福田 秀平
基本情報 国籍
日本 出身地
神奈川県 横浜市 緑区 (現:青葉区 ) 生年月日
(1989-02-10 ) 1989年 2月10日 (35歳) 身長 体重
182 cm 77 kg 選手情報 投球・打席
右投左打 ポジション
外野手 、一塁手 プロ入り
2006年 高校生ドラフト1巡目 初出場
2010年4月30日 最終出場
2023年6月28日 経歴(括弧内はプロチーム在籍年度)
派遣歴
福田 秀平 (ふくだ しゅうへい、1989年 2月10日 - )は、神奈川県 横浜市 緑区 (現:青葉区 )出身の元プロ野球選手 (外野手 、内野手 )。右投左打。くふうハヤテベンチャーズ静岡 所属。
経歴
プロ入り前
1989年 2月10日 に神奈川県 横浜市 で生まれた[ 1] 。3歳から水泳 を始め、10歳の時に背泳ぎ 部門でジュニアオリンピック 代表候補になるほど成長した。同時期にサッカー部にも所属し、サッカー・水泳の指導者からの引き留めに会ったが最終的に野球を選択した[ 2] [ 3] 。野球は佐賀県 唐津市 出身で唐津東高校 で3年時に佐賀県大会ベスト4に進んだ父からも厳しい指導を受けた[ 3] 。横浜市立谷本小学校1年生の時に、藤が丘ファイヤーズに入り軟式野球 を始め、投手 と遊撃手 を兼任し、6年生では主将も務めた[ 3] 。横浜市立緑が丘中学校 在学中は、世田谷ボーイズで硬式野球 を始め、主に遊撃手を守った。
甲子園出場経験がなく、部員も20人ほどの多摩大聖ヶ丘高校 に進学、1年秋から二塁手のレギュラーに定着した。3年春に本格的にスイッチヒッター に転向すると才能が開花しプロからも注目される存在となった[ 3] 。3年夏の西東京大会 では準決勝で3番を任され本塁打を放ったが日本大学第三高校 に2対10で敗れた[ 4] [ 5] 。
2006年 9月25日のドラフト会議 ・高校生選択会議で大嶺祐太 (八重山商工 )の交渉権を獲得できなかった[ 注 1] ソフトバンクから1巡目指名を受け、同年10月19日に仮契約を結んだ[ 6] 。多摩大聖ヶ丘高は進学校であり、福田は同校初めてのプロスポーツ選手となった[ 7] 。2006年の高校生ドラフトで指名された平成生まれの選手は福田の他に延江大輔 、土井健大 、山田弘喜 の3人がいる。他の選手より早く仮契約を済ませ、福田は平成生まれのプロ野球選手第1号 となった[ 注 2] 。背番号 は37 。
ソフトバンク時代
ソフトバンク時代のビジターユニホーム姿
2007年 1月30日の必勝祈願で体調を崩し、2月1日に春季キャンプ初日を扁桃炎 により欠席した[ 8] 。2月4日に復帰して新人イベントを欠席し、休日練習を行った。ウエスタン・リーグ 公式戦では遊撃手・三塁手 として37試合に出場したが失策も多く、打率.135、3盗塁と結果が出なかったが、フェニックスリーグ で本塁打を打ち[ 9] 、秋季キャンプはA組に抜擢された[ 10] 。
2008年 は、2年目の春季キャンプはA組で迎えた[ 11] 。オープン戦は2打数無安打で二軍降格となった[ 12] 。5月6日のウエスタン・リーグ対阪神タイガース 戦7回の守備中に右足を負傷し、西宮市内 の病院で検査の結果、「右足腓骨 骨折」と診断された[ 13] 。7月に実戦復帰し、8月2日に山形県野球場 で行われたフレッシュオールスターゲーム は三塁の守備で途中出場した[ 14] 。8月13日のウエスタン・リーグ対広島東洋カープ 戦では城所龍磨 ・小斉祐輔 とリーグ記録タイの3者連続本塁打を打った[ 15] 。10月4日のファーム日本選手権 に8番二塁手として先発出場し、三塁打から得点を記録し、チームの日本一に貢献した[ 16] [ 17] 。二軍では新たに二塁手 にも挑戦し、43試合に出場して打率は.239まで上昇した。
2009年 7月3日のウエスタン・リーグ対広島戦の走塁で左足甲を傷め、「左足第5中足骨 の疲労骨折 」と診断され[ 18] 、福岡市内 の病院で手術を受けた。二軍では61試合に出場し、打率.277、13盗塁、13二塁打、5三塁打と長打も増え、守備率も向上した。秋季キャンプでは秋山幸二 監督から集中的に指導を受けた[ 19] 。
2010年 、1月は田中浩康 に弟子入りして海外自主トレを行い[ 20] [ 21] 、春季キャンプはA組スタートとなったが、練習試合の守備でミスを連発してB組降格となった[ 22] 。同年の二軍公式戦では3月から一塁手 、5月7日から外野手 として出場した[ 23] 。4月29日に、4年目にして初めて出場選手登録され、4月30日の対千葉ロッテマリーンズ 戦(福岡 Yahoo! JAPANドーム )で8回1点リード一死満塁の場面で李ボム浩 の代走 として出場し、プロ初出場を記録した[ 24] [ 25] 。その後は代走で出場し、5月12日の対中日ドラゴンズ 戦の6回にプロ初打席を代打 で迎えたが吉見一起 の前に空振り三振に倒れた[ 26] 。5月22日の対広島戦では8番中堅手 でプロ初の先発出場を果たし、4点リードの3回第2打席・一死満塁の場面で梅津智弘 からレフト線へ2点エンタイトル二塁打 で初安打・初打点を記録した[ 27] [ 28] 。中堅手としては二軍で2試合しか守ったことがなかったため、7回5点リード一死二・三塁の守備では石原慶幸 の打球を追う際に転倒し、これが2点適時打となって直後に先発・和田毅 は降板、自身も城所龍磨と交代した[ 29] 。6月6日に長谷川勇也 に代わり二軍降格となったが、6月22日再昇格し、7月19日の対埼玉西武ライオンズ 戦の5回2点リード一死一塁の場面で許銘傑 - 上本達之 バッテリーからプロ初盗塁を記録し、得点も挙げた[ 30] 。その後は代走要員としてシーズン終了まで一軍に残り、最終的に44試合で15得点を挙げたが、盗塁は3つにとどまった。一軍では先発出場はわずか4試合、守備時は外野の全ポジションと一塁で起用された。
クライマックスシリーズ では全6試合にベンチ入りし、10月18日第5戦で8回に代走として1試合のみ出場した[ 31] 。オフに両打ちから左打ちに専念することを決断した[ 32] [ 33] 。11月3日からオーストラリア のウィンターリーグ に派遣され[ 34] 、22試合に出場し、87打数24安打、打率.276、OPS.775、4本塁打、6打点、5盗塁、5失策だった[ 35] [ 36] 。
2011年 、同年より外野手登録へ変更された[ 1] 。春季キャンプは2月1日のベースランニング中に右足を痛め、右足太もも 裏肉離れ と診断され[ 37] 、福岡へ強制送還された[ 38] 。一軍合流後はアピールを続け[ 39] 、開幕を一軍で迎えた。代走での起用が続いたが、松中信彦 ・長谷川勇也の打撃不振により内川聖一 が中堅手から左翼手起用となり、4月30日の千葉ロッテ戦で約1年ぶりの先発出場を果たし、5回同点二死一・二塁の場面ではサブロー の打球をフェンス際で後ろを向いて倒れながら捕球するなど活躍し[ 40] 、その後13試合外野でスタメン 起用されたが、5月17日に自身の打率が2割を切り、代わりに起用された長谷川が5月の月間打率.306と結果を出したことで先発の座を奪われた。6月1日対中日戦で多村仁志 負傷交代時に活躍し交流戦優勝マジック点灯に貢献[ 41] 、6月6日の対広島戦では代走から出場し、2打席連続三塁打など結果を出し[ 42] 、6月12日には初めて一塁手で先発出場を果たした[ 43] 。6月18日から故郷・横浜スタジアム にて2試合に途中出場したが打席に立つことはなかった。6月23日の内川の離脱をきっかけに15試合連続でスタメン起用され[ 44] 、7月3日の対オリックス・バファローズ 戦ではプロ初のマルチ盗塁を決めた[ 45] 。7月10日の対千葉ロッテ戦では同点の4回に二塁打で出塁し、二死一・三塁の場面では一塁走者の中村晃 のスタート後に捕手・的場直樹 が二塁へ送球して渡辺俊介 がしゃがんだ瞬間スタートを切り、ダブルスチール を成功させ決勝点を挙げた[ 46] 。7月14日の対東北楽天ゴールデンイーグルス 戦の2回に飛びついて捕球した際に左肩を強打して負傷交代し[ 47] 、左肩関節亜脱臼 の疑いと診断され[ 48] 、7月15日に出場選手登録を抹消された。それに伴い予定されていたフレッシュオールスターゲームへの出場を辞退した[ 49] 。8月6日に一軍へ再昇格し、8月7日に一旦先発出場したが再び控え起用となった。調整で出場した8月30日のウエスタン・リーグ対オリックス戦で満塁本塁打を含む5打数5安打6打点の活躍し[ 50] 、9月6日の対北海道日本ハムファイターズ 戦で1か月ぶりの先発出場を果たすと、2回に守備で好返球、4回には同年18勝を挙げるダルビッシュ有 から決勝打となる先制の二塁打、7回にも三塁打と活躍し[ 51] 、シーズン終了までのスタメンを勝ち取った。9月28日の対日本ハム戦では武田勝 から適時打を含む3安打を放ちプロ初の猛打賞 を記録した[ 52] 。9月30日の対西武戦では5回3点ビハインドの場面で西口文也 のスライダーをライトスタンドに運びプロ1号となるソロ本塁打を放ち[ 53] 、7回同点無死二・三塁の場面では岡本篤志 から決勝適時打を放ち、優勝マジックを1とした[ 54] [ 1] 。10月1日の同カードでは6回一死二塁の場面で先発の岸孝之 から先制の適時打を放ち、明石健志 の三塁打で生還、3点リードの9回二死の場面では浅村栄斗 のライト線への飛球をスライディングキャッチしてチームはリーグ連覇を果たした[ 55] [ 56] [ 32] 。レギュラーシーズンは最終的に97試合に出場し、61試合に先発出場、打順は主に7・8番、守備位置は外野と一塁で起用され自己最多の22盗塁(成功率91.7パーセント)を記録した[ 57] 。打率.252だったが出塁率.281で四球はわずか4と課題も残した。
クライマックスシリーズ ファイナルステージは2試合に出場し、11月5日第3戦では10回1点ビハインドで代走から出場し、長谷川の適時打で同点の走者として二塁から生還、12回同点の場面では牧田和久 から二塁打を打ち、長谷川の安打で二塁からサヨナラの走者として生還しクライマックスシリーズ突破に貢献した[ 58] 。日本シリーズ は第1戦・第2戦のスタメンを含む全3試合に出場したが、11月13日第2戦の7回無死一・二塁の場面で同点に繋がる犠打を決めたものの無安打に終わり[ 59] 、第6戦では8回1点ビハインド二死一塁から代走起用されたが盗塁失敗した。なお平成生まれとして日本シリーズに出場した初めての選手となった。アジアシリーズ 予選リーグは統一セブンイレブン・ライオンズ との第1戦では無安打だったが、11月26日のサムスン・ライオンズ との第2戦では2回に先発の李宇善 から先制の適時二塁打を放ち勝利に貢献した[ 60] [ 61] 。パース・ヒート との第3戦は1四球にとどまった。11月29日のサムスンとの決勝戦では7回4点ビハインド二死二・三塁の場面で右中間の打球をスライディングキャッチしてピンチを救い、裏の攻撃で安打でチャンスメイクしたものの、2点差と迫った8回二死一・二塁・一打逆転の場面で初球凡退して試合は敗戦[ 62] 、2005年から続いた日本勢の連覇を止めた。
2012年5月4日福岡Yahoo!JAPANドームにて
2012年 は、2年連続開幕を一軍で迎えたものの控えとなり守備などで貢献した[ 63] 。5月11日には途中出場ながら初めて二塁手として出場したが守備機会は無かった。5月22日の対広島戦の先発起用で結果を出し[ 64] 、9試合連続でスタメンとなったが打率が2割を切り、再び控えに戻った。その後は代走や外野守備を中心に出場し、13盗塁中10個を代走で成功させていたが[ 65] 、7月18日の対オリックス戦の走塁中に左膝を痛め[ 66] 、7月25日に左大腿骨 骨挫傷のため出場選手登録を抹消され、その後は二軍公式戦も全て欠場した。同年は先発出場11試合と激減、打率も1割台で終えた。オフの11月6日に福岡市内の病院で「左大腿骨外顆軟骨損傷に対する関節鏡 視下手術」を行った[ 67] 。
2013年 、5月7日のウエスタン・リーグ対広島戦で代打として実戦に復帰した[ 68] 。7月3日に一軍へ昇格し、7月5日の対楽天戦では復帰後初の先発起用に応えて宮川将 から適時三塁打を打った[ 69] 。その後は控え中心の起用に戻ったが、8月2日の対西武戦で代走から盗塁を決め、年度を跨ぐ参考記録ながら広瀬叔功 の日本記録に並ぶ31連続盗塁成功を達成した[ 70] 。打率.125と低調になり8月12日に二軍へ降格したが、打撃で結果を出して8月30日に再昇格し、シーズン終了まで一軍に残った。一軍出場は33試合、先発出場もわずか4試合、打率も前年を下回り、盗塁も1度だけだった。11月1日からプエルトリコ のウィンターリーグに派遣され、21試合に出場し84打数20安打、打率.238、OPS.664、1本塁打、7打点、3盗塁、無失策だった[ 71] [ 72] 。現地では元・福岡ダイエーホークス 所属のペドロ・バルデス 打撃コーチから打撃指導を受けた[ 73] 。12月7日に岡島秀樹 の入団に伴い、背番号を31 に変更した[ 74] [ 75] 。
2014年 1月31日にインフルエンザ に感染し、キャンプ地入りできず出遅れ[ 76] 、一旦一軍に合流したものの[ 77] 、開幕は二軍で迎えた。8月13日に福岡市内の病院で「右大腿骨 外側膝蓋溝軟骨損傷による内視鏡下デブリードマン 手術」を受けると発表した[ 78] 。さらに8月28日にも福岡市内の病院で「左肩関節 の内視鏡下バンカート手術」を受けた[ 79] 。長期リハビリ を要して一軍出場なしに終わった。二軍では手術前時点の成績でリーグ2位の19盗塁を記録した(成功率90.5パーセント)[ 80] 。11月26日に背番号を37 に戻した[ 81] 。
2015年 は、春季キャンプ中の2月20日に斗山ベアーズ との練習試合で約8か月ぶりに実戦復帰を果たしたが[ 82] 、3月23日のウエスタン・リーグ対広島戦で帰塁の際に右手を負傷し、福岡市内の病院で検査の結果、「右手第4指中節骨 骨折」と診断された[ 83] 。4月28日の三軍対徳島インディゴソックス 戦で実戦復帰した[ 84] 。5月8日に午前中の二軍戦で結果を出したことで、工藤公康 新監督から同日の対楽天戦で一軍昇格即スタメンに抜擢され、結果で応えた[ 85] 。5月9日の同カードでは10回の代走で二盗を成功させ、2011年からの連続盗塁を32に伸ばし、新記録となった[ 86] 。この記録は翌5月10日の同カードで三盗に失敗し、記録は途切れた[ 87] 。同年は、レギュラー外野手の長谷川勇也 の離脱などもあり、出場機会が増加し、84試合の出場を果たした。
2016年9月28日QVCマリンフィールドにて
2016年 、3月25日にコボスタ宮城 行われた開幕戦、対楽天戦において、1番・右翼手でプロ10年目にして初の開幕スタメン 出場を果たし、2回には適時打を記録する[ 88] 。5月まで先発出場で起用されていたが、城所龍磨 の好調もあり、徐々に出場機会を失い、6月2日に一軍出場選手登録を抹消される[ 89] 。7月12日に一軍再昇格[ 90] 、9月10日に福岡ヤフオク!ドーム 行われた対西武戦において、自身シーズン最多の3号ソロ本塁打を放つ[ 91] 。シーズン成績は、81試合に出場、打率.231、3本塁打、11盗塁だった。12月21日、契約更改交渉を行い、200万円ダウンの2300万円(金額は推定)で契約更改した[ 92] 。
2017年 は、激しい外野手のポジション争いの中[ 93] 、開幕一軍選手登録を勝ち取る[ 94] 。自身が尊敬してやまない川﨑宗則 の6年ぶりの日本プロ野球復帰戦となった4月28日の対オリックス戦において、決勝となる2点本塁打を放つ[ 95] 。6月25日の対西武戦では、1点ビハインド9回二死一塁の状況で、増田達至 から2点本塁打を放ち、プロ初のサヨナラ 本塁打を記録する[ 96] 。この活躍により、7月12日に6月度の「スカパー! ドラマティック・サヨナラ賞 」を受賞する[ 97] 。8月31日の対日本ハム戦では、相性の良い大谷翔平 から勝ち越し打となる3点本塁打を放つ[ 98] 。9月1日の対楽天戦でジャフェット・アマダー が起こした乱闘騒ぎでは、身を挺して東浜巨 を守るなど献身的な姿をみせる[ 99] 。上林誠知 の台頭などで激しい外野手のポジション争いがあったが、守備や代走、代打の起用が中心ながら過去最多の104試合の出場を果たした。12月1日、契約更改交渉に臨み、500万円アップとなる年俸2800万円(金額は推定)でサインした[ 100] 。
2018年 も、前年同様、激しい外野手のポジション争いの中、開幕一軍を勝ち取る。左の代打、代走、内外野の守備固めなどの起用が中心でありながら、怪我人の多かった開幕一軍メンバーの中で1回も二軍降格することなく、前年を上回る自己最多の110試合に出場を果たす。また、前年とあまり打席数が変わらないながら、自己最多の7本塁打を記録するなど、ここ一番の勝負強さや持ち前のパンチ力を見せつけるシーズンとなった。5月16日の楽天戦では自身初の1試合4安打を記録した[ 101] 。10月2日のロッテ戦では自身初の2打席連続本塁打を記録した[ 102] 。12月27日、契約更改交渉に臨み、800万円アップとなる年俸3600万円(金額は推定)でサインした[ 103] 。
2019年 、開幕一軍を勝ち取るもスタメン争いには敗れた。4月10日に7番・左翼手で同年初のスタメン出場。4月14日の対楽天戦では5番・左翼手でスタメン出場するも、9回の第5打席でスイングした際に左脇腹を痛め[ 104] 、翌4月15日に登録抹消された[ 105] 。5月25日に再登録され、同日の試合で7番・右翼手でスタメンとして復帰したものの[ 106] 、5月28日の試合では負傷箇所である左脇腹の張りを訴えて途中交代した[ 107] 。その後も試合出場は続けるも状態は上がらず、球宴明けは出場出番がないまま7月20日に登録抹消された[ 108] 。8月10日に再登録され、同日の試合で8番・中堅手でスタメンとして復帰[ 109] 。その後はシーズン終了まで一軍に帯同した、2度の登録抹消もあり出場は80試合にとどまったが、9本塁打、26打点は自己最高を記録。10月20日、読売ジャイアンツ との日本シリーズ第2戦では本塁打を放った[ 110] 。オフシーズンの10月26日に国内フリーエージェント権 を行使し[ 111] 、宣言前から残留要請をしていたソフトバンクの他、埼玉西武ライオンズ 、中日ドラゴンズ 、東京ヤクルトスワローズ 、千葉ロッテマリーンズ 、東北楽天ゴールデンイーグルス の計6球団と交渉の席に着いた[ 112] 。ソフトバンクからは4年契約5億円の提示がなされ、他球団からは、楽天の4年7億円プラス出来高で総額10億円にも上る破格の条件を始め、5球団全てが、4年5億円だったソフトバンクを上回る条件を提示した[ 113] 。
ロッテ時代
2019年11月26日、自身の後援会公式ブログ内にて千葉ロッテマリーンズの移籍を表明した。ロッテへの移籍を決めた要因について、福田はドラフト会議の数日前に当時の担当スカウトであった松本尚樹 が多摩大聖ヶ丘高校を訪れ、福田を高く評価した上で「彼を指名したい」という旨を伝えており[ 注 3] 、その担当スカウトが現在は球団本部長で福田のFA交渉の場にも同席していたこと[ 6] [ 114] 、プロ2年目の2008年6月に父親を心筋梗塞 で亡くした際、野球を辞めようとまで考えていたところ、その直後の同年7月に乳癌 で夫人を亡くした鳥越裕介 二軍内野守備走塁コーチ(当時。元ロッテ二軍監督)に励まされたことで「プロ野球選手として生きていく覚悟を決めるきっかけを作ってくださった」という経緯があり、FA時にロッテでヘッドコーチを務めていた同コーチから「5回以上」電話で熱烈に口説かれたことを理由として挙げている[ 113] [ 115] 。年俸は4年4億8000万円プラス出来高(金額は推定)となり、3600万からの大幅アップとなった[ 116] 。背番号は7 [ 117] 。
2020年 は、6月の練習試合で12球団6位となる打率.364を記録し[ 118] 、6月19日に行われた古巣ソフトバンクとの開幕戦(福岡PayPayドーム )に「1番・中堅手」としてスタメン出場したが、4打数無安打1四球に終わる。翌日、福岡市内の病院で診察を受けたところ、16日の練習試合の対巨人 戦で藤岡貴裕 から受けた死球による右肩甲骨 の亀裂骨折と診断され、21日に一軍登録抹消となった[ 119] 。7月17日に実戦復帰すると[ 120] 、7月23日に右大腿二頭筋の筋損傷で離脱した荻野貴司 と入れ替わりで一軍登録された[ 121] 。その後は調子が上がらず、打率は一時.122まで落ち込んだが[ 122] 、8月4日の対オリックス戦(京セラドーム)で移籍後初本塁打を放つ[ 123] と調子は上向き、同23日のソフトバンク戦からは3試合連続マルチ安打を記録したが[ 122] 、同29日に右恥骨筋 損傷で再び離脱[ 122] 。9月23日の対楽天戦(楽天生命パーク )で復帰すると、同試合から5試合連続安打を記録[ 122] し、同27日の対ソフトバンク戦(ZOZOマリン)では4安打3打点を挙げ[ 124] 、10月3日の対西武戦(ZOZOマリン)では、同点の3点本塁打を放つなど、優勝争い中のチームを支えた[ 125] 。しかし、同6日以降は当たりが止まり、藤原恭大 の台頭もあり、シーズン最終盤はスタメンを外れることも増えた[ 122] 。最終的に、62試合の出場で、打率.216、5本塁打、19打点という成績に終わった。クライマックスシリーズ では、第2戦に「7番・左翼手」で出場したが、4打数無安打に終わり、チームも敗退した[ 126] [ 127] 。
2021年 、移籍2年目は前年骨折した右肩甲骨の症状が長引き[ 128] 、開幕は二軍スタートとなった[ 129] 。7月3日に昇格し[ 130] 、翌4日の対イーグルス戦(ZOZOマリン)では決勝適時打を放つが[ 131] 、右肩甲骨の痛みが抜けず(本人曰く「(肩甲骨から上腕骨に伸びる)棘下筋 が萎縮してしまった。それによって肩に痛みが出るようになった[ 132] 」)、二軍で右肩甲骨周辺のリハビリ中だった8月28日には新型コロナウイルス 感染が発覚[ 133] 。この年は和田康士朗 、荻野貴司 が揃って盗塁王 を獲得し、さらにチーム2位の本塁打を放ったレオネス・マーティン がおり、若手の藤原恭大 ・山口航輝 も出場機会を大幅に増やす外野手争いの中、一軍ではわずか4試合の出場、安打は1本のみだった。
2022年 は一軍で20試合に出場するも打率は.171で、オフに右肩の肩関節包切除など死球の後遺症を取り除くための手術を受けた[ 134] 。
2023年 は移籍後最少の出場3試合に終わり、オフに戦力外通告 を受けた[ 135] 。
くふうハヤテ時代
同年12月7日、2024年からのウエスタン・リーグ 参加の承認を受けているハヤテ223(当時チーム名未定、その後「くふうハヤテベンチャーズ静岡 」と発表)の新入団選手として発表された[ 136] 。ハヤテが独自に実施したトライアウトには参加していなかったものの、12球団合同トライアウト は受験していた[ 137] 。背番号は37 。故障を抱えていた右肩がこの年の終盤から良くなっていたことで、「もう1年勝負しよう」と決意しての入団だった[ 138] [ 139] 。
2024年シーズンに入ると春先から右肩の故障箇所が悪化してしまい[ 138] [ 139] 、病院での検査を受けたところ、腱板の断裂のほか、上腕骨と肩甲骨の骨の変形が加速しているという診断を受けた[ 140] 。打撃の調子はあがらず、さらに一時体調に不良により離脱していたが、体調不良からの復帰戦となった4月19日の阪神 戦では、代打で途中出場し、サヨナラ安打を含む2本の適時打を記録し、球団初のサヨナラ勝ちに貢献した[ 141] 。しかし、練習がままならぬ痛みで、夜間痛もあるという[ 140] 故障箇所の悪化から現役続行は難しいと判断し、家族とも相談の上、5月の時点で現役引退を決意し[ 138] [ 139] 、NPB球団の補強期間終了日である7月31日には現役引退の方針が各紙で報じられた。同日時点で二軍戦52試合出場し、打率.170、0本塁打、15打点の成績だった[ 142] 。8月1日に引退会見が行われ、会見後の花束贈呈のときにはソフトバンク時代の先輩である川﨑宗則 が登場するサプライズがあった[ 138] [ 139] 。9月28日の阪神戦が折下光輝 との合同引退試合となり、福田は3番・指名打者として先発出場。第1打席で右前への安打を記録し、二盗も記録した[ 143] 。最終的な成績は58試合の出場で、打率.173、0本塁打、15打点、6盗塁だった[ 144] 。
選手としての特徴
プロ入り前は高校通算38本塁打、50メートル走 のタイムは6秒0、ベースランニング1周のタイムは14秒0の俊足だった[ 2] [ 3] 。通算盗塁成功率は8割を超える。プロ入り後も、一定の長打力と走力を兼ね備えている。ソフトバンク時代は、チーム状況に応じて、スタメン出場もあったが、代打、代走、守備固めの出場が多かった。守備では、外野だけでなく、ファースト、セカンドも守れるユーティリティである。
元来左打ちだったが、高校3年の夏前に左投手が打てずスイッチヒッター に転向した[ 19] 。2010年オフに秋山幸二監督の助言により左打ちに専念し、左腕対策としては川﨑宗則 のアドバイスにより、ベースラインぎりぎりに立っていた打席を、ベースから少し離れて外角には思い切り踏み込むようになった[ 32] 。
好投手から多くの本塁打を放っていることから、エース キラーとも称される[ 145] 。
2015年から2019年までソフトバンクのコーチだった飯田哲也 は福田について、守備は「彼の守りはうまいだけでなく“攻めて”いるんですよ。最近は、ここでチャレンジしてほしいなって場面でも無難にプレーする選手が多い中、彼はアグレッシブに行ける選手です」、打撃は「彼は“エースキラー”なんです。なぜなら速いストレートをものともしない」と述べ、2016年、2017年と大谷翔平 から本塁打を打っている[ 146] 。
人物
愛称は「福ちゃん 」、「秀平 」[ 147] 。
同学年の斎藤佑樹 (日本ハム)とは高校時代からの友人でもあり、プロになってからも遠征先で会食をする仲である[ 148] 。
プロ入り時の契約金で、病気で片足を失った父親のために義足 を購入した[ 149] 。また、当時のドラフト会議時には指名された選手の顔写真がモニターに表示されるが、中央球界では無名であったので、ドラフト1位の選手の中で唯一顔写真が表示されなかった。
ドラフト指名時の目標とする選手に当時ソフトバンクに所属していた川﨑宗則を挙げ[ 7] 、2008年1月の自主トレは合同で行った[ 150] 。
2016年10月29日、一般女性と同月9日に婚姻届を提出したと報じられた[ 151] 。
2017年11月28日、第一子となる男児が誕生したと球団より発表された[ 152] 。
ソフトバンク所属時、打撃投手兼広報を務めていた帆足和幸 は、2017年、子供記者からの「一番凄い打者と思うのは誰ですか」の問いに、「福田秀平選手かな」「福田選手は一軍の試合にはあまり出ないけど、裏で凄く練習しているから」と評価した[ 153] 。
大のホークスファンで知られる声優 の内田真礼 が2017年の「鷹の祭典」で甲斐拓也へのインタビュアーを務めた際、その後ろで福田が内田に気を取られて防球フェンスに激突した「珍場面」が話題となり、その縁で松田宣浩 らと共に内田のイベントにメッセージを送った[ 154] 。そして2018年9月11日発行の日刊スポーツ に、内田と福田の対談記事が掲載された。福田によると「あのときは(甲斐)拓也 がインタビューを受けていて「きれいな方と拓也が話しているな」と思いながら見ていたら(ぶつかった)」とのことである[ 155] 。この対談を取材していた日刊スポーツの記者は、「内田が始球式 に来場した当日、内田のことを詳しく知らない選手もいたが、福田は関係者から仕入れたり自身が調べた情報を元に「野球界で例えると、柳田クラスの人気」などと紹介し、チームメイトも内田への関心を強めた。そんな福田の姿勢がイベントを盛り上げたと思われる」と分析している[ 156] 。
ソフトバンクホークス時代の好物は、ヤフオクドームの選手食堂のカレーライス であり、これがレトルト食品として商品化されると、一度に20個ほど大量購入し自宅にストックしている[ 157] 。
千葉ロッテマリーンズでの応援歌は Janne Da Arc の 「霞ゆく空背にして 」を原曲としており、福田本人も口ずさむほど気に入っている[ 158] 。しかし、新型コロナウイルスによる無観客試合や応援スタイルの規制によって現在球場での演奏は2022年まで見送られた。その後2023年より声出し応援、鳴り物応援が解禁となり、同年6月25日、そのシーズンの福田の初出場試合となった北海道日本ハム戦にて3年越しに初めて使用された。
趣味の一つに競艇 (ボートレース)があり、柳田悠岐 とはボートレース仲間[ 159] 。
詳細情報
年度別打撃成績
年 度
球 団
試 合
打 席
打 数
得 点
安 打
二 塁 打
三 塁 打
本 塁 打
塁 打
打 点
盗 塁
盗 塁 死
犠 打
犠 飛
四 球
敬 遠
死 球
三 振
併 殺 打
打 率
出 塁 率
長 打 率
O P S
2010
ソフトバンク
44
29
23
15
6
2
0
0
8
3
3
0
4
0
2
0
0
8
0
.261
.320
.348
.668
2011
97
244
218
30
55
7
3
1
71
22
22
2
16
1
4
0
5
48
1
.252
.281
.326
.607
2012
63
55
53
12
10
1
0
0
11
5
13
0
1
0
1
0
0
18
0
.189
.208
.208
.416
2013
33
28
25
4
3
1
1
0
6
1
1
0
2
0
1
0
0
10
0
.120
.154
.240
.394
2015
84
183
168
28
39
11
2
1
57
14
10
4
3
0
12
0
0
35
1
.232
.283
.339
.622
2016
81
239
212
30
49
5
4
3
71
18
11
3
4
2
20
1
1
51
2
.231
.298
.335
.633
2017
104
113
104
15
19
2
1
3
32
16
4
2
3
0
6
0
0
34
1
.183
.227
.308
.535
2018
110
128
118
28
31
6
0
7
58
15
6
1
4
0
4
0
2
35
6
.263
.298
.492
.790
2019
80
183
166
27
43
8
0
9
78
26
9
3
4
2
11
1
0
48
1
.259
.302
.470
.772
2020
ロッテ
62
225
204
20
44
11
1
5
72
19
3
5
4
0
17
2
0
73
3
.216
.276
.353
.629
2021
4
13
12
1
1
1
0
0
2
2
1
0
0
0
1
0
0
4
0
.083
.154
.167
.321
2022
20
48
41
3
7
1
0
0
8
4
1
0
0
0
7
0
0
13
0
.171
.292
.195
.487
2023
3
9
8
0
2
0
0
0
2
0
1
0
0
0
1
0
0
3
0
.250
.333
.250
.583
通算:13年
785
1497
1352
213
309
56
12
29
476
145
85
20
45
5
87
4
8
380
15
.229
.278
.352
.630
年度別守備成績
年 度
球 団
一塁
二塁
三塁
外野
試 合
刺 殺
補 殺
失 策
併 殺
守 備 率
試 合
刺 殺
補 殺
失 策
併 殺
守 備 率
試 合
刺 殺
補 殺
失 策
併 殺
守 備 率
試 合
刺 殺
補 殺
失 策
併 殺
守 備 率
2010
ソフトバンク
2
3
0
0
0
1.000
-
-
13
7
0
0
0
1.000
2011
22
74
7
0
5
1.000
-
-
75
115
3
0
2
1.000
2012
14
30
1
1
0
.969
1
0
0
0
0
----
-
40
30
0
0
0
1.000
2013
-
-
-
23
9
0
0
0
1.000
2015
-
-
-
77
77
1
2
0
.975
2016
-
-
-
68
83
1
2
0
.977
2017
12
40
6
0
4
1.000
-
-
84
61
0
0
0
1.000
2018
24
103
12
1
12
.991
3
3
0
0
0
1.000
1
0
0
0
0
----
67
42
0
0
0
1.000
2019
6
5
0
0
1
1.000
1
0
2
0
0
1.000
-
64
67
0
0
0
1.000
2020
ロッテ
2
2
0
0
0
1.000
-
-
58
104
0
0
0
1.000
2021
-
-
-
4
8
0
0
0
1.000
2022
1
5
1
1
1
.857
-
-
8
16
1
0
1
1.000
通算
83
262
27
3
23
.990
5
3
2
0
0
1.000
1
0
0
0
0
----
581
619
6
4
3
.994
表彰
記録
初記録
背番号
37 (2007年 - 2013年、2015年 - 2019年、2024年 - )
31 (2014年)
7 (2020年 - 2023年)
登場曲
脚注
注釈
^ 千葉ロッテマリーンズとの1巡目指名競合となり、くじ引きの結果、千葉ロッテが交渉権獲得した。
^ 1989年生まれとしては2004年ドラフト で辻本賢人 が指名されているが、まだ昭和64年だった1月6日に生まれたため、平成生まれのプロ野球選手には該当しない。
^ その後、当時の監督だったボビー・バレンタイン の意向で1巡目指名を大嶺祐太に急遽変更。前述の通り、競合抽選を経て千葉ロッテが獲得したため福岡ソフトバンクホークスが外れ1位で福田を指名した。
出典
関連項目
外部リンク