柳川 宗左衛門(宗左衞門、やながわ そうざえもん、1895年〈明治28年〉7月21日[1] - 1978年〈昭和53年〉11月8日[2][3][4])は常陸国、鹿島郡の日川砂漠を開拓した柳川宗左衛門秀勝[5]の孫(四代目)。明治末から昭和期の地主であり、醤油醸造家、実業家、政治家。衆議院議員(1期)、参議院議員(1期)。
経歴
茨城県[2][3][4]鹿島郡若松村大字柳川新田[6](波崎町を経て現神栖市)で農業、醤油醸造業などを営む第三代・柳川宗左衛門の長男・謙一[7]として生まれる[8]。1911年(明治44年)家督を相続[3][4][8]。1913年(大正2年)東京市の京北中学校(現・東洋大学京北中学高等学校)を卒業した[2][3][4]。
父が小作人のために設立した産業組合、柳川信用販売組合を継承し発展させた[6]。その他、茨城県信用組合連合会副会長、同購買販売組合連合会専務理事、若松郵便局長、全国購買組合連合会専務理事、全国農業経済会専務理事、茨城県農業会理事、全国農業会長、農林中央金庫理事、茨城県経済連合会長、日本肥料監査役、日本原麻監査役、日本瓦斯木炭監査役、農機具配給監査役、茨城相互銀行社長、柳川本店代表取締役などを務めた[2][3][4][8]。
1943年(昭和18年)12月、第21回衆議院議員総選挙・茨城県第1区補欠選挙で当選し[9]、日本進歩党に所属し衆議院議員に1期在任した[3][4]。戦後は1947年(昭和22年)4月の第1回参議院議員通常選挙に全国区から無所属で出馬して当選[4][10]。緑風会に所属したが[2]、公職追放となり[11]参議院議員を辞職した[2]。1966年(昭和41年)春の叙勲で勲三等瑞宝章受章[12]。
1978年(昭和53年)11月8日死去、83歳。死没日をもって正五位に叙される[13]。
家族・親族
- 父・柳川宗左衞門(第三代)- 1857年(安政4年7月15日)生まれ[14]。二代・宗左衛門秀勝の長男であり、1886年に家督を相続した。
- 母・あさ - 1859年(安政6年)生、千葉県の岩田藤兵衞の妹[15]。
- 妻・はな - 1894年(明治27年)生、叔父・柳川金之助の長女。
- 長男・洋一 - 1917年(大正6年)生。北海道大学農学部卒。
- 長女・和子 - 1919年(大正8年)生。水戸高女卒。東京帝大を出て陸軍軍医を務めた安藤騏尾夫の妻[16][17]。
- 二男・大也 - 1924年(大正13年)生。明治大学政経学部卒。
- 三男・謙三 - 1927年(昭和2年)生。成蹊大学卒。
- 姉・かつ - 1891年(明治24年)生、千葉県の藤井陣太郞に嫁ぐ。
- 叔母・かつ - 若松村で回漕業を営む柳川惣助(1852年生)[14]に嫁ぐ[18]。
- 叔父・安重房次郎 - 1859年(安政6年)生。母の実家である安重家に養子として入る。鹿島浦の地曳網漁網元。[19]。
- 叔父・野村三四郎 - 1865年(慶應元年)生、東京の野村家に養子入り。大蔵省を辞した後、田中鉱山の役員を務めた。妻・てる(明治2年)は齋藤新八の長女。
- 叔父・柳川金之助[20] - 1869年(明治2年)生。妻・きく(明治4年生)は静岡県士族、關口忠篤の四女。三代目亡き後は四代・宗左衛門の後見人を務めた。
- 叔父・柳川敬四郞 - 1874年(明治7年)生、妻・らく(明治12年生)は茨城県の小島順之助の妹。
- 叔母・光子 - 従兄弟である松倉新蔵(1867生[19])に嫁ぐ[18]。その二男・新平は千葉医専を卒業、後に出身たる鹿島郡大同村志崎に医院を構える[21]。また本家の第十六代当主・出津宗一の養子となり、第十八代当主を継いだ。三男・三郎は東京大学医学部を出て日本医科大学教授を務めた。
脚注
参考文献
- イハラキ時事社編輯局編『時の人』イハラキ時事社、1939年。※頁付無し
- 人事興信所編『人事興信録 第14版 下』人事興信所、1943年。
- 衆議院・参議院『議会制度百年史 - 貴族院・参議院議員名鑑』大蔵省印刷局、1990年。
- 衆議院・参議院『議会制度百年史 - 衆議院議員名鑑』大蔵省印刷局、1990年。
- 『新訂 政治家人名事典 明治~昭和』日外アソシエーツ、2003年。
- 『国政選挙総覧 1947-2016』日外アソシエーツ、2017年。
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第1回 (定数100) |
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†:当選無効・失格など、↓:途中辞職・死去など、↑:繰上げ当選または補欠選挙で当選(合併選挙で当選した3年議員を除く)。 |