戸田 忠翰(とだ ただなか)は、江戸時代中期から後期にかけての大名。下野国宇都宮藩主。宇都宮藩戸田家8代。官位は従五位下・能登守、越前守。
宝暦11年(1761年)8月29日、先代藩主(当時は肥前島原藩主)・戸田忠寛の長男として江戸で生まれる。安永7年(1778年)12月16日に従五位下・能登守に叙位・任官する。寛政10年(1798年)6月21日の父の隠居により家督を継いだ。
文化元年(1804年)8月7日に越前守に遷任する。しかし病弱であり、藩政に関しては忠寛時代の相次ぐ移封などで財政難であった[1]。文化6年(1809年)には持病の肩から手にかけての痛みがあったという。このため忠翰は治世での業績には乏しいが、反面西洋の器物を好み、南蘋風の絵を良くした。森蘭斎に師事して、師の画譜『蘭斎画譜後編』(享和元年(1801年)刊)に序文を寄せ、「桃寿帯鳥図」などの絵を残している[1]。
文化6年(1809年)3月からは忠翰が病に倒れて藩政を執ることが困難になったため、文化8年(1811年)4月21日に家督を次男の忠延に譲って隠居した[1]。隠居後は深川の江戸屋敷で静かに余生を過ごした[1]。
文政6年(1823年)2月に先立った忠延の後を追うように、同年9月28日に死去した。享年63。
父母
正室
側室
子女
養子