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押川 春浪 (おしかわ しゅんろう、1876年3月21日 - 1914年11月16日)は、日本 の作家 (冒険小説 、SF 、武侠小説 )、編集者 。愛媛県 松山市 出身[1] 、本名は方存 (まさあり)。冒険小説のジャンルを定着させ、雑誌『冒険世界 』『武侠世界 』で主筆を務めて多くの後進の作家、画家育成に尽力した。
生涯
生い立ち
松山市 生まれ。父は牧師 でNHK朝の連続テレビ小説 『はね駒 』の主人公の恩師・松浪毅のモデルとなった押川方義 。弟押川清 は日本のプロ野球 創始者として知られる。
生後8か月で、新潟 で伝道を行っていた父に母とともに呼び寄せられる。1878年 (明治11年)、1879年 (明治12年)と続いた新潟大火 のため、方義は伝道地を仙台 に移し、同行。1883年 (明治16年)に宮城師範学校付属小学校 入学。小学校卒業後、高等単身上京し明治学院 入学。野球に熱中し、2年続けて落第、仙台に呼び戻され、父の設立した東北学院 に編入。ここで乱暴を働き放校処分となり札幌農学校 に入るが、ここでも騒ぎを起こして、1894年 (明治27年)に芝の水産講習所 (現東京海洋大学 )入学。この頃一時岩野泡鳴 宅に寄宿する。しかしここも眼病のため[2] 退学し、方義の親しい大隈重信 の創立した東京専門学校 専修英語科入学、ここでは正宗白鳥 と親しくした。英語学部卒業後に政学部邦語行政科に入学[3] 、野球部を創設するが早々に消滅した。
その他学生時代には様々なバンカラ な行動があったとされている。小学生の時には大変ワンパク であったため先生や他の生徒たちを困らせ、また昼食の弁当を食べる前にキリスト教 式の礼拝をしたところクラス全員から笑われたため、その後からは学校で弁当を一切食べなかった[4] 。
また東北学院在籍時には、実験のため解剖された犬のもも肉を盗みだし級友と缶詰の空き缶を使い教室のストーブで煮て食べていたところ西洋人の教師に見つかり「何の肉を食べているのか?」と問われたが、ほかの生徒が答えられなかったところ春浪が「犬の肉です」と英語で答えた。キリスト教の学校であったためたちまち大問題となり全校生徒の前で神と全校生徒に対し赦しを請うように求められたがこれを拒否し、父である院長・押川方義 もさすがに激怒し退校を命じた[2] 。
早稲田大学 在学中の時も、古賀廉造 の刑法の講義中に春浪が熱心に授業を受けていると、濡れ鼠になっていた蓑を着た男が隣に座っておりしきりに水がかかるため、「蓑を脱げ!」「貴様こそそこを退け!」という問答の後、講義中にもかかわらず取っ組み合いの喧嘩を始めてしまった。講師は学長に対して二人の退校を迫ったが停学に収まり、春浪と喧嘩相手(糸平耕平)はその後、無二の親友になったという。[2]
冒険小説執筆
それまでも『水滸伝 』『三国志 』を愛読し、『少年文庫』誌にも投稿していた方存は、ユーゴー 、デュマ などに刺激を受けて小説を志し、『海底軍艦 』を執筆。海軍少将肝付兼行 、少佐上村経吉 などに助言を得て、遠縁にあたる桜井鴎村 の紹介によって巖谷小波 に認められ、在学中の1900年(明治33年)に『海島冒険奇譚 海底軍艦』を文武社から出版し人気を得る。この頃小波の主催する文学サークル木曜会にも参加し、永井荷風 ら小説家たちとも親交を得て、また小波からは後に「春波」の号を与えられるが、これを自ら「春浪」に改めた。
『海底軍艦』は翌年には再版が出るとともに、生田葵山の紹介で大学館から『航海奇譚』を出版。続いて同社で『世界怪奇譚』シリーズ全6篇などを刊行、また『海底軍艦』の続編など、次々と冒険小説を発表する。同年に東京専門学校卒業。母の療養のために鎌倉 に移り、翌年鎌倉に越して来た国木田独歩 とも親しくした。同年7月に東京に戻り、牛込 で一家で同居。1903年 (明治36年)に結婚して浅草寺 近くに居を構え、一時千葉の館山 にも住んだが、後に転々と転居を繰り返した。この頃から過度の飲酒により、徐々に体調を崩すようになってもいた。
『冒険世界』刊行
1904年(明治37年)に日露戦争 が始まると博文館 では雑誌『日露戦争写真画報』を刊行するが、巌谷小波の推薦で春浪は編集者として就職し、編集作業のかたわら同誌に小説や時評を執筆する。戦後に同誌が『写真画報』に変わると、春浪は編集長に抜擢され、ここでも小説を掲載した。この頃『空中大飛行艇』が講談師の真龍斎貞水 によって語られ、その速記録も「空中奇譚」と題して同誌に掲載されている。
1908年(明治41年)に『写真画報』は廃刊し、引き続き春浪が主筆となる『冒険世界 』が刊行され、春浪作を始めとした多くの冒険小説が掲載される。この頃から他の多くの作家も冒険小説を執筆し、冒険小説ブームとも言える時代を作り出した。
スポーツ振興
天狗倶楽部 (2列目右端が押川春浪)
元々の野球好きに加えて、弟の清が早稲田大学野球部 キャプテンを務めたことで野球界の人脈にも通じ、『冒険世界』誌上でスポーツ振興も大きく取り上げ始め、『運動世界』などのスポーツ誌にも寄稿する。東京運動記者倶楽部にも加入し、吉岡信敬 、橋戸信 、飛田穂洲 らとスポーツ社交団体「天狗倶楽部 」を結成、野球の他相撲 、テニス なども楽しんだ。
スポーツのための総合グランドの必要性にも着目し、当時京浜電鉄 にいた中沢臨川 とともに羽田運動場 建設にも関わった。さらに中川らと司法大臣 尾崎行雄 を会長とする日本運動倶楽部を設立、様々な競技会を開催した。1911年 (明治44年)には大日本体育協会と共催でストックホルムオリンピック の予選大会 を開催し、日本初のオリンピック選手 を送り出した。
1911年 (明治44年)に東京朝日新聞 で「野球害毒論 」が起こると、読売新聞 紙上で反論を掲載、演説会を開くなど激しく反発した。しかし『冒険世界』誌上での反論掲載を巡って博文館上層部と対立し、同誌を辞任、退社する。
失意へ
博文館退社早々の1912年 (明治45年)1月、興文社にて『武侠世界』誌を主筆として発刊。『冒険世界』の平塚断水 や挿絵担当の小杉未醒 も同誌に移り、春浪の小説や評論など同様の内容に加えて、スポーツ記事や、政治論、偉人の伝記などにも力を入れ、好調な売れ行きを示した。また同誌では早稲田大学周辺の淫売窟退治運動も掲げて、警察や大学による対策を引き出した。
押川春浪の墓
かつて野球害毒論の論争相手で、一高 学長の新渡戸稲造 に対して、『実業之世界』誌の野依秀一 が攻撃した際に春浪名義の記事が1912年 (大正元年)11月に書かれたが、これには一高始め大きな非難を浴び、読売新聞に謝罪記事を掲載した。
1913年 (大正2年)頃には飲酒による体調悪化で執筆もしばしば中断し、1914年 (大正3年)4月から6月に小笠原父島 に転地療養する。この3月には父と関係の深かった肥田春充 の著書『心身強健術』の跋文も執筆している。同年後藤矢峯 との共著『怪傑大隈重信』『カイゼル艦隊』『蛮勇軍団』などが出版されるが、中央書院刊『海上の秘密』は春浪がまったく関与しておらず、私印を偽造して出版され、交渉・談判を弁護士に依頼するが、版権が転売されて刊行された。『武侠世界』は第一次世界大戦 など戦争や、天狗倶楽部関係の記事が増え、10月号では天狗倶楽部機関誌の広告も掲載された。
11月16日、脳膜炎 により田端 の自宅で死去[5] 。墓所は雑司ヶ谷霊園 。11月23日には神田青年会館 で春浪追悼演説会が開かれ、『武侠世界』1915年 (大正4年)2月号は春浪追悼文集となった。1925年 (大正14年)には墓地に春浪天狗碑が建碑された。
著書
単著
海底軍艦 シリーズ
春浪はフィリピンの独立運動 にも共感を寄せており、『海底軍艦』シリーズでは革命家エミリオ・アギナルド も登場するが、1942年 (昭和17年)に木村毅 が報道班員としてフィリピンを訪れた際にシリーズ6冊を携えてアギナルド本人に手渡した。
世界怪奇譚シリーズ
『空中大飛行艇』は、ヴェルヌ 『気球に乗って五週間』、レマンド『空中飛行』、エドワード・ダグラス・フォーセット『空中軍艦(Hartmann The Anarchist)』に影響を受け、また1900年 (明治33年)にツェッペリン伯爵 の硬式飛行船が建造されるなど、各国の飛行船健造熱が反映されている。『怪人奇談』はドイツの怪奇小説の翻訳、『魔島の奇跡』は『千夜一夜物語 』の部分訳である。
その他
共著
編著・校訂
翻訳
作品集・死後刊行
映画化作品
『銀山王』日活向島 1913年
『新日本島』阿部豊 監督、日活 1926年
『拳骨先生』三村源次郎監督、日活 1927年
『東洋武侠団』内田吐夢 監督、日活 1927年
『海底軍艦 』本多猪四郎 監督、東宝 1963年
脚注
^ 押川春浪 愛媛県生涯学習センター 2023年4月11日閲覧。
^ a b c 読売新聞 1914年11月20日 朝刊 p. 7「吁春浪君(二)信敬生 」
^ 会員名簿. 昭和2年11月 - 国立国会図書館デジタルコレクション
^ 読売新聞 1914年11月19日 朝刊 p. 7「噫春浪君(一)信敬生 」
^ 岩井寛 『作家の臨終・墓碑事典』(東京堂出版、1997年)80頁
参考文献
外部リンク
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