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横田 順彌(よこた じゅんや、1945年11月11日(戸籍上は12月1日) - 2019年1月4日[1])は、日本の著作家(SF作家)・明治文化史研究家。愛称は「ヨコジュン」。横田 順弥と表記されることもある。真木 じゅん名義による著書もある[注釈 1]。
来歴
佐賀県に生まれ、東京都目黒区緑が丘に育つ。父が58歳、母が42歳のときに誕生した末っ子で、自らが戦中に母の胎内にいたことから「戦中腹派」などと称していたこともある[注釈 2][要出典]
法政大学第二高等学校を経て法政大学法学部に進み、在学中は落語研究会で活躍した。中日ドラゴンズのファンとしても知られる。[要出典]
SFファン活動
小学5年生の時に貸本屋で『第二の太陽へ』(ミルトン・レッサー著)を借りて感動したことがきっかけとなり、SFにのめり込んでいく。中学生の時にはすでに個人SFファンジンを発行していた。[要出典]
また大学時代には、定期的に例会を開いていたSFマニアの集まり「一の日会」のメンバーだった(平井和正のSF小説『超革命的中学生集団』には「一の日会」の面々がキャラクターとして登場。横田は主人公・横田順弥のモデルになっている)。[要出典]
1969年には横田が中心となり、「一の日会」の仲間である鏡明や川又千秋らとともにファンジン『SF倶楽部』を発刊する。第3号では、日本初のSF商業雑誌『星雲』を復刻刊行した。雑誌には筒井康隆、平井和正や浅倉久志も寄稿した。4年半で10冊を刊行し、休刊となった。[要出典]
デビューの頃
大学卒業後、複写印刷会社、PR誌の編集会社などに就いたが、長続きしなかった。作家としては平井和正の紹介で1970年8月3日号の『週刊少年チャンピオン』に掲載されたショートショート「宇宙通信『X計画』」で商業誌デビューした。[要出典]
ハチャハチャSFの時代
初期は、ナンセンスギャグを主題とした「ハチャハチャSF」が人気を集めた。「ハチャハチャ」についてはハヤカワ文庫JA版『宇宙ゴミ大戦争』の小松左京による解説によれば、メチャクチャと言おうにも笑いすぎて息が切れ「ハチャ...ハチャ...」としか発音できない、といったところとされる。ハチャハチャという言葉自体は、東京大学将棋部内部で使われていた用語に由来するもので、同部にも出入りしていた東大SF研の小谷善行が「一の日会」などファンダムに広めたりしたものと言われている[注釈 3]。デビュー前は、SF同人誌にシリアスなSFを書いていた。笑いを取り入れたハチャハチャSFを書き始めたのは「シリアスSFよりもユーモアSFを書いたほうが良い」と伊藤典夫から言われたからだと後年記している[注釈 4]。
1975年、伊藤典夫、荒俣宏、鏡明と渡米、北米SF大会に参加する(その模様は『ヨコジュンのびっくりハウス』収録)。背の低い横田は、しょっちゅう子供に間違えられたという。一方、鏡明はスペイン人に間違えられた。また世界一のSFコレクター、フォレスト・J・アッカーマン宅を訪ねたところ、日本のSF関係の古本も置いてあり、幻のSF雑誌『星雲』を購入しようとしたところ、アッカーマンは横田にそれをプレゼントした。[要出典]
大学の落語研究会出身ということもあり、超SF的な奇想で物語がはじまり、落語的な駄洒落で話が落ちる、という作品が多かった。「ポエム君シリーズ」では、穏やかでファンタスティックな童話風の物語を、児童文学としてではない分野として手掛ける試みにも着手した(のち児童文学出版社へ発表舞台が移る)。ごく初期に見せていたリリカルな側面の発展形でもあり、横田の作風としては2本目の柱となった。ハチャハチャ度を抑えながらも地口を散りばめてシュールに展開する『山田太郎十番勝負』などは、両者の中間ともいえる。[要出典]
古典SF研究
高校2年生の時に押川春浪の『海底軍艦』に出会い、戦前の日本で書かれた古典SFに興味を持つ。横田はこの分野の研究の草分け的存在である。また、鏡明はじめ、当時のSF仲間に海外の原書を読める者が多かったが、横田は英語が苦手だったため「自分は古典SFを研究しよう」と決意したという。[要出典]
『SFマガジン』に連載し、後に単行本にまとめられた『日本SFこてん古典』は、ハチャハチャSFとも共通するユーモアあふれる文体で、SF史的に重要な発見の紹介以外に、「こんな作品があったのか」という奇書も多数紹介した。非常に人気のある連載であり、またSFのみならず、大衆文学史研究に与えた影響も大きい。数社から復刊を打診されたものの、「古典SF研究の定本となってほしくない」という横田の意思があり、復刊は実現していない。[要出典]
古典SFの研究から明治研究にも進出するようになり、1988年に発表した『火星人類の逆襲』以降は、執筆するフィクションも明治時代を舞台にした作品(特に押川が所属した天狗倶楽部の関係者が登場するものが多い)が主流になっている。同年発表された『快男児 押川春浪』(會津信吾との共著)で日本SF大賞特別賞を受賞している。また古典SFの研究者の育成にも力をいれ、日本古典SF研究会には発足時から立ち会っている。
1990年ごろ、田中光二会長のもとで、日本SF作家クラブ事務局長をつとめるが、後に退会した[要出典]。
1993年 第2回日本トンデモ本大賞特別賞を受賞(會津信吾&横田順彌 南沢十七 『緑人の魔都』 復刻の功績により)。
明治文化研究
古典SF研究の過程で明治時代の文化・人物などに興味を抱き、明治時代の、現在の視点で見ると不思議な文化・事象や、怪人物等を紹介する著作も多数執筆している。特に、学生野球黎明期については、思いいれが強い。その中で、中高生向けに書き下ろされた『百年前の二十世紀』は、1995年度の青少年読書感想文全国コンクール高等学校の部の課題図書に選ばれた。[要出典]
古本エッセイ
古典SF研究の研究過程での古本収集についてのエッセイも、ユーモアあふれる文体で書かれており、従来の「古本についての本」の硬い文体とは一線を画した、革命的なものであった。古典SF研究以来の横田の仕事は、若い世代の「古本ブーム」へ先駆者として大きな影響を与えていると、古本愛好家の坪内祐三も評価している。[要出典]
2000年代から晩年の動向
『SFマガジン』誌上で2002年1月号から「近代日本奇想小説史」を開始して晩年まで連載した他、『日本古書通信』などに単発的にエッセイを発表していた。また、2008年6月まで『小説宝石』に30回にわたって古本エッセイを連載した。2007年には出版芸術社から「異形コレクション」に発表していた明治幻想小説をまとめた『押川春浪回想譚』を出版、同書は『SFが読みたい! 2007年版』のベストSFの中で19位に選ばれた。また2005年から2008年にかけて、講談社青い鳥文庫からジュブナイルSFを発表している(旧作の改作を含めて3作を刊行)。
この時代には「体調が思わしくない」と様々な文章に寄せており、『SFマガジン』での連載を体調不良を理由に休んだことも数回ある。柴野拓美展(2005年)に合わせて神奈川県中郡二宮町の公立図書館で講演する予定であったが、喘息のため直前に断念した。さらに2007年の世界SF大会にも出席する予定だったものの、体調不良のため欠席した。[要出典]
『近代日本奇想小説史 明治篇』で、2011年には第32回日本SF大賞特別賞を、2012年には第24回大衆文学研究賞大衆文学部門および第65回日本推理作家協会賞評論その他部門を受賞している。
2019年1月4日、心不全のため、神奈川県横浜市の自宅で死去した[4]。73歳没[5]。2019年、日本SF大賞において功績賞が授賞された。
人物
1978年に結婚、娘も誕生したが、1998年に離婚した。離婚の原因は、横田が資料の古本をあまりに買いすぎることだったという[6]。
酒に弱く、ほとんど飲めず、グラス1杯ほどで意識不明になってしまうほどだったという[要出典]。
人間関係
鏡明と仲がよかったことで知られる。自らの半生記『横田順彌のハチャハチャ青春記』の中でも鏡のことがたびたび書かれている。小柄な横田に対し鏡はずば抜けて長身なため凸凹コンビと呼ばれ、小松左京は「あの二人は土中で繋がっていて、鏡の頭を抑え込むと横田の背が伸びるに違ない」と評した。また、「一の日会」の仲間をはじめ、SFファンあがりの「SF第二世代」の作家たち(堀晃、森下一仁、梶尾真治ら)とも、仲良く交際していた。一方、かんべむさしはSFファン出身ではないが、東西の「ギャグものを書くSF作家」ということで、ライバル視された時期があった。[要出典]
梶尾真治とともに堀晃を「慢性躁病」と親しみを込めて言っていた[要出典]。
漫画家の高信太郎とも、「駄洒落づくしの作風」「落語好き」ということで、互いの作品のファンであった[要出典]。
晩年の連載
メディア出演
著作
単著
共著
編著
短編
解説
文庫本解説
脚注
注釈
- ^ 真木じゅんは女性の新人作家という設定の架空人物。『さがして、愛のキューピッド!』の著者略歴では「1962年12月1日、北海道旭川市生まれ。東京在住。星座、蠍座。血液型・O型。好きな食べ物はお寿司。とり肉は大きらい。野球を見るのと、テニス、水泳が大好き。趣味はホラー映画を見ること。好きな作家はジャック・フィニイ、横田順彌。法政大学法学部卒業後、広告代理店に勤務。現在はフリーライター。小説は本書がデビュー作」と記している。
- ^ 横田によると、「昭和19年、昭和20年生まれ」の人が「戦中腹派」で、自身以外に高信太郎、三遊亭円丈、椎名誠、永井豪、おすぎとピーコ、タモリ、横山やすし、梨元勝らがおり、すべて「異色の天才だ」と書いている[要出典]。
- ^ 「踊る上海亭」[2] の 2010/08/09 の記述、『TOKON10 Official Souvenir Book』(第49回日本SF大会 TOKON10 実行委員会)からの引用部分を参照のこと。小谷は東大SF研立ち上げメンバーでもあり、1960年代後半頃のことである。実は現在一般によく使われる「ハチャメチャ」のほうが、この「ハチャハチャ」からの転だという。また、将棋の盤面の様子を指す語としての「ハチャハチャ」の対義語は「華麗」だという。
- ^ 堀晃によれば[3]、ハチャハチャSFの呼称が定着する前は、1970年代半ばにメタフィクションの方法が議論されていたこともあって、メタフィクションの先を行く「メタメタSF」だといわれていた、という。また、名付けたのは伊藤典夫だと思う、と書いている。
出典
関連項目
- 藤倉珊 - 余桁分彌(よけたぶんや)名義で『日本SFごでん誤伝』という、横田の文体をパスティーシュした同人誌を刊行。
外部リンク
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受賞作品 |
- 第1回『ノストラダムス複合解釈』/『ノストラダムス戦争黙示』(川尻徹)
- 第2回『植物は警告する』(三上晃)
- 第3回『悪魔最後の陰謀』(小石泉)
- 第4回『アトランティスのミンダ王女 500機のUFO従え「生命の樹」へ』(ヤミリ・キリー)
- 第5回『世界の支配者は本当にユダヤか』(武田了円)
- 第6回『発情期ブルマ検査』(松平龍樹 )
- 第7回『想造結果』(シャーマン武田)
- 第8回『異次元の扉』(阿修羅王)
- 第9回『大地からの最終警告』(山下弘道)
- 第10回『奇想天外SF兵器』(渓由葵夫)
- 第11回『忍者のラビリンス』(天野仁)
- 第12回『歯は中枢だった』(村津和正)
- 第13回『ガチンコ神霊交友録』(塩瀬中乗)
- 第14回『人類の月面着陸は無かったろう論』(副島隆彦)
- 第15回『量子ファイナンス工学入門』(前田文彬)
- 第16回『人類の黙示録』(枡谷猛)
- 第17回『富を「引き寄せる」科学的法則』(ウォレス・ワトルズ)
- 第18回『新・知ってはいけない!?』(船瀬俊介)
- 第19回『平和宇宙戦艦が世界を変える』(杉山徹宗)
- 第20回『宇宙人との対話』(大川隆法)
- 第21回『3・11〈人工地震説の根拠〉衝撃検証 本当かデマか』(泉パウロ)
- 第22回『お城でBL』(みかづき紅月/七海ユウリ/春河ミライ小説)
- 第23回『私たちの道徳 小学五・六先生』(文部科学省)
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