玉木 雄一郎(たまき ゆういちろう、1969年〈昭和44年〉5月1日 - )は、日本の政治家、元大蔵・財務官僚。国民民主党所属の衆議院議員(6期)、国民民主党代表[3][4](初代)。
旧国民民主党代表(第2代)、同党共同代表、希望の党代表(第2代)、同党共同代表、民進党幹事長代理を歴任した[5]。
香川県大川郡寒川町(現:さぬき市)に3兄弟の長男として誕生[6]。祖父は大川農協組合長、父は獣医師で香川県獣医師会副会長を務めつつ兼業で農業を営んでおり、玉木も田植えや麦蒔き、肥料や農薬の散布を手伝い、農作業から協力や共生の重要性を学んだ[7]。
寒川町立神前小学校、寒川町立天王中学校、香川県立高松高等学校、東京大学法学部卒業[1]。
大学時代は陸上競技部に入り、当初は短距離選手だったが、後に十種競技に転向した[8][9]。東京大学陸上競技部時代には、運動生理学研究の第一人者としても知られ、十種競技選手経験があった八田秀雄の指導を受けた[10]。
大学卒業後の1993年(平成5年)4月、財務省(当時の大蔵省)に入省。主計局総務課に配属される[11][1]。1995年(平成7年)、アメリカのハーバード大学ケネディ・スクールに留学[12]。1997年(平成9年)、同校よりMPA取得。1998年(平成10年)、大蔵省接待汚職事件が発生。この事件を目の当たりにしたことと留学の経験が政治家を志す契機となった[7]。外務省への出向(中近東第一課)を経て、2001年(平成13年)より大阪国税局総務課長。2002年(平成14年)より内閣府へ出向[13]。第1次小泉内閣にて、行政改革担当大臣の石原伸晃の下で秘書専門官に就任[14]。以降、累計3代の同大臣の秘書専門官を務める[15]。第2代大臣の金子一義から「政治家にならないか」と誘われ、自民党幹事長(当時)の安倍晋三と面談した。しかし同党は玉木の地元である香川2区には既に別の国会議員を擁していたため、安倍は別の小選挙区からの立候補を提示した。玉木は「国政に挑戦するなら、先祖の墓のある場所でやりたい」と考え、出馬を断念した[7]。
2005年(平成17年)、財務省主計局主査を最後に財務省を退官[13]。
同年9月の第44回衆議院議員総選挙(郵政選挙)に民主党公認で香川2区から立候補した[注釈 1]。政権与党の自民党ではなく野党の民主党から出馬した理由は、「自民党内の派閥争いではなく、政党同士の争いで政権交代を実現すべき」と考えたからである[7]。しかし、この選挙は小泉旋風によって自民党が大勝し、玉木は自民党前職の木村義雄に大敗し落選した[16]。
落選後、地元で広報活動に務める中で、かつて同地出身で内閣総理大臣を務めた大平正芳の長女である森田芳子[注釈 2]を訪ねた。玉木は、自分が大平正芳の遠い親族にあたることを浪人時代に知り[17]、大平家の協力を得たいと考えた。玉木は大平が率いた自民党とは対立する民主党の候補であり、森田芳子は玉木との接触を当初は躊躇していた。しかし秘書専門官として仕えた村上誠一郎の口添えにより[17]、最終的に面会に応じ、さらに芳子の長女(大平の孫)である渡辺満子[注釈 3]を玉木に紹介した[7]。その後、渡辺は2009年(平成21年)から玉木の公設秘書を務めた。渡辺は玉木を「大平の精神を受け継ぐもの」と認め、選挙区内の自民党支持者らに玉木への支持を訴えた[7]。2009年8月の第45回衆議院議員総選挙に民主党公認で再び香川2区から立候補。前回敗れた木村を下し、初当選した[18]。この選挙で民主党は大勝して政権交代を起こし、政権与党の一員として政治家人生のスタートを切った。
2009年12月には、小沢一郎を名誉団長とする小沢訪中団に参加し、中国を訪問した[19]。
2010年(平成22年)、民主党香川県連代表に就任。同年10月、民主党政策調査会長に就任した前原誠司の下で政調会長補佐に起用される[20][21]。
2012年(平成24年)12月の第46回衆議院議員総選挙では、民主党に猛烈な逆風が吹き荒れる中[22]、香川2区で自民党新人の瀬戸隆一を僅差で破り、再選した(瀬戸は比例復活した)[23]。しかし、民主党は大敗して自民党が再び政権を奪還し、玉木も与党の一員から野党に下った。なお、この選挙において四国地方および中国地方、九州・沖縄地方(つまり香川県よりも西側にある17の県および71の小選挙区)のなかで、民主党候補が小選挙区で当選したのは玉木ただ一人であった(同範囲で他の民主党候補はすべて敗れ、一部が比例復活したのみだった)[24]。
2013年(平成25年)、民主党副幹事長および政策調査副会長に就任。『次の内閣』会議において行財政改革や地域主権改革を訴えた[25]。
2014年(平成26年)12月の第47回衆議院議員総選挙では、香川2区で再び瀬戸を下し、3選(瀬戸も比例復活)[26]。
2016年(平成28年)9月の民進党代表選挙に立候補して116ポイントを獲得したが、1回目の投票で過半数を獲得した蓮舫に敗れた[27]。選挙後の役員人事では幹事長代理に就任した[28]。
2017年(平成29年)10月の第48回衆議院議員総選挙では、民進党が希望の党への合流を決めたことを受け、同党の公認で出馬し香川2区で4選。同年11月10日の希望の党共同代表選挙に立候補して39票を獲得し、14票の大串博志を抑えて共同代表に選出された[29]。
同年11月14日、新執行部人事の承認を諮る両院議員総会で辞任を表明した小池百合子の後継として希望の党代表に就任した[30]。
2018年(平成30年)5月7日、民進党・希望の党のそれぞれの一部議員が合流し結党された国民民主党において、大塚耕平とともに共同代表に就任した[31]。同年7月には動画共有サイトのYouTubeでの発信媒体『たまきチャンネル』を開設し、YouTuberとしての活動を開始した[32](すでに玉木事務所による動画投稿はあったが、それとは別に玉木個人のものとして開設した)。
以後、同媒体では当時流行していたタピオカティーの飲み比べを行うなどの若者受けを意識した内容のほか、街頭で市民にインタビューを行う企画や、志位和夫、山本太郎、立花孝志[32]など他政党の党首との対談、また自身および国民民主党の政策の解説などといった政治活動を発信している。
同年9月4日、津村啓介と共に国民民主党代表選挙へ立候補。「対決より解決」を主張してきた玉木が、野党共闘を訴えた津村を大差で破り、新代表(単独)に就任した[33]。
2019年(平成31年)4月26日、小沢一郎が率いる自由党との合併を果たした(国民民主党が自由党を吸収する形で、代表は引き続き玉木が務めた)。
2019年(令和元年)6月19日、第198通常国会で、内閣総理大臣の安倍晋三と野党の党首らによる党首討論に臨んだ。この際、上述のYouTubeチャンネルの企画の一環として、視聴者からYouTubeおよびTwitter(別個のSNS)において質問を受け付けるという企画を行った[34]。さらに同年10月10日、第200臨時国会での衆議院予算委員会基本的質疑においても、同様の企画を行った[35][36]。2019年末から2020年(令和2年)にかけて、国民民主党と、最大野党である立憲民主党との合流協議が行われた。しかし党内の意見がまとまらず[37]、2020年8月11日、同党を「立憲民主党への合流組」と「残留組」に分党すると表明し、玉木は合流新党(後に新・立憲民主党として結成)に参加しない意向を示した[38]。9月11日、残留組による新「国民民主党」の参加メンバーが協議を行い、玉木の代表就任を決めた[39]。
2020年12月、新・国民民主党の代表選が8日告示、18日投開票の日程で行われ、玉木が伊藤孝恵参議院議員を大差で破り代表に再選した[40][41]。
2021年(令和3年)4月27日、立憲民主党代表の枝野幸男は次期衆院選における野党共闘を目指し、国民民主党代表の玉木、日本共産党委員長の志位和夫とそれぞれ会談。枝野と玉木は、候補者の一本化に加え、立憲と国民、連合の3者で雇用など共通の政策の策定に向けた協議をスタートさせることで意見を一致させた[42]。だが「野党連合政権」の樹立を望む立憲民主党と共産党に玉木は反発。翌4月28日、記者会見を開き「日米同盟を基軸とせずに日本の安全・安心を保つすべが見当たらない」「(それゆえ)共産党が入る政権には入らない」と述べた[43]。
同年7月15日、連合は次期衆院選に向け、国民民主党、立憲民主党両党と個別に同じ内容の政策協定を締結した。協定書には「左右の全体主義を排し、健全な民主主義の再興を推進する」と書かれていたが、玉木は記者会見で「『左右の全体主義』とは共産主義、共産党のことだと認識している」と述べた[44]。翌7月16日、日本共産党の田村智子政策委員長は記者会見で、玉木が「共産党のことだ」と名指ししたことについて、「日本共産党は、安全保障法制は民主主義の危機ということで、市民と野党の共闘を呼びかけた」と過去の行動を例示し、「事実と違う発言だ」と反論した[45]。
同年8月17日、野党4党による合同集会が終わった後、玉木は共産党の志位和夫委員長に「共産主義は、ソビエトが典型だが全体主義と非常に親和性があったのは歴史的事実で、そういう政治体制になってはいけないという趣旨で申し上げた」と釈明。「日本共産党を同一視したことについては改めたい」と伝えた。さらに玉木は18日に記者会見し「共産党を含めた野党の戦術的な一体感は不可欠だ」と述べたが[46]、8月29日放送のBSテレビ東京『NIKKEI 日曜サロン』で「(長期的には)場合によっては与党とも連携し政策を実現していく」と語った[47]。9月2日の記者会見では、次期衆院選後に国民民主党が自公政権入りする可能性について、「考えていない」と否定した[48]。
2021年10月31日、第49回衆議院議員総選挙で5選[49]。
2023年7月25日、自身の任期満了に伴う党代表選挙への出馬を表明[50]。同年8月21日に告示され、前原誠司衆議院議員との一騎打ちとなり、日本共産党を除く野党との連携強化を目指す前原に対し、玉木は政策実現のためなら与党との協調も排除しない旨の主張を展開[51]。同年9月2日に投開票が行われ、合計111ポイントのうち80ポイントを獲得し、再選を果たした[51]。
2024年10月27日、第50回衆議院議員総選挙で6選となった[52]。しかし、再選直後に写真週刊誌のWEB記事で配信された自身の醜聞(後述)により、党倫理委員会により調査が行われた結果「代表の行為であり個人の問題でなく党の名誉・信頼を傷つけた」として、同年12月4日の両院議員総会で「党役職停止3か月」の処分が決定した。役職停止期間中は古川元久代表代行が職務を代行する[53]。
2025年3月4日、役職停止期間を終え、代表職に復帰した[54][55]。
玉木は「土の匂いのする政治家」「土着の保守政治家」を自認し、政治的立ち位置として「改革中道」「中道保守」などを志向している[56][57]。
私は自分自身を保守政治家だと認識しています。保守の本質とは何か。それは継続性に対するリスペクトではないでしょうか。長く繋がる鎖の一つとして、先達から受け継ぎ、次代へバトンをわたすという信条を土台に、物事を発想するのが本来の保守政治家だと私は考えています。その意味で「永遠の今」は、保守の思想を象徴する言葉です。 —玉木雄一郎、『歴史劇画 大宰相』(講談社文庫より刊行、さいとう・たかを=著、戸川猪佐武=原作)の第8巻の解説より[58]
私は自分自身を保守政治家だと認識しています。保守の本質とは何か。それは継続性に対するリスペクトではないでしょうか。長く繋がる鎖の一つとして、先達から受け継ぎ、次代へバトンをわたすという信条を土台に、物事を発想するのが本来の保守政治家だと私は考えています。その意味で「永遠の今」は、保守の思想を象徴する言葉です。
—玉木雄一郎、『歴史劇画 大宰相』(講談社文庫より刊行、さいとう・たかを=著、戸川猪佐武=原作)の第8巻の解説より[58]
政策については本人のホームページの「基本政策」を参照[59]。
政治の役割は、「国のふところ」を豊かにすることではなく、「国民のふところ」を豊かにすることであり、インフレと円安で増えた国の税収と税外収入(外為特会の利益など)を国民に適切に還元するとして以下の4つをそのための重要政策として掲げている。
賃上げの流れを、香川県の中小企業や非正規、介護・看護・保育などの分野にも拡大するとしている。給料が上がれば年金も上がるため、年金アップのためにも賃金アップに全力を傾けるとしている。
今も昔も、資源のない日本にとって「人と技術」が成長と豊かさの源であり、香川県の若い人が、経済的な理由で学びを諦めなくていい仕組みを整えるとしている。
防衛装備品、エネルギー、半導体、農産物などを過度に外国に依存しない日本を作るとしている。Alやデータセンターは膨大な電力を消費するため、安価で安定的な電力提供を実現するとしている。
天理教公式の機関紙『天理時報』2017年5月28日号にて、香川県さぬき市の香梅川分教会所属の「ようぼく議員」(「ようぼく」とは天理教の用語で信者のこと)として紹介されている[158]。
同紙によると、かねて親交のあった香梅川分教会長に導かれ、8年前に初席を運んで以来、公務の合間を縫っておぢば(聖地である天理市)へ足を運んできたとされ、ようぼく議員として、ようきぐらし世界建設の一端を担う抱負を語ったとされる[158]。
『AREA dot.』の取材・報道によると、2010年代前半頃(旧民主党時代)、一部の地元市議や秘書(元秘書)らに対し、選挙の時期を中心に、精神的な苦痛を受けて心身を壊したり、職を辞したと言われるほどの厳しい言動があったとされる。同社は事務所に対し、前述の内容についての認識を問うたところ、これらの内容について「ご指摘の発言をした認識はなく、思い当たる節もない」旨の回答をし、否定している。しかし、「新国民民主党を設立した際には、党の存亡もかかっていたこともあり、新立憲民主党会派に加わることになった地方議員に対し、強い言葉になった部分は反省をしている」とも回答をしている[161]。
世界平和統一家庭連合(旧統一教会)系の日刊紙「世界日報」のインタビュー取材を複数回受けているほか、同紙元社長から計3万円の寄付を受けていたことを公表している。しかし、本人は一貫して「個人としても党としても一切関係ない」と旧統一教会との関係を否定しており、寄付についても「適正に処理した」と説明している。
2024年8月、2021年4月から2023年10月まで公設第一秘書を務めていた人物が窃盗容疑で逮捕され、玉木は「元秘書」という言葉を用い、退職していることを強調しているが、7月から逮捕時まで再雇用されて働いていたと週刊FLASHに報じられた[196]。
2024年11月11日、週刊誌FLASHが、元グラビアアイドルで高松市観光大使の小泉みゆきと不倫関係にあったと報じた[197]。
同日、玉木本人が記者会見を開き、「報道された内容はおおむね事実だ。家族のみならず、期待を寄せていただいた全国の多くのみなさんに心からお詫びを申し上げる。本当に申し訳ない」と述べた[197]。また、同党の幹事長である榛葉賀津也は記者団の取材において、朝に行われた同党の両院議員総会で、玉木の党代表の辞任の声は出なかったとし、政策実現のため代表を続けたいという玉木の意向を了承した。そのうえで、「プライベートの問題はしっかりと家族で話し合って、けじめをつけてほしいし、仕事に全力を尽くしてほしいし、政策実現に全力を傾けてほしい」と語った[198][199]。その後、玉木の一連の経緯について党倫理委員会で調査を行う事が決定[200]し、本人へのヒアリングも行われた。
同年12月4日、両院議員総会で党倫理委員会の調査の結果「党の名誉ならびに信頼を傷つけたと言わざるを得ない」として、全会一致で翌2025年3月3日まで3か月間の党役職停止処分とすることが決定した。玉木は処分を受け入れるとしており、役職停止期間中は古川元久代表代行が職務を代行することとなった[201]。
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