芸予地震(げいよじしん)は、瀬戸内海の安芸灘を震源として発生し、震源に近い広島県・山口県東部と愛媛県に比較的大きな被害を生じた地震のこと。
「芸予地震」の名称を持つ地震は1905年(明治38年)と2001年(平成13年)の2回があり、区別する為に発生年を冠して「N年芸予地震」あるいは年号を冠した名前で呼ばれる[1]。以下その2つを含めたこの地域で起きた、フィリピン海プレートの動きによるスラブ内地震[1] と考えられているものについて記述する。
芸予とは、厳密には安芸国(広島県西部)と伊予国(愛媛県全域)を指す。"芸予諸島"の名でも使われるように、現在では広島県全域と愛媛県の2県の意味合いが強い。芸予地震と名のつく地震はその2県の中間である瀬戸内海で発生しその2県に被害をもたらした地震のことである。
後述するように震源が深部であるため、本州全土から四国・九州と広範囲で揺れるがその規模に対して比較的被害が小さい特徴がある[2]。過去の地震では津波による被害は記録されていない。一方で瀬戸内海沿岸部では液状化現象が発生[3]、この地方特有の地層である風化した花崗岩が堆積した"マサ土"によるがけ崩れ[2] など、地盤災害(土砂災害)やそれに伴う二次災害が発生している。
なおこの地域の北側にあたる山陽地方において、マグニチュード3以上の地震数は頻繁に起こる東北地方などと比べて極めて少なく[2]、周辺の活断層も他の地域と比べると少なく日本列島の中でも地殻変動が少ない特徴がある[4]。2001年の地震が発生するまでは暫くこの地域を震源とする大きな地震が発生していなかった[5] ため、地震空白域とされていた。他方、南側の愛媛県は、南海地震・豊予海峡地震や日向灘地震で被害に遭う想定域であり、更に日本最大級の断層である中央構造線断層帯が東西を横断しており、多大な地震の被害に遭う可能性が高い地域である[6]。2度の芸予地震では広島での被害が多かったが、過去での地震では愛媛での被害が多かった事例もある。
震源域は瀬戸内海西部にあたり、北は本州広島県・山口県東部、南は四国愛媛県、東は高縄半島、西は屋代島(周防大島)や室津半島に囲まれた、斎灘・安芸灘・伊予灘にある。
この地域は南海トラフから続く、フィリピン海プレートがユーラシアプレートと衝突しその下にもぐりこむ沈み込み帯の北端付近にあたる[2][7]。芸予地震の震源の位置は50kmから60kmと、沈み込み帯での地震である南海地震に対し更に深い[2]。このことから、フィリピン海プレートはこの付近で急激に下方(地球内部方向)に折れ曲がり、その際に東西方向の張力が発生しプレート内部を破壊することにより地震が発生すると考えられている[2][7]。
ちなみに沈み込み帯の北端付近にあたることから、一部の資料ではプレート境界型地震と表記されているものもある[8]。また、プレートの具体的な折れ曲がり形状など、まだ不明な点も多い[7]。
文部科学省が公表するこの地域でのフィリピン海プレート内のスラブ内地震とされている代表的な地震[1][9][10]のうち、「芸予地震」と呼ばれるものと、江戸時代に発生した「安芸・伊予の地震」とされるものは以下の通り。
上記以外にも1949年に安居島付近の深さ40kmで発生したM6.2の地震では呉市で2人の死者を出したほか[10]、1979年には山口県の室津半島付近でM6.0の被害地震が発生している[11]。
また、この地震は安芸灘~伊予灘~豊後水道で発生する固有地震と考えられ、檀原毅が1970年に発表した論文では発生間隔52年±11年[12]、地震調査研究推進本部が、M6.7-7.4程度の安芸灘~伊予灘~豊後水道のプレート内地震としているものには上記の5地震に加えて、1854年の豊予海峡地震も含まれ、2013年現在で公開しているものでは発生間隔約67年としている[1]。ただ一部では、2001年芸予地震では発生したエネルギーが想定よりも小さかったことから、次の地震はこれより短い間隔で発生する可能性があると指摘されている[13]。
一方で、スラブ内地震はプレート境界地震に比べて周期1秒以下の短周期成分の励起が大きく、震源が浅い地震に就いて求められた震度の拡がりとマグニチュードの関係式をそのままスラブ内地震に適用するとマグニチュードを過大評価する可能性がある。これを補正して見直されたマグニチュードは、1649年の地震がM6.9、1686年の地震がM6.9、1857年の地震がM6.8、1905年の地震がM6.7となり、2001年の地震よりやや大きいかほぼ同程度との推定もある[14]。
芸予地震の震央である安芸灘より南西部の伊予灘~豊後水道にかけての領域で発生した、フィリピン海プレートスラブ内地震と推定されている代表的な地震は以下の通り。
1905年(明治38年)6月2日 14時39分(日本標準時)に発生した地震の震源は倉橋島の南[5]。マグニチュードは71⁄4[15] から7.3[16] と推定されている。東は東京・西は長崎と広範囲で揺れたが、大きな被害は広島湾岸と伊予灘に面した地域と局所的なものに留まった[17]。
この本震の前々年から前震が多発しており、1903年(明治36年)に9回、1904年(明治37年)に3回、そして1905年1月から5月の間に3回と続き、6月の本震となった[10]。その後も余震が続き、中でも同年同日19時55分(緯度34.0度・経度132.5度・M6.0)、同年12月8日12時08分(緯度34.1度・経度132.6度・M6.1)、同年12月8日13時25分(緯度34.0度・経度132.4度・M6.2)が代表的なものとなった[10]。
1905年当時はまだプレートテクトニクス理論が提唱されていない状況下で、震災予防調査会のメンバーは地震の原因についていくつか考察している。今村明恒は震源地付近の海の状況から海底下の断層による地震(断層地震説)ではない別の原因の可能性を[18]、小藤文次郎は中央構造線断層帯の影響によるものとして原因を模索している[19]。
また、1900年頃の震度階の強震をそのまま震度5と読み替えることにより震度5の範囲が異常に大きくなり、本地震のマグニチュードを過大評価していた。強震の範囲の大部分が実際には震度4と考えた方が良く、そうするとM6.6となる。また、地震計に記録された最大振幅からマグニチュードを求めるとM6.7となり、周期60秒の大森式地震計の記録からMw6.8と求められた。これはほぼ2001年と同規模である。大森式地震計の記録は横ずれ成分をもつ正断層タイプの地震であることを支持し、2001年とほぼ同じメカニズムであると推定された[14]。
調査および研究資料は比較的少ない[5]。1905年に震災予防調査会がまとめた報告書では、震源地付近に存在した呉鎮守府(呉鎮)において被害状況はいくつか記載されている[20][21]。報道機関は、当時の直前の日露戦争での日本海海戦勝利を重視し、軍港を襲った地震である芸予地震についてはあまり報道しなかった[8][22]。また海軍工廠は機密保持体制にあった[22]。
当時震央付近で機械的なデータが取れる地点として、文部省の広島測候所・松山測候所と呉鎮守府測器庫の3箇所あったが、
広島測候所:計器を購入中だったためデータなし
松山測候所:データはとれたが震源から遠かった。
呉鎮守府測器庫:普通地震計を倉庫にしまっていた。
といった要因から良質なデータが取れなかった[23]ほか、強震計も置いていなかった[23]。ただ呉については観測者の目視により正確な発震時刻が記録されており、これが震央特定の重要なデータとなった[24]。東京大学地震学教室(現、東京大学地震研究所)に大森式地震計による観測記録が残されている。
以下、弱震(現在の震度2-3)以下を除いた当時の震度[25]。
顕著な被害は広島県呉市・広島市と愛媛県三津浜(現松山市)・郡中(現伊予市)の沿岸部に集中した[10]。これは江戸時代以降、干拓や埋立によりできた軟弱地盤の上に建てられた建築物の倒壊より被害を出したためであり、特に広島市中心部は太田川下流三角州の沖積平野に形成された街であるため、その弱い地盤が被害を拡大させた[23][27]。一方で震源地付近は海であり、周辺の島々である倉橋・能美島などはほとんどが花崗岩の固い地盤であったため、地震の規模に対して被害は軽かった[23]。また工場、煉瓦家屋、木造住居の順に被害が大きくなる傾向が見られた[28]。
各地の被害状況は以下の通り[1][20]。なお全体は1905年震災予防調査会による報告書の数字で呉鎮守府の被害数はこれに含まれていない[10][20]。カッコ内は中央気象台(現気象庁)年報での数字であり、呉鎮守府の被害数が含まれているものと考えられている[10]。
震源地付近(安芸郡、呉市)
広島県広島市
愛媛県松山市/道後
その他
2001年(平成13年)3月24日(土曜)15時27分54.5秒(日本標準時)に発生した地震の震源は上蒲刈島の南。マグニチュードは、気象庁マグニチュードでMj 6.7[1][4][41]、モーメントマグニチュード(Mw) 6.8[15]。震源の深さは51km[41]。最大震度は6弱[42]。被害総額約193億円[41]。
中国地方においては2000年10月に起きた鳥取県西部地震(Mj7.3、Mw6.6)から5ヶ月ぶり、瀬戸内海に面した地域としては1995年の兵庫県南部地震(Mj7.3[43]、Mw6.9)から6年ぶりとなる被害地震となった。これらと比べて芸予地震は規模としては同等であったが、これらが震源深さ20km前後の直下型地震だったのに対し芸予地震は更に深部でのスラブ内地震であった[2]。一部の地震学者が唱える"西日本地震活動期説"の根拠となった地震の一つ[13]。
なお鳥取県西部地震の後、気象庁マグニチュード検討委員会によりマグニチュード計算式の見直しが図られ、芸予地震後である2001年4月23日から先行導入される形で新しい計算式によるマグニチュードが修正された[44][45]。芸予地震のマグニチュードを6.4としている資料は修正前の旧計算式でのものである[42][45]。この新計算式は2003年9月25日に正式採用され現在に至っている[45]。
余震発生域は本震を北端として南に約20km・深さ40から50kmの範囲に分布し[4]、最大余震は翌々日の3月26日(月曜)5時40分(JST) に発生した安芸灘を震源とするMj5.2、深さ50km、最大震度5強の地震であった[42]。
表面最大加速度は、震源地付近が海であることから観測点が少なかった一方で、広島県湯来町での830m/s2を筆頭に広島市三原市・愛媛県東予市と震源地から少し離れた3つでピーク域が観測された[46]。これは地層に起因するものであり[47]、この3地域では特異な被害を受けている。
山陽地方側は事実上地震空白域だったため住民の危機感が薄く[13]、地震直後も普段と変わらない生活を送った者もかなり存在した[48]。これは被害が大きかった広島県呉市を除き、自治体による避難勧告がほぼ出されなかったためでもある[49]。また自治体・企業が、兵庫県南部地震規模の地震を想定し地震対策を行っていたため、被害が小さかった部分もある[13][49]。住民が災害情報を得たメディアは9割近くがテレビ・ラジオだったことに加え[13]、この地震や先の鳥取県西部地震が起きた2000年代初頭は行政側が公式ホームページ上で情報を公開しそれをインターネットを通じて住民が得る状況になった[50]。
震度5弱以上観測した地点は以下の通り(名称は当時)[41][51][52][53]。
上記の他、中国四国の各県、佐賀県、熊本県、大分県、宮崎県内で震度4を観測した地点があった。また韓国釜山のメルカリ震度階級で3から4の震度を記録している[54]。当時は気象庁の発表地点ではなかったが、防災科学技術研究所の観測点「K-NET東予」(愛媛県西条市)で震度6弱を観測している[55]。この観測点は、2004年に「西条市周布」として気象庁の発表地点に追加された[56]。
この地震で1人が広島県呉市で隣家の崩れたブロック塀壁の下敷きとなり、1人が愛媛県北条市(現松山市)で落下してきた自宅ベランダの下敷きになって死亡した[57]。負傷者の特徴として、家屋内での落下物によるものと、店舗・工場内での火傷によるものが多かった[58]。また高齢者を中心に避難途中での瓦礫による負傷者が続出した[58]。死者が出た地震としては、愛媛では1946年南海地震以来[6]、広島では1949年安芸灘地震以来[10] のことであった。
震央から最も近い広島県呉市は当時県内3番目の人口のある特例市であり、戦前から海軍呉鎮守府とともに発達した「古い町」で、土地はすり鉢状で平野が狭く急傾斜地ギリギリまで土地開発している「坂の町」であったことから、石積・ブロック擁壁の崩落やそれに伴う木造建築の崩壊が深刻なレベルで発生した[59][60]。その土地の特性上、重機搬入も難しく復旧までに時間を要した[61]。なお地震直後のライフライン復旧には海上自衛隊呉基地から応援が出ている[42][62]。
消防庁確定報における被害数は以下の通り[41]。上から全国地方公共団体コード順。
災害関連法適用市町村
ライフライン
地盤災害(がけ崩れ・液状化現象)
その他特記
全般
1905年芸予地震
2001年芸予地震