小林経旺

小林 経旺
1955年撮影
基本情報
国籍 日本の旗 日本
出身地 長野県長野市
生年月日 (1926-01-01) 1926年1月1日(98歳)
身長
体重
179 cm
71 kg
選手情報
投球・打席 左投左打
ポジション 投手
プロ入り 1948年
初出場 1948年
最終出場 1958年
経歴(括弧内はプロチーム在籍年度)

小林 経旺 (こばやし つねお、1926年1月1日 - 生死不明 )は、長野県出身の元プロ野球選手投手)。

1948年の登録名は小林 常夫1949年から1954年小林 恒夫

通算100敗以上しながら、唯一通算50勝未満の投手であり、負け越し数「64」(46勝110敗)のプロ野球ワースト記録を保持する[1]

来歴・人物

台中商業、社会人野球の台湾電力、上田栞製作所を経て、1947年国民野球連盟大塚アスレチックスに入団。翌1948年に大塚の金星スターズ買収に伴い金星スターズへ移ると、監督であった石本秀一の指導で頭角を現す[2]。翌1949年に石本が大陽ロビンスの監督に就任する際に、小林も連れていこうとする。これに対して、金星の後継球団である大映スターズが二重契約であると主張。連盟は大映の主張を容れて、移籍は認めるが大陽に10万円の制裁金を課す事態となった[3]

1951年に初の2桁勝利となる18勝を記録すると、翌1952年も12勝を挙げるも負けが27敗を数え、シーズン敗戦数としては3位タイの記録となっている。1953年は松竹が大洋ホエールズに吸収されたため大洋でプレーした。1957年に未勝利に終わると、同年オフに自由契約となり近鉄パールスへ移籍[4]。しかし、近鉄でも勝ち星は挙げられず、1958年限りで引退した。

1951年8月1日の対大阪タイガース戦に先発し、9イニング完投するも14被安打5与四球で12失点(自責点)と打ち込まれたが、味方打線が岩本義行のプロ野球記録の1試合4本塁打など、チーム合わせてもプロ野球記録の1試合9本塁打で17得点を挙げ勝利し、小林が勝利投手となっているが、12失点で勝利投手となったのは2リーグ以降では最多失点記録[5][6]

選手としての特徴

ぎくしゃくした投球フォームから、ドロップ・カーブ・シュートを武器とした。

詳細情報

年度別投手成績





















































W
H
I
P
1948 金星 17 14 9 1 1 3 9 -- -- .250 542 129.0 104 4 56 -- 6 54 1 0 45 34 2.37 1.24
1949 大陽
松竹
16 15 6 0 0 3 7 -- -- .300 433 91.1 112 8 54 -- 1 38 0 2 71 62 6.07 1.82
1950 11 9 1 0 0 1 5 -- -- .167 216 44.0 60 7 29 -- 0 20 0 0 31 30 6.14 2.02
1951 55 35 14 3 0 18 15 -- -- .545 1285 293.0 307 25 120 -- 8 108 10 2 179 158 4.85 1.46
1952 50 37 26 6 2 12 27 -- -- .308 1379 321.2 325 21 121 -- 6 159 0 4 156 132 3.69 1.39
1953 洋松
大洋
13 9 0 0 0 1 5 -- -- .167 231 49.1 71 6 20 -- 0 12 0 0 39 38 6.84 1.84
1954 21 12 2 0 0 2 6 -- -- .250 411 93.0 99 7 39 -- 6 37 0 0 45 42 4.06 1.48
1955 27 16 3 0 0 2 14 -- -- .125 553 125.0 153 13 36 4 1 38 1 0 73 57 4.10 1.51
1956 36 31 4 1 0 4 13 -- -- .235 790 191.1 181 11 53 2 6 56 1 0 83 74 3.47 1.22
1957 24 12 0 0 0 0 7 -- -- .000 300 70.2 75 6 21 0 1 18 2 0 46 37 4.69 1.36
1958 近鉄 14 4 0 0 0 0 2 -- -- .000 154 36.1 36 4 10 0 0 9 0 0 18 17 4.14 1.27
通算:11年 284 194 65 11 3 46 110 -- -- .295 6294 1444.2 1523 112 559 6 35 549 15 8 786 681 4.24 1.44
  • 各年度の太字はリーグ最高
  • 大陽(大陽ロビンス)は、1950年に松竹(松竹ロビンス)に球団名を変更
  • 洋松(大洋松竹ロビンス)は、1955年に大洋(大洋ホエールズ)に球団名を変更

背番号

  • 23 (1948年)
  • 10 (1949年 - 1957年)
  • 57 (1958年)

登録名 

  • 小林 常夫(1948年)
  • 小林 恒夫(1949年 - 1954年)
  • 小林 経旺(1955年 - 1958年)

脚注

  1. ^ 通算100勝未満100敗以上(投手記録集、2006年終了時点)
  2. ^ 大井廣介『1949年版 日本野球の全貌』有樂出版社、1949年、39,95頁。 
  3. ^ 『球団消滅―幻の優勝チーム・ロビンスと田村駒治郎』177頁
  4. ^ 『日本プロ野球トレード大鑑』85頁
  5. ^ プロ野球記録は1リーグ時代の1949年に川崎徳次の13失点
  6. ^ 講談社刊 宇佐美徹也著「日本プロ野球記録大鑑」893ページ

参考文献

関連項目

外部リンク

Strategi Solo vs Squad di Free Fire: Cara Menang Mudah!