協同民主党(きょうどうみんしゅとう)は、1946年から1947年にかけて存在した日本の政党。協同組合主義、労使協調を標榜した。
概要
山本実彦を中心に結成された日本協同党は無所属議員による院内団体「大同倶楽部」との合同の計画が進んでいたが直前で頓挫(大同倶楽部は国民党を結成)、やむなく小政党の日向民主党、日本農本党と合同、無所属議員を加えて「協同民主党」として発足した。この頃の協同民主党は、GHQ民政局の政党係から、「戦前の官界にその源流を持つ中道主義の組織」「党の公約は小作農よりも不在地主の利益を代表する農業政党」「党の公約は官僚や資本家を悪者扱いした軍国主義者、全体主義者のスローガンの復活」「天皇制について最も保守的な政党であり、日本の政治思想の右翼を代表している」と見られていた[3]。結党直後、山本は大同倶楽部の中で合同を主導していた三木武夫を入党させる。山本は党勢拡大のため、政治家経験がある人物の入党を望んでおり、衆議院議員当選3回の三木に目星をつけたのである。三木のようなこれまで協同主義に深い関わりがない人物を入党させることに、北勝太郎ら農村派は反発したが、山本は押し切った。三木は入党後まもなく総務委員、次いで筆頭常任中央委員に選ばれる[4]。
山本執行部は旧大同倶楽部との合同を再度もくろむが、失敗に終わる。この過程で北ら農村派と執行部との対立が激化し、北らは除名処分を受ける。更に与党第二党の日本進歩党との合同を山本と有力議員であった林平馬が進めるが、保守色が強い進歩党との合同に三木らが反対し、進歩党内でも協同民主党との合同に反対する声が上がった。結局進歩党との合同は9月末には白紙となり、協同民主党内では山本や林らの権威が低下し、その反面三木の力が増していくことになった[5][6]。
党成立直後の1946年6月、山本の公職追放が取り沙汰される。山本が社長を務めていた改造社の雑誌改造の戦時中の論調などの問題により、公職資格審査委員会から議員不適格との表明がなされたのである。山本は委員会に再審査を要求するとともに、民政局に対して政府の弾圧を受けた自由主義者であることを訴え、民間諜報局(CIS)にも働きかけるなど追放回避の運動を行った。しかし民政局はかえって山本の運動に不快感を抱き、12月16日には林譲治書記官長から改めて追放令に該当する旨通告され、年内に議員を辞職するよう求められた。結局山本は追放となり、1947年(昭和22年)2月14日には議員辞職が認められた[7]。
党首である山本の公職追放により、協同民主党は書記長の井川忠雄と三木、三木の政界入り以前からの友人で、盟友であった松本瀧蔵によって主導されることになるものと見込まれていた。しかし山本追放からわずか4日後の2月18日、井川が狭心症により急死してしまい、三木が党の実権を握った。三木にとっては、ライバルの不在に加えて党内屈指のキャリア、翼賛選挙を非推薦で戦い抜いたという実績、GHQとの良好な関係、党内で最も高い資金調達能力という利点が重なった。当時39歳の三木は、これを皮切りに小政党・派閥のトップとして政界を渡り歩き、「バルカン政治家」と後世で呼ばれるようになるに至る[8][9][10]。
以降の党内では、三木が党務を、松本がGHQとの交渉を分担して仕切る。三木は国民党、そして無所属倶楽部との合同を進め、三党が合同した暁には、党首に当時自由党で冷遇されていた芦田均を据えることを画策し、1947年2月には芦田に対して決断を促した。芦田は三木の要請を断り、逆に進歩党と三党とが合同して新党を結成することを提案した。三木は連立与党の自由党、進歩党を分裂させた上で三党と合同するという小会派を軸とした政界再編を狙っており、進歩党に三党が合同しては狙いが全く達成できない形となるため、芦田の提案を拒否した[8][11]。
結局新党結成は三党で進められた。3月8日、協同民主党、国民党、無所属倶楽部の一部が合同して国民協同党が結党される。
役職
歴代委員長一覧
執行部役員表
脚注
参考文献
|
---|
前身: 自由党・日本民主党 |
|
|
---|
保守本流 |
|
宏池会(池田派 → 前尾派 → 大平派 → 鈴木派 → 宮澤派) → 木曜研究会(加藤派 → 小里派 → 谷垣派 → 古賀派に合流×) 、※新財政研究会(堀内派 → 丹羽・古賀派) → 宏池政策研究会(古賀派 → 岸田派 → ×)、※大勇会(河野派) → 為公会(麻生派) → 志公会(麻生派)、※有隣会(谷垣グループ → ×)
| |
木曜研究会(佐藤派) → 周山会(佐藤派) → 周山クラブ(保利グループ → 福田派に合流×)、※七日会(田中派) → 政治同友会(田中派) → 木曜クラブ(田中派 → 二階堂派 → ×)、※経世会(竹下(登)派 → 小渕派) → 平成政治研究会(小渕派) → 平成研究会(小渕派 → 橋本派 → 津島派 → 額賀派 → 竹下(亘)派 → 茂木派)、※改革フォーラム21(羽田・小沢派 → 新生党に合流×)
| | | |
白政会(大野派) → 睦政会(大野派) → 一新会(船田派 → ×)、※一陽会(村上派) → 巽会(水田派 → ×)
|
|
---|
保守傍流 |
|
十日会(岸派 → ×)、※党風刷新懇話会 → 党風刷新連盟 → 紀尾井会(福田派) → 八日会(福田派) → 清和会(福田派 → 安倍(晋太郎)派 → 三塚派) → 21世紀を考える会・新政策研究会(三塚派 → 森派) → 清和政策研究会(森派 → 町村派 → 細田派 → 安倍(晋三)派 → ×)、※政眞会(加藤派 → 新生党に合流×)、※愛正会(藤山派 → 水田派に合流×)、※(南条・平井派 → 福田派に合流×)、※交友クラブ(川島派 → 椎名派 → ×)、※(亀井グループ → 村上・亀井派に合流×)
| |
春秋会(河野派 → 森派 → 園田派 → 福田派に合流×)、※新政同志会(中曽根派) → 政策科学研究所(中曽根派 → 渡辺派 → 旧渡辺派 → 村上派 → 村上・亀井派に合流×) → 志帥会(村上・亀井派 → 江藤・亀井派 → 亀井派 → 伊吹派 → 二階派 → ×)、※近未来政治研究会(山崎派 → 石原派 → 森山派 → ×)、※さいこう日本(甘利グループ)、※国益と国民の生活を守る会(平沼グループ → 日本のこころに合流×)
| |
政策研究会(松村・三木派) → 政策同志会(松村・三木派) → 政策懇談会(松村・三木派 → ) → 政策懇談会(三木派) → 新政策研究会(河本派) → 番町政策研究所(河本派 → 高村派 → 大島派 → 山東派 → 麻生派に合流×)、※(松村派 → ×)、※(早川派 → 福田派に合流×)
| |
火曜会(石橋派)、二日会(石田派 → 三木派に合流×)
|
|
---|
青嵐会 |
青嵐会、自由革新同友会(中川グループ → 石原グループ → 福田派に合流×)
|
|
---|
保守新党 |
|
---|
83会 |
|
---|
水月会 |
さわらび会(石破グループ) → 水月会(石破派 → 石破グループ)
|
|
---|
無派閥 |
|
---|
※は派閥離脱、太字は現在への系譜、括弧内矢印は派閥継承。 |
|
|
|
|
|
|
カテゴリ |