池田 章政(いけだ あきまさ)は、幕末の大名、明治期の日本の政治家・華族。位階勲等爵位は、従一位勲一等侯爵。備中鴨方藩の第9代藩主、備前岡山藩第10代(最後)藩主、同藩初代(最後)藩知事、議定、刑法官副知事、刑法官知事、麝香間祗候、貴族院議員などを歴任。
鴨方藩主時代は池田 政詮(いけだ まさのり)と称した。
肥後人吉藩第13代藩主相良頼之の次男として生まれる。幼名は満次郎。母は小川吉五郎の娘柳子。
頼之の祖父の相良長寛は、岡山藩第4代藩主池田宗政と正室の宝源院(黒田継高の長女)の次男であった。章政は宗政の男系の玄孫にあたることから、鴨方藩池田家、のちには岡山藩池田宗家の養子に迎えられることになった。
岡山藩池田家は早くから満次郎(のちの章政)の血筋に着目しており、第8代藩主の池田慶政は、天保13年(1842年)に婿養子として池田家を継ぐと、満次郎を仮養子に指名することを強く望んだ。相良家では、頼之が満次郎の誕生後に隠居して長男の長福に家督を譲っていたが、満次郎は当主の長福に継ぐ大事な控えの立場であったため、この時は池田家の申し入れに応じなかった[1]。その後、満次郎が鴨方藩池田家の養子に入る弘化4年(1847年)までの間に同母弟の元三郎(相良頼基)が出生しており、元三郎はのちに長福の跡を継いで最後の人吉藩主となった。
章政の正室の鑑子は美濃大垣藩主戸田氏正の娘で、母・親姫は薩摩藩主島津重豪の娘である。そのため鑑子は、同じく重豪の孫である池田慶政の従妹、重豪の曾孫である慶政の先代(第7代藩主)池田斉敏の従叔母にあたる。
弘化4年(1847年)3月5日、鴨方藩の第8代藩主池田政善の末期養子となるため、人吉から江戸に入る。同年3月下旬、江戸の人吉藩邸から鴨方藩邸に移る。同年7月、末期養子として家督を相続した。嘉永2年12月(1850年)、従五位下・内匠頭に叙任する。後に信濃守に改める。幕末の動乱期の中では尊皇攘夷派として行動し、藩内における尊皇攘夷派からの信望もあった。
慶応4年(1868年)3月15日、章政は宗家の岡山藩主を継いだ。先代藩主の茂政が新政府から実兄の徳川慶喜追討の命令を受けたのに対し、自らは隠居したためである。鴨方藩主は章政の長男の政保が継いだ。そして章政は戊辰戦争においては新政府軍に与し、藩軍を関東・奥羽・函館にまで送った。
明治維新後は議定、刑法官副知事、刑法官知事などを経て、明治2年(1869年)の版籍奉還により知藩事となる[2]。明治4年(1871年)、廃藩置県により免官となり、東京へ移った。
明治17年(1884年)に侯爵に列せられ、同36年(1903年)に従一位となったが、同年6月5日に満68歳で死去した[2]。家督は次男の詮政が相続した。