ポータル
マクロ経済学(マクロけいざいがく、英: macroeconomics)は、経済学の一種で、個別の経済活動を集計した一国経済全体に着目するものである。巨視経済学あるいは巨視的経済学とも訳される。
経済変数の決定と変動に注目し、国民所得・物価・消費・投資などの集計量がある。また経済分析の対象となる市場は、生産物(財・サービス)市場、生産要素(資本・労働)市場、金融市場(株式・債券)に分けられる。
対語は、経済を構成する個々の主体に着目するミクロ経済学。マクロ経済とミクロ経済との二分法を最初に考案したのは、ノルウェーの経済学者ラグナル・フリッシュ。「ミクロ経済学」と「マクロ経済学」の用語をはじめて用いたのは、オランダの経済学者ウルフ[1]。マクロ経済学の誕生は、1936年のジョン・メイナード・ケインズ(ケインズ経済学)の著書『雇用・利子および貨幣の一般理論』に始まる[2]。大学の教育においてはミクロ経済学とマクロ経済学の基礎的内容を最初に学ぶ。
新古典派によると資本市場で自然利子率が決定される。レオン・ワルラスによると、生産はセイの法則によって均衡が達成される自然水準にあると信じられてきたが、1930年代に米国を襲った恐慌によりこの見解への懐疑が生まれる。
この懐疑の中、ジョン・メイナード・ケインズは1936年に『雇用・利子および貨幣の一般理論』を発表する。ケインズは貨幣市場において、流動性選好説と貨幣供給量によって現実の利子率が決定されると説いた。将来に対する不確実性を伴う長期期待から導かれる期待利潤率(資本の限界効率)と利子率から決定される投資と貯蓄の均衡によって現実の生産水準(国内総生産、国民所得)が決定される。ケインズは、不均衡が価格硬直性から派生するとした古典派の主張を退け、彼らのセイの法則を否定した有効需要に基づいて、自然生産水準と現実生産水準の乖離を埋めるための経済政策の必要性を訴えた。この主張によって、それまでのセイの法則の受容によって成立していた新古典派経済学体系が覆されるというケインズ革命が起こる。
ミハウ・カレツキはケインズよりも早い時期に祖国ポーランドにおいてケインズと同じ着想に達してポーランド語の研究論文を書いた(1933、1935)が、これらはポーランド語とフランス語のみで刊行していたため、すでに英語が主流であった経済学会ではそのころこの研究論文の革命的な価値に気づく者が殆どおらず、1935年の記事がフリッシュやヤン・ティンバーゲンのようなスウェーデン学派が評価したぐらいである。のち1936年にケインズの上記の著書が刊行されると、これへのコメンタリーという形で新たな論文(1936)を起こし、ケインズの提示した様々な概念が自ら数年前にすでに発表していたものと同じものであることを指摘している。
その後ポール・サミュエルソンやジョン・ヒックスらのケインズ解釈によってアメリカ・ケインジアンの新古典派総合が成立し、ケインズのモデルは、価格が硬直な短期における古典派的一般均衡モデルの特殊ケースと理解されるようになった(ただこのアメリカ・ケインジアン的解釈は、一般理論の体系を雇用量が人々の期待によって制約される長期不均衡の体系と捉えていたポスト・ケインジアンによっては、俗流ケインズ主義との評価も受けている)。
以下の記述においては原則としてケインズ経済学(ケインジアニズム)=アメリカ・ケインジアンの理論体系を意味するものであるとする。
しかし、1970年代に入って米国など先進国がスタグフレーションに苦しむようになるとケインズ批判が起こる。新古典派が復権して、新しい古典派という考えが注目されるようになる。
新しい古典派が台頭する別の要因の1つは、ケインズ経済学が方法論的な問題を抱えていると考えられていたことに求められる。ケインズ経済学の大きな特徴は総消費のようなマクロ経済変数が、ミクロ経済学で想定されている各経済主体の最適化行動とは全く異なるメカニズムで決定されるという点にある。こうした各経済主体の合理的な行動と総体としてのマクロ経済変数の決定との乖離は、マクロ経済モデルの現実への適合性を考える上で問題となる可能性がある。例えばケインズ経済学は本来は経済環境の変化などで内生的に決定される変数を、外生的に与えられモデルではその説明が出来ないパラメーターとして扱ってしまいがちであった。以下に例を示す。
所得変化に対する消費の変化率を限界消費性向と呼んでいるが、ケインズ経済学においては限界消費性向は現在の消費・貯蓄決定行動によって規定された一定のパラメーターである。ところで合理的で時間を通じて最適化を計る家計であれば、その限りにおいては、所得の変化が一時的なものなのか恒久的なものなのかにより異なる消費決定をする。すなわち、所得変化が一時的で来期には元の水準に戻ると予測すれば、現時点ではあまり消費を増やさずに将来時点の消費のために貯蓄を増やすであろう。逆に所得変化が恒久的なものと予測すれば、所得の増分を現時点の消費に全て振り向けるはずである。その結果として家計が合理的ならば、限界消費性向は所得変化の性質に対する予測によって変化する内生的変数であり外生的なパラメーターではない。このように合理的で時を通じた最適化を図る経済主体は、将来に対して予測を行い、それに基づいて最適な行動を決定する。ケインズ経済学ではこのような経済主体の予測つまり期待を織り込むことが出来ないため、内生的な変数を誤って外生的なパラメーターとして扱ってしまうと評価されている[注釈 1]。
さらに、ケインズ経済学が経済主体の期待を織り込むことに失敗していたために経済政策の評価方法に関しても問題が生じていた。つまり、過去のデータを用いて経済主体の行動を推定しその推定に基づいて将来採るべき政策を評価してきたため、政策の変化に対する経済主体の行動の変化を織り込むことが出来ず、適切な評価が困難となっていたのである。ロバート・ルーカスは従来のマクロ経済学が経済主体の期待を考慮していないことを批判して、現在の政策変更が将来に関する経済主体の期待に影響を与えるため経済主体の行動を変える可能性を指摘した。ルーカスは伝統的なケインズ経済学の方法論を批判し経済主体の期待の果たす役割を強調したのであるが、彼にちなみこの批判はルーカス批判と呼ばれている。
ルーカスらは伝統的なケインズ経済学を批判しただけではなく、ミクロ的基礎を持ったマクロ経済学の構築に大きな役割を果たした。ルーカスらの確立した新しいマクロ経済学こそが新しい古典派のマクロ経済学と呼ばれるものである。新しい古典派の流れに位置づけられる経済学者達は、人々の期待を明示的に扱うために合理的な経済主体の最適化行動に厳密に基づいたモデルを用いこれらの経済主体の行動の集計されたものとしてのマクロ経済を分析しようと試みた。その典型が代表的個人モデルである。ところでモデルの背後にある合理的な経済主体の最適化行動は、ミクロ経済学の想定するところである。それ故に新しい古典派のマクロ経済学はミクロ的基礎を持っていると言われるのである。また経済主体が経済構造と整合的な予測を行って行動するという合理的期待仮説を強調したため、初期の新しい古典派を合理的期待形成学派と呼ぶこともある。
加えて新しい古典派は計量経済学を用いモデルを経験的に検証するという手法を重視する。彼らは消費の異時点間での最適化を伴った最適成長モデル(ラムゼイルール)を基に短期の景気循環を説明するモデルとしてリアルビジネスサイクル理論を確立したが、同時にモデルから導かれる予測値と現実のデータを比較するカリブレーションを導入した。
他方、ケインズ経済学の側でも新しい古典派に対応した動きが見られた。ニュー・ケインジアンのマクロ経済学は新しい古典派のミクロ的な前提条件を受容し、ケインズ経済学にミクロ的な基礎を与えようと新しいモデルを構築してきた。またそれに伴い時間を通じて最適化を図るという意味での合理性を仮定するために、合理的期待仮説をも受け入れた。ニュー・ケインジアンも新しい古典派と同様に経済主体の期待の果たす役割を強調している。その上で名目価格の硬直性などアメリカ・ケインジアンを特徴付ける要素をモデルに盛り込んでいる。
その1つの例としてサーチ理論を応用した協調の失敗のモデル化が挙げられる。サーチ理論とは売り手と買い手がそれぞれ取引相手を探し、首尾よく取引相手を見つけることが出来たならば直接相対取引する行動をモデル化したものである。裏を返せば取引相手が見つからなければ取引は成立しない。サーチ理論は、売り手と買い手が一堂に会し価格をシグナルに取引を行うワルラス的な市場環境とは全く異なる取引環境をモデル化している。ワルラス的な市場では経済主体は価格を通じてしか接触しないからである。このモデルでは産出量の異なる複数の均衡が出現する。高産出の均衡は好況に、低産出の均衡は不況に対応する。どの均衡が実現するかはサーチ活動の見通しについて経済主体が抱く期待に左右される。すなわち取引が成立する可能性が高いと予測すれば高産出の、可能性が低いと予測すれば低産出の均衡が実現する。
このようにニュー・ケインジアンは新しい古典派と異なりワルラス的な市場と異なる取引環境をモデル化しながらも、経済主体の期待を重視する点で新しい古典派と共通点を持っている。
近年、新しい古典派とニュー・ケインジアンの間で共通の土壌が見出されつつある。両者はマクロ経済学にはミクロ的な基礎が必要であること、経済主体の期待が大きな役割を果たすことの2点で共通の認識を持っている。こうした共通認識のもと、両者は動学的確率的一般均衡(英語版)モデルという共通のモデルを用いる。このような動向は、短期の景気循環や長期の経済成長などマクロ経済現象を統一的に分析するフレームワークを構築する方向へ向かうものと評価されている。こうしたマクロ経済学のミクロ的基礎付けにより、ミクロ経済学とマクロ経済学を厳格に区別することが難しくなってきている。
ニュー・ケインジアンは新しい古典派が用いてきた最適成長モデルやリアルビジネスサイクル理論を出発点に、それらにいくつかの仮定を追加することでケインズ経済学にミクロ的な基礎を与えようと試みつつある。
新しい古典派でも従来のワルラス的な完全競争市場の仮定を緩める動きが見られる。彼らの中にはモデルを構築する際に外部性や情報の非対称性、さらには規模の経済や独占的競争を取り入れる者もいる。その典型が内生的成長理論である。
ただ、こうしたミクロ的基礎を強調する新しいマクロ経済学に対しては、セイの法則を受容する古典派とこれと対立するケインジアンという古典的な二分法をケインズから受け継いだポスト・ケインジアンと呼ばれる学派の人々からは、鋭い批判が寄せられている。しかし、数の上でも主流派である新しい古典派とニュー・ケインジアンがミクロ的な前提条件の受容において接近している状況の下では、古典派とケインジアンという二分法は、少なくとも近年のマクロ経済学の動向を捉える上では、以前ほどの意味は持たないと評価されている。
ケインズ革命によってマクロ経済観に大きな二つの断裂が生じた。以下従来の古典派・新古典派経済観とケインズ経済観の重要な相違をまとめた。
マクロ経済政策をめぐる学説毎の見解の際は下の表の通りである。 なおこの表は『クルーグマン マクロ経済学』503ページより引用