奥平 昌鹿(おくだいら まさしか/まさか)は、江戸時代中期の大名・国学者。豊前国中津藩の第3代藩主。官位は従五位下・大膳大夫。中津藩奥平家7代。
第2代藩主・奥平昌敦の長男として誕生。幼名は熊太郎、後に昌邦。
賀茂真淵に国学を学ぶ。宝暦8年(1758年)、父・昌敦の死去後、15歳で家督を継ぐ。「訴平賦均録」という法令集を編纂して、藩政に尽力した。また、家臣の儒学者藤田敬所らを政治批判させ、それを藩政改革に取り入れ、質素倹約を励行させた。
藩医であった蘭学者の前野良沢を保護し、蘭学を奨励した。良沢の号「蘭化」は、昌鹿が良沢を「蘭学の化け物」と称したことに由来する。
安永9年(1780年)に死去し、跡を長男の昌男が継いだ。墓所は東京都品川の東海寺。