奥平 昌章(おくだいら まさあきら)は、出羽山形藩第2代藩主、のち下野宇都宮藩主。中津藩奥平家4代。
寛文8年(1668年)3月24日、肥前福江藩主五島盛勝の次男(三男とも)として生まれる。
寛文12年(1672年)に母方の伯父の山形藩主奥平昌能の末期養子に迎えられ、昌能の死去により家督を継いだ。長男、長女に先立たれた昌能には娘2人が遺されていたが、いずれも年長で、次女のくら姫は松平乗春の正室となり、より歳の近い三女の菊姫(寛文4年(1664年)生まれ)と結婚する。天和元年12月27日(1682年2月4日)には従五位下・美作守に叙位・任官される。
貞享2年(1685年)6月22日、宇都宮藩に移封された。貞享4年(1687年)、烏山藩主那須資徳が改易されると、烏山城受け取り役を務めている。また奥州街道と日光街道が通る宇都宮は旅人が多く、病人対策のために元禄2年(1689年)に順番医制度を導入して医師20人を常駐させた[1]。
元禄8年(1695年)4月8日に死去、享年28。家督は2歳だった次男の昌成が継いだ。
1764年から1767年まで幕府領