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井筒 研一(いづつ けんいち、1919年11月28日 - 1992年[1]1月29日)は、兵庫県[2]出身のプロ野球選手(投手)、審判員。
明石中学校では1938年に第15回選抜中等学校野球大会にエースとして出場した[2]。
1939年にライオン軍へ入団[2]。戦前は野手として起用されることが多く、1939年は三塁手(50試合)、1940年は右翼手(31試合)として最も多く出場する一方、投手としての登板は34試合に留まり未勝利に終わっている。1942年に応召により退団。
戦後の1945年10月に復員すると、朝日軍社長の田村駒治郎の指示を受け、藤本定義・真田重蔵らと共に球団の再結成に尽力し、1946年にパシフィックを創立[2]。この年に初勝利を挙げ、13勝まで勝ち星を伸ばし、防御率も3.07でリーグ10位に入る。1947年は10勝、防御率2.05(リーグ9位)、1948年も13勝と、3年連続二桁勝利を記録した。1950年には9勝を挙げて、松竹のリーグ優勝に貢献。1951年には開幕投手を任されたが、同年は未勝利に終わり、翌1952年に現役引退した。1952年からプロ野球審判員を務めた。
アンダースローからカーブ・シュートを武器とした。
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