堀江 正夫(ほりえ まさお、1915年〈大正4年〉6月16日 - 2022年〈令和4年〉3月20日[1])は、日本の陸軍軍人、陸上自衛官、政治家。自由民主党所属の参議院議員(2期)。位階勲等は正四位勲二等。
来歴・人物
新潟県出身[2]。水産学校校長堀江英一の次男として生まれた。糸魚川中学、東京陸軍幼年学校(34期)、陸士予科を経て、陸軍士官学校を卒業(第50期、35番/426名)。旧軍時代は歩兵科士官で、太平洋戦争中に陸軍大学校を卒業し(57期)、第18軍参謀としてパプアニューギニアで終戦を迎えた[3]。
終戦後、1946年(昭和21年)3月に復員し、妻の郷里宮崎県日南市で林業に従事した[2]後、警察予備隊及び保安隊を経て陸上自衛隊で勤務。西部方面総監(陸将)を最後に退官した[4]。
1977年(昭和52年)7月の第11回参議院議員通常選挙に全国区から自民党公認で立候補。出身母体の郷友連・自衛隊関係に加えて国際勝共連合の支援を全面的に受け初当選した[5][6]。当選にあたり、妻が料理研究家の堀江泰子で知名度があったことも影響したと指摘がある[4][7]。党内では田中角栄派(木曜クラブ)に所属した。
1983年(昭和58年)、再選。
1984年(昭和59年)4月18日、自民党・民社党の議員と保守系財界人らが「スパイ防止法のための法律制定促進議員・有識者懇談会」を設立。岸信介が会長に就任し、堀江は事務局長に就任した[8][9][10][5]。翌1985年(昭和60年)6月6日、伊藤宗一郎ら10人の国会議員によって、スパイ防止法案が衆議院に提出されるが、同年12月20日、同法案は審議未了のまま廃案となった[9]。
1985年(昭和60年)1月27日、竹下登は田中に「若手といっしょに勉強会をやりたい」と告げた。田中は「いいだろう」と答え[11]、竹下らは翌日から入会勧誘を開始した。1月29日、田中は勉強会は見せかけで公然たるクーデターであることに気付き、1月31日に二階堂進に切り崩しを命じた[12][13]。83人いた参加希望者は次々と脱落した。2月7日、40人の議員により、創政会が結成される。その中に堀江もいた[14]。
1987年(昭和62年)7月4日、経世会が結成。会長には竹下が就任し、竹下派と呼ばれた[15]、田中派は「竹下派」「木曜クラブ(二階堂グループ)」「中立系」に3分裂した[16]。堀江は経世会に参加した。
1989年(平成元年)7月の参院選は出馬せず、政界を引退。議員在任中、参議院安全保障特別委員長、同沖縄及び北方問題に関する特別委員長、同外務委員長、参議院自由民衆党政審安全保障特別委員長、自民党国防部会副部会長等国防三部会副会長などを務めた[6]。同年秋の叙勲で勲二等旭日重光章を受章[17]。
2019年には、100歳を超えてなお健康な正夫の食事や体操を紹介した本が出版された[18]。
2022年(令和4年)3月20日、老衰のため死去した。106歳没[19]。死没日付で、正四位に叙された(従六位から進階)[20]。
家族
妻で料理研究家の堀江泰子は日南市飫肥の多額納税者で貴族院議員の高橋源次郎(資産家の娘婿で宮崎農工銀行頭取[21])の孫で、料理研究家の草分け河野貞子の助手としてNHKの「きょうの料理」に出演、その後同番組の講師となり活躍、2017年に94歳で亡くなった[22][23]。その生家「高橋家住宅」は国の登録有形文化財として保存公開されている[24]。
兄の堀江文彦は海軍機関学校卒の元海将(第13代舞鶴地方総監)。娘に料理研究家の堀江ひろ子、孫に同じく料理研究家のほりえさわこがいる[7][25]。
主要軍歴
政歴
その他役職
著作
- 『堀江正夫闘魂の詩 - 元自衛官の手記』朝雲新聞社、1977年。
- 『日本の防衛私はこう考える』並木書房、1981年。
- 『留魂の詩 - 東部ニューギニア戦記』朝雲新聞社、1982年。
脚注
参考文献
- 官報
- 『陸上自衛隊20年年表』朝雲新聞社、1971年。
- 衆議院・参議院編『議会制度百年史 - 貴族院・参議院議員名鑑』大蔵省印刷局、1990年。
- 秦郁彦編『日本陸海軍総合事典』第2版、東京大学出版会、2005年。
- NHK BS1スペシャル 「遺された“戦争”~残留日本兵 横井庄一~」2022年4月3日放送。
外部リンク
参議院外務委員長 (1988年-1989年) |
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第1回 (定数100) |
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†:当選無効・失格など、↓:途中辞職・死去など、↑:繰上げ当選または補欠選挙で当選(合併選挙で当選した3年議員を除く)。 |
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↓:途中辞職・在職中死去など、▼:除名、↑:繰上げ当選、x:繰上げなし |