奥平 昌成(おくだいら まさしげ)は、江戸時代中期の大名。下野国宇都宮藩主、丹後国宮津藩主を経て、豊前国中津藩の初代藩主。中津藩奥平家5代。
元禄7年(1694年)11月6日、宇都宮藩主・奥平昌明(昌章)の次男として生まれる。長兄の次郎吉が早世したために世子となり、同8年(1695年)に昌明の死去により2歳で家督を継いだ。
元禄10年(1697年)2月11日には宮津藩9万石へ移封される[1]。同15年12月14日(1703年1月30日)、元禄赤穂事件が起こると宮津藩士が屋敷前で見張り、引き上げ途中の赤穂義士を咎めて鉄砲洲の旧・赤穂藩邸への接近を阻止している[2][注釈 1]。
同16年9月28日(1703年)、10歳で綱吉将軍に初御目見する。宝永4年(1707年)12月23日、従五位下・大膳大夫に叙位・任官する。
正徳3年(1713年)、宮津で領内巡検を行う。同年10月26日、老中・阿部正喬の娘と婚姻する。
享保2年(1717年)2月11日に1万石加増の上で、豊前中津10万石に移封となる。同7年(1722年)3月、藩士に対し、中津藩庁へ先祖書を提出させた。これが、現在に伝わる奥平家臣に関する資料の元となる。
延享元年(1744年)12月16日に従四位下に昇叙する。延享3年(1746年)11月14日に死去した。享年53。跡を次男の昌敦が継いだ。
1666年から1669年まで幕府領