四十日抗争(よんじゅうにちこうそう)は、1979年(昭和54年)に起きた自由民主党内の派閥抗争。自民党史上最大の危機といわれた。
1979年(昭和54年)10月7日の第35回衆議院議員総選挙における自民党の敗北から、11月20日の第2次大平内閣の本格的発足までの約40日の間、自民党内で抗争が行われたためこの名がある。
角福戦争の一部でもある。
経緯
衆院選での敗北
1979年の衆院選で自民党は248議席しか獲得できず[1]、前回1976年の衆院選の獲得議席249議席を1議席下回った。1976年当時党総裁だった三木武夫は選挙結果を受け辞任に追い込まれており、また前福田内閣時には議席の積み増しを見込んでの福田赳夫による解散への動きを大平派と田中派が阻止していた[2]だけに、1978年の総裁選挙で現職の福田を破って総理総裁に就任した大平正芳への責任を問う声が当然のごとく上がった[3]。
しかし大平は、田中角栄の支えもあり、続投を表明した[4]。そのため、大平政権下で反主流派となっていた福田派・中曽根派・三木派・中川グループは辞任要求を強めた[3]。主流派の大平派と田中派は中道政党との連立政権を模索し、反主流派は最終手段として自民離党、新党結成を画策するなど、党内は修復不可能なまでに分裂した。
自民党は首相候補が一本化できないために、国会を開会することができなかった。日本国憲法第54条の規定による国会開会の期限が迫ってきたので、10月30日に特別国会を開会するも、開会日は首班指名投票なしで散会という異常事態となる。
党内抗争
大平は選挙後に行われた三木武夫・中曽根康弘・福田赳夫との会談で、党分裂を心配した中曽根の「実力者会談に大平の進退を預け、最終的に福田が判断する」という案を蹴り、党機関に進退を一任すべきと主張、政権に固執する姿勢を鮮明にした。そのため、大平になんらかの形で責任を取らせた上で政権存続を認めようと考えていた福田の怒りや中曽根の失望を買い、反主流4派は辞任要求を強めた。反主流派内の穏健派の見方として(当時の日本人の感覚からして)判断をゆだねられた福田が「大平君は辞めなさい、あとはわしがやる」と言い出すことはまずないと考えられていた[5]。一方で、大平側のアドバイザーであった伊藤昌哉は、毎日新聞から受けた確認取材をもとに、福田や西村英一副総裁に進退を預けてしまえば宮澤喜一を擁立する裁定が下されるのではないかと警戒し、その旨を大平に進言していた[6][注釈 1]。
西村副総裁は調停に奔走し、三木・中曽根・福田と相次いで会談した。福田の「総理・総裁分離案」または「期限付き政権存続」の方向で話が進むのであれば責任をとった形になるため、大平との会談に応じるという意向をもとに、西村は大平に大平自身の進退を自分に一任しなければ調停できないと主張した。大平も玉虫色表現で一任を認めた。西村はそれを基に福田と大平の会談をセットしたが、大平は西村に反主流派と主流派の意見をとりまとめを一任しただけで、最終的には自分で判断すると考えていたため、大平が進退を含めて一任したと解釈した西村・福田との間で食い違いが生じ、会談は決裂に終わった。
その後、大平は西村への進退の一任を決断したものの、時すでに遅く、反主流派では強硬論が台頭し、結束が高まっていた。首相候補問題と大平首相の責任問題は党機関へ一任することで進められていったが、ここでもその党機関を代議士会(衆院議員のみからなり、反主流派優勢)とするか、両院議員総会(衆参両院の議員からなり、主流派優勢)とするかで対立することになる。
主流派の大平派と田中派は、首相候補決定のための両院議員総会を11月2日に強行開催することを決断する。一方、反主流派は福田を首相候補とするために、「自民党をよくする会」を結成した。反主流派は両院議員総会が行われるはずの党ホールをバリケード封鎖し、大平に近い浜田幸一が単身乗り込んでこれを撤去する場面が(特にこの際言い放った「もう聞かねえぞ、こうなったら!いいか断っとくけどな、かわいい子供達の時代のために自民党があるっちゅう事を忘れるな!?お前らの為にだけ自民党があるんじゃないぞ!?」と言う啖呵[7][8]とセットで)テレビで放映されるなどした、主流派のみが出席する両院議員総会で大平を首相候補と決定する[9][注釈 2]。約200名の主流派は党本部、約150名の反主流派は国会内控室にそれぞれ集まり、反主流派は「自民党をよくする会」の決定として福田赳夫を首相候補にすると申し合わせた[9]。この日は衆議院議長の灘尾弘吉[注釈 3]が本会議開催を見送ったため、次の本会議開催は連休[注釈 4]を挟んだ5日以降に引き延ばされた[10]。
この間、なおも調停を続ける議員らは、「大平総理・福田総裁」という総理・総裁分離案、「次回総裁公選を翌年1月に繰り上げ・翌年1月まで大平体制維持」とする妥協案を出したが、前者は大平や田中が「第一党の総裁が総理となるのが議会制民主主義の常道」としてこれを蹴り、後者は反主流派の領袖である福田・三木・中曽根・中川一郎が大平が1度辞任するということで了承はしたものの、山中貞則ら強硬派が「大平が次回総裁公選に出馬しないことを了承しなければ認められない」と主張し、不調に終わる。
首班指名選挙
11月6日、首班指名選挙が行われるが、首相候補として同じ自民党から大平正芳と福田赳夫の2人が現れるという、前代未聞の事態となった。
この結果、誰も過半数の票を得ることができず、野党各党を退けた、自民党の上位2名による決選投票にまでもつれ込んだ。衆議院では大平138票・福田121票という投票結果となり、17票差という僅差で大平が指名された[11][12]。野党各党は、新自由クラブが1回目から大平に投票した他は決選投票では棄権に回り、また複数の党が協力して決選投票に駒を進めようとする動きも見られなかった。大平派が公明党を、福田派が民社党を取り込む動きもあったが、両党とも決選では棄権を選んでいる。なお、参議院では1回目が大平78票・飛鳥田51票・福田38票と続き、大平と飛鳥田の決選投票となったが、福田派とミニ政党の一部が大平に回った他は棄権に回り、大平97票・飛鳥田52票で、衆議院同様大平が指名されている[13]。
組閣において、首班指名で大平に投票した新自由クラブ[14]と閣内連立を模索して閣僚入りさせようとしたが[15]、反主流派が反発して組閣は難航した。11月9日、大平は文相を自らが臨時代理として兼任する形で第2次大平内閣を発足させ、新自由クラブとの連立枠としての閣僚人事の余地を残す形で急場を凌いだが、11月20日、最終的に閣内連立を断念し、文相は自民党で総裁派閥宏池会の谷垣専一を起用して[15]抗争は一応終結した。
しかし、この対立感情はその後も依然としてくすぶり続け、翌年のハプニング解散につながることになる。
1回目の投票でいずれの候補も過半数を得なかった場合は得票数上位2名による決選投票を行い、決選投票では単純に多数を得た候補が指名を受ける[17]。表の会派はその院の会派を指し、候補者は別の院における同一政党の会派に属する場合もある。
衆議院保守系議員の首班指名投票(決選投票)
中曽根派では、親大平で派閥離脱中の渡辺美智雄に近いグループが大平に投票している。また三木派では、党内右派の福田に与するべきではないとする議員が大平に投票した。
脚注
注釈
- ^ 福田は、総裁任期を一期つとめて大平に政権を譲るという大福密約を反故にして総裁選に現職出馬した経緯がある。また、かつて、福田を後継者に据えようとしていた佐藤栄作は、内閣改造を条件として前尾繁三郎の総裁選での支持を取り付けたが、当選後にその約束を反故にし、これにより派内の求心力を失った前尾を追って大平が宏池会の会長に就任している。
- ^ 伊藤昌哉は両院議員総会は開かれなかったとしている[10]。
- ^ 灘尾は大平退陣の受け皿の一人として浮上していたが、議長に選ばれたことで灘尾の後継は封じられることとなった。
- ^ 11月3日は祝日の文化の日、4日は日曜日で、ともに国会の休日であった。
- ^ a b c d 第1回投票では福田、決選投票では大平または無効票を投じた議員
- ^ 参議院議長とは異なり、衆議院議長は内閣総理大臣指名選挙で投票しない慣例があるというわけではない。
出典
参考文献
関連項目
外部リンク
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前身: 自由党・日本民主党 |
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保守本流 |
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宏池会(池田派 → 前尾派 → 大平派 → 鈴木派 → 宮澤派) → 木曜研究会(加藤派 → 小里派 → 谷垣派 → 古賀派に合流×) 、※新財政研究会(堀内派 → 丹羽・古賀派) → 宏池政策研究会(古賀派 → 岸田派 → ×)、※大勇会(河野派) → 為公会(麻生派) → 志公会(麻生派)、※有隣会(谷垣グループ → ×)
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木曜研究会(佐藤派) → 周山会(佐藤派) → 周山クラブ(保利グループ → 福田派に合流×)、※七日会(田中派) → 政治同友会(田中派) → 木曜クラブ(田中派 → 二階堂派 → ×)、※経世会(竹下(登)派 → 小渕派) → 平成政治研究会(小渕派) → 平成研究会(小渕派 → 橋本派 → 津島派 → 額賀派 → 竹下(亘)派 → 茂木派)、※改革フォーラム21(羽田・小沢派 → 新生党に合流×)
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白政会(大野派) → 睦政会(大野派) → 一新会(船田派 → ×)、※一陽会(村上派) → 巽会(水田派 → ×)
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保守傍流 |
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十日会(岸派 → ×)、※党風刷新懇話会 → 党風刷新連盟 → 紀尾井会(福田派) → 八日会(福田派) → 清和会(福田派 → 安倍(晋太郎)派 → 三塚派) → 21世紀を考える会・新政策研究会(三塚派 → 森派) → 清和政策研究会(森派 → 町村派 → 細田派 → 安倍(晋三)派 → ×)、※政眞会(加藤派 → 新生党に合流×)、※愛正会(藤山派 → 水田派に合流×)、※(南条・平井派 → 福田派に合流×)、※交友クラブ(川島派 → 椎名派 → ×)、※(亀井グループ → 村上・亀井派に合流×)
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春秋会(河野派 → 森派 → 園田派 → 福田派に合流×)、※新政同志会(中曽根派) → 政策科学研究所(中曽根派 → 渡辺派 → 旧渡辺派 → 村上派 → 村上・亀井派に合流×) → 志帥会(村上・亀井派 → 江藤・亀井派 → 亀井派 → 伊吹派 → 二階派)、※近未来政治研究会(山崎派 → 石原派 → 森山派 → ×)、※さいこう日本(甘利グループ)、※国益と国民の生活を守る会(平沼グループ → 日本のこころに合流×)
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政策研究会(松村・三木派) → 政策同志会(松村・三木派) → 政策懇談会(松村・三木派 → ) → 政策懇談会(三木派) → 新政策研究会(河本派) → 番町政策研究所(河本派 → 高村派 → 大島派 → 山東派 → 麻生派に合流×)、※(松村派 → ×)、※(早川派 → 福田派に合流×)
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火曜会(石橋派)、二日会(石田派 → 三木派に合流×)
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青嵐会 |
青嵐会、自由革新同友会(中川グループ → 石原グループ → 福田派に合流×)
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保守新党 |
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83会 |
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水月会 |
さわらび会(石破グループ) → 水月会(石破派 → 石破グループ)
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無派閥 |
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※は派閥離脱、太字は現在への系譜、括弧内矢印は派閥継承。 |
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