は、「薨去にさかのぼり、親王家を廃止する」と発表した。従来の慣例では信子親王妃 が当主を継承することになるが、長年別居が続いており、親王の薨去後も2人の子女たちと同居していなかった。これにより遺された信子親王妃と彬子女王、瑶子女王 の2人の子女は三笠宮本家に合流した。また、寬仁親王邸の名称も「三笠宮東邸」と改称された。
病歴
1990年代 から、癌 、アルコール依存症 をはじめとする疾病に悩まされていた。
1991年 (平成3年)1月に食道癌 の手術 を行った[ 5] 。1995年 (平成7年)までに舌の付け根・首のリンパ節・喉など6回の癌手術を行い、その闘病経験を1999年 (平成11年)に闘病記『癌を語る』として出版した。
2006年 (平成18年)9月16日 には洗顔中に転倒し顎を骨折 した。またアルコール依存症 により入退院を繰り返していた(2010年 〈平成22年〉1月8日 、5度目の入院)。入院してからも入院先の病院から公務に出席しており、いわゆる「ふてくされて出てこないのか」発言など行動力と鋭い舌鋒の健在ぶりを見せていた。
当初入院は1か月の予定であったが、3週間で退院した。同年10月20日 には米誌とインタビューを行えるほどに回復した姿を見せた。しかし、咽頭癌 が見つかったことから、2008年 (平成20年)3月に再び手術を受けた。この時は声を残す方向で手術が行われたが、飲み込みが上手くいかず、4月には肺炎 を発症し再入院した。この際、喉の一部を塞ぐ手術を行ったが、それが原因で声帯 を震動させる空気の出口が塞がれ、声を失った。公務の際には、電気喉頭 を首に当てて会話を行っていた。
2010年(平成22年)8月19日 には不整脈 の治療で入院、更に9月の定期検診で新たな咽の癌が発見されたことから12月14日 に内視鏡手術 を受けることとなった。
2011年 (平成23年)2月には肺炎で入院。同年7月8日 には中咽頭上皮に見つかった癌の切除手術のため入院している。1991年(平成3年)以降、癌に関連する手術や治療を受けるのはこれで14回目であった。
2012年 (平成24年)1月には咽喉に腫瘍 が見つかり、東京都千代田区の財団法人 佐々木研究所 附属杏雲堂病院(当時)において1月10日 、腫瘍と周辺のリンパ節の摘出、及び欠損部への腹部からの移植処置を伴う手術を7時間半に亘り受けた。術後に細胞組織検査を行った結果、寬仁親王の病状が『咽喉癌の再発と見られる』と医師団から発表された。3月には、食事の障害になっていた喉の軟骨の除去手術を受けた[ 6] 。1991年(平成3年)1月の癌発見から21年間、癌の手術や治療は計16回を数えた。
同年6月、喉から2回出血し、輸血 の必要性があった事が、4日 明らかになった[ 7] 。翌5日 、宮内庁は腎臓や肺、肝臓の機能が低下状態にあり、意識レベルが低下していると発表した。2012年(平成24年)6月6日15時35分、入院先の公益財団法人佐々木研究所附属杏雲堂病院で薨去 した。同日の宮内庁の会見で、死因は多臓器不全 であると発表された[ 8] 。
宮号の有無と表記
存命時は、結婚を機に独立の生計を立てていたものの、父宮(三笠宮崇仁親王)の嗣子としていずれ三笠宮 を継承する者とされていたことから、宮号 は賜らなかった。「○○宮 ××さま」という表現が報道においてしばしば使われたが、宮号 は一般国民の「氏 」のように同一戸籍内の家族すべてに適用されるものと異なり、当主のみに与えられるものであるため、当主以外の皇族に「○○宮」と冠することは本来正式な呼称ではない。同様の誤用は令和 時代における皇位継承権第2位の悠仁親王 をはじめ他の皇族に対する報道にも見られる。
2001年 (平成13年)12月に行われた長女(第1子)の彬子女王 の成人 に伴う記者会見において全国紙 が彬子女王を「三笠宮寬仁さまの長女彬子さま 」と記載したことに関し、親王は自身が総裁を務める日本職業スキー教師協会の広報誌の「総裁コラム」において、「私は、『三笠宮』(父の宮号)では無く、『寬仁親王』であり、彬子は身位が『女王 』で、敬称は『殿下』でなければなりません。従って正しくは、『寬仁親王殿下の第一女子彬子女王殿下には……』となるべき」と記した[ 9] 。また、柏朋会の会報『ざ・とど』でも冗談を交えつつ、「『三笠宮寬仁親王』でなく『寬仁親王』が正しい」と書いている。
1947年 (昭和22年)10月14日 に11宮家51名の旧皇族が離脱する 前までは宮家の数が多く、現在の寬仁親王のように「嗣子であるためあえて宮号を受けていない親王・王」を有する宮家が複数あったため、そのような「嗣子たる親王・王」のことを「○○若宮」(○○のわかみや)と呼ぶ慣習があったが、現憲法下ではこの呼称はほとんど用いられない。なお、政府による正式表記(内閣 告示や宮内庁 告示など)では寬仁親王に限らず皇族に宮号が冠されることはない(「皇太子」を除く)ため、それらの告示が掲載される官報 での表記は必ず「寬仁親王」(妃の場合は「寬仁親王妃信子」)とされ、「三笠宮」が冠されることはない。しかしマスメディアでは「わかりやすさ」を図るために「(昭和天皇の弟の崇仁親王の創設した)三笠宮家の 寬仁さま」と報道されることがある。
逸話
著述・発言に関するもの
2003年 3月7日 、高輪プリンスホテルでの講演にて
公的活動に関するもの
2005年 10月27日 、第60回国民体育大会 閉会式にて
人物に関するもの
愛知県 名古屋市 の名門クラブにおいて、寬仁親王が「御東場(おとうば。宮中用語で便所 )が汚れていたんで拭いといたよ」と云ったとオーナーマダム・加瀬文恵が雑誌『プラチナ・スタイル』取材に語った[ 16] 。
二人の時、信子妃とは互いに「ノンチ」、「トモさん」と呼び合っていた。食道がんに気付いたのは信子妃であり、治療中には信子妃自ら医師と栄養士から調査し、全て違う品で1日6回に分けた食事を作った。寬仁親王は感心し、信子妃が料理本を出版することを許した[ 17] 。
偽ってアルコール依存症の治療をされたことに激怒して仲違いし、2004年(平成16年)7月以降信子妃はストレス性喘息の治療のため別居した。寬仁親王が薨去する前に信子妃は何度も病院を訪れたが「家族の意向」で全く面会できず、喪主の意向により葬儀への参列も許されなかった。[ 18]
次女・瑶子女王 は、「寬仁親王の性格は細か過ぎるところがある」と述べている[ 19] 。
皇位継承問題に対して
女系天皇容認論に対する見解
平成 時代に入り憲法 上の制約もあり、天皇および皇族が女系天皇 の是非について自らの意見を公にする機会は限られている。寬仁親王は自身が会長を務める福祉団体「柏朋会」(はくほうかい)の会報『ざ・とど』で、「あくまで公なものではない私的な見解」と前置きした上で、女系天皇についての見解を表明した。この機関紙は市販されていない。この中で、女系天皇に明確に反対し、旧皇族 の皇籍復帰などを求めた。
寬仁親王は、「(2000年以上の)歴史と伝統を平成の御世でいとも簡単に変更して良いのか」と女系天皇を容認する意見を批判し、また「万世一系、125代の天子様 の皇統が貴重な理由は、神話の時代の初代神武天皇 から連綿として一度の例外も無く、『男系』で続いて来ているという厳然たる事実」と主張した。寬仁親王は男系継承を維持するための方法として
1947年 (昭和22年)に皇籍離脱した旧皇族 の皇籍復帰。
女性皇族(内親王)に旧皇族(男系)から養子を取れるようにし、その人物に皇位継承権を与える。
廃絶になった秩父宮や高松宮の祭祀を旧皇族に継承してもらい、宮家を再興する。
昔のように「側室 」(一夫多妻制 )の制度を復活させる。自分(寬仁親王)としては大賛成だが、国内外共に今の世相からは少々実現性が乏しいと思うとも述べた。
を挙げた。
その上で、「陛下(現・上皇)や皇太子様(現・天皇)は、御自分達の家系の事ですから御自身で、発言される事はお出来になりません。国民一人一人が、我が国を形成する『民草』の一員として、2665年(神武天皇即位紀元 、通称:皇紀)の歴史と伝統に対しきちんと意見を持ち発言をして戴かなければ、いつの日か、『天皇はいらない』という議論にまで発展するでしょう」と結び、女系天皇容認の動きに反対する意見を述べた。
また、2006年(平成18年)1月3日 付の毎日新聞 、雑誌『文藝春秋 』2006年(平成18年)2月号のインタビューでも同様の見解を表明している。殊に後者では、小泉純一郎 首相 や有識者会議 が「女系天皇容認の方針なのは、天皇陛下(当時:明仁 )の内意を受けてのことではないのか」という噂について、「ご本人に直接確認してはいないが、あの慎み深い陛下が女系天皇や長子優先継承に賛成なさるはずはない。噂は、事実無根の臆測だろう」と天皇の真意を忖度した。
見解に対する反響
寬仁親王が見解を発表する以前、小泉純一郎 内閣総理大臣 の私的諮問機関「皇室典範に関する有識者会議 」座長の吉川弘之 東京大学名誉教授は、皇位継承資格者議論について「皇族から意見を聞くことは憲法違反だ」と指摘していた。また、「憲法の解釈権は有識者会議にある」とも唱えた。
一方で2005年 (平成17年)11月4日 、寬仁親王の見解についての記者質問に対し、小泉純一郎 首相(当時)は、「皇位継承資格者議論について、皇族から意見を聞くのは憲法違反にあたらず、意見を表明するのは自由である」と答えた。
同年11月7日 、有識者会議の会合を終えた吉川弘之は、「寬仁親王の見解は会議へ影響せず、女系天皇容認の姿勢は変更しない」とした。同日、小泉首相も、女系天皇を容認する有識者会議の方針を支持する考えを示した。
同年11月14日 、静岡県 知事 石川嘉延 は定例記者会見で、寬仁親王の見解に対し、「同様な考えを持っており共感した」と発言した。さらに皇位継承資格者議論に対し、拙速な議論に疑問を呈し「伝統的な国のあり方にかかわるものを、わずか数か月で結論を出して、ある方向に持っていこうとするのはとんでもない話。余りにも拙速。有識者会議には皇室問題について長年研究してきた人が何人入っているかというとお寒い限り」と主張した。
朝日新聞 は社説のなかで否定的見解を示しており、2006年(平成18年)2月2日 付けの社説 で『寛仁さま 発言はもう控えられては』と題し、「政治的発言であり、象徴天皇制という日本国憲法 で定められている大原則から逸脱している」と主張した。
産経新聞 は、翌3日の社説で『朝日社説 「言論封じ」こそ控えては』、また週刊文春 や週刊新潮 はそれぞれ『寬仁親王殿下に「黙れ」と命じた朝日新聞論説委員の実名と見識』『寬仁親王殿下に「黙れ」と命じた朝日新聞ってそんなにエラい?』などと主張し、朝日新聞を批判した。
子女
信子妃 との間には二女がいるが、男子はいない。上述の通り、当主寬仁親王の薨去を根拠に寬仁親王家は廃止され、寬仁親王妃信子並びに彬子女王、瑶子女王は三笠宮家 の一員となっている。
系譜
1950年 (昭和 25年)頃、左から寬仁親王、母:百合子妃 、弟:宜仁親王 、姉:甯子内親王
系図
著作
単著
共著
脚注
参照文献
関連項目
外部リンク