第81回全国高等学校サッカー選手権大会は、2002年(平成14年)12月30日から2003年(平成15年)1月13日までの15日間にわたって行われた全国高等学校サッカー選手権大会である。
概要
- Jリーガーからのメッセージ(小野伸二) サッカーを愛しているから
日程
- 11月17日 - 全代表校決定
- 11月18日 - 全国大会組合せ抽選会(ヴェルファーレ)
- 12月30日(月) - 開会式・開幕戦(1回戦)
- 12月31日(火) - 1回戦
- 1月2日(木) - 2回戦
- 1月3日(金) - 3回戦
- 1月5日(日) - 準々決勝
- 1月7日(火) - 準決勝
- 1月13日(月・祝) - 決勝戦
使用会場
レギュレーションの変更点
- 今大会より、決勝戦の開催日が1月の第2月曜日(成人の日)となった[1]。
- 前回大会までは高校野球と同様に試合後に勝利した学校の校歌演奏が行われていたが、これを廃止し決勝戦に限り試合直前に両校の校歌を演奏する方式に変更した[1]。
- マッチコミッショナー制が今大会より導入された[2]。
出場校
試合結果
1回戦
国立競技場(開幕戦)
駒沢陸上競技場
- 青森山田 3 - 2 佐賀北
- 秋田商 3 - 1 水島工
西が丘サッカー場
- 帝京 2 - 2 (4 PK 2) 初芝橋本
- 佐野日大 2 - 0 金光大阪
埼玉スタジアム2002
- 武南 3 - 0 高松商
- 福島東 2 - 2 (5 PK 4) 大分
三ツ沢球技場
- 桐蔭学園 2 - 0 松山工
- 静岡学園 1 - 1 (2 PK 3) 多々良学園
柏の葉公園総合競技場
- 仙台育英 1 - 1 (1 PK 4) 野洲
- 岡崎城西 1 - 1 (4 PK 2) 広島皆実
千葉県総合運動場陸上競技場
- 市立船橋 6 - 1 一条
- 国士舘 3 - 6 那覇西
平塚競技場
さいたま市駒場スタジアム
- 地球環境 3 - 1 立正大淞南
- 山形中央 2 - 1 日生学園二
2回戦
西が丘サッカー場
- 国見 5 - 0 丸岡
- 青森山田 1 - 0 秋田商
駒沢陸上競技場
- 佐野日大 1 - 2 帝京
- 韮崎 1 - 6 大津
埼玉スタジアム2002
平塚競技場
- 日章学園 1 - 1 (4 PK 5) 前橋商
- 多々良学園 2 - 3 桐蔭学園
柏の葉公園総合競技場
- 鹿児島実 0 - 1 鹿島
- 野洲 3 - 1 岡崎城西
千葉県総合運動場陸上競技場
- 市立船橋 2 - 0 那覇西
- 盛岡商 1 - 1 (5 PK 3) 伏見工
三ツ沢球技場
さいたま市駒場スタジアム
- 地球環境 1 - 1 (5 PK 6) 山形中央
- 東福岡 4 - 0 岐阜工
3回戦
駒沢陸上競技場
- 帝京 0 - 0 (2 PK 0) 大津
- 国見 3 - 1 青森山田
さいたま市駒場スタジアム
- 北越 0 - 1 福島東
- 山形中央 0 - 2 東福岡
三ッ沢球技場
- 高知 1 - 3 滝川二
- 桐蔭学園 3 - 1 前橋商
千葉県総合運動場陸上競技場
- 市立船橋 4 - 0 盛岡商
- 鹿島 0 - 1 野洲
準々決勝
駒沢陸上競技場
- 国見 1 - 0 帝京
- 野洲 0 - 1 市立船橋
三ツ沢球技場
- 福島東 1 - 1 (2 PK 4) 桐蔭学園
- 滝川二 3 - 2 東福岡
準決勝
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決勝
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市立船橋
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1 - 0
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国見
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小川佳純 65分
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国立霞ヶ丘陸上競技場観客数: 51,986人 [3]
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得点王
大会優秀選手
GK
- 国領浩樹(市立船橋)
- 山下高明(帝京)
- 福島健太(滝川二)
- 時久省吾(大津)
DF
MF
FW
2年生以下優秀選手
DF
MF
FW
※選考合宿を行って、デュッセルドルフ国際ユース大会に参加する日本高校選抜を編成した。
大会記録
主な出場選手
- FW
- MF
- DF
- GK
岡山県予選決勝
2002年11月10日高校選手権岡山県大会決勝、水島工業高校-作陽高校戦の1-1で迎えた延長前半、作陽2年青山敏弘のシュートがゴールに入りVゴールが決まったかに思われた。この際、ゴール内のポールにボールが当たり、外に出てきたのを水島工GKがキャッチした。これを見た主審は副審に確認せずインプレーと勘違いし、ノーゴールと判定した。その後PK戦までもつれ5-3で水島工が勝利し優勝、全国への切符をつかんだ。
負けた作陽側は主管の岡山県高校体育連盟に抗議するものの判定は覆らず、勝った水島工側もサッカー部内で本大会出場するか辞退するかで割れ、本大会前に水島工のエースストライカーが退部するなど両者に暗い影を落とした[5][6][7]。世間は作陽を擁護する一方で、水島工は誹謗・中傷され本大会への移動の際には護衛がついた[7]。再試合を要求する声も出たが日本サッカー協会(JFA)は同年11月14日の理事会でこれを誤審と認めた[7] ものの、主管の判断を尊重し結果を覆さなかった。これらを重く見た川淵三郎JFA会長は、全国選手権開会式の際に水島工を訪れ一連の騒動を謝罪した[5][6]。
それから10年後にあたる2012年12月15日、遺恨解消を目的として両校関係者による再試合が行われている[7][8][9]。
脚注
関連項目
外部リンク
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本大会 |
1910年代 | |
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1920年代 | |
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1930年代 | |
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1940年代 | |
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1950年代 | |
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1960年代 | |
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1970年代 | |
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1980年代 | |
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1990年代 | |
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2000年代 | |
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2010年代 | |
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2020年代 | |
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地方大会 |
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記録/統計 | |
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