Indy 500(1994年)
インディアナポリス500 (Indianapolis 500) は、アメリカ合衆国 インディアナ州 インディアナポリス市 近郊のスピードウェイ にあるインディアナポリス・モーター・スピードウェイ で毎年5月に開催されるアメリカンモータースポーツ イベントである。略称のインディ500 (Indy 500) で呼ばれることもある。
概要
Panoz G-Force GF09B (2004年優勝のバディ・ライスのマシン)
インディ500の決勝レースは毎年5月最終月曜日・メモリアルデー の前日の日曜日、すなわち5月24日から30日までの日曜日に開催される。インディアナポリス・モーター・スピードウェイのオーバルトラック 1周2.5マイル (約4.023 km ) を200周、走行距離500マイル (805 km)で争う。第1回開催は1911年 。モナコグランプリ 、ル・マン24時間レース と並び世界3大レース のひとつに数えられる。近年はモナコGPと同日に開催されることが多くなっている。
世界最速の周回レース
インディ500の周回平均速度は予選で362 km/h、決勝でも354 km/hを超える。これは同じマシンでレースが行われるインディカー・シリーズの中ではもちろん、世界の周回レースカテゴリーの中でも最も速い。また、最高速度は380 km/hに達する。これはF1 の瞬間最高速度記録 (372.4 km/h) を上回り、これより速いカテゴリーはドラッグレース (NHRA トップフューエルクラスで 520 km/h超) のような非周回レースに限られる。また、最高速だけであれば一部のプロトタイプカー が400 km/hを超えたこともあった[1] 。33台のマシンがテール・トゥー・ノーズ、サイド・バイ・サイドで競り合い、ドラフティング (スリップストリーム)を駆使してオーバーテイクするアメリカンモータースポーツの典型とも言える展開が広がる。
選手権としての位置付け
1950年から1960年までは世界選手権という体裁を整えるためにF1の一戦として組み込まれていた。しかしF1ドライバーの参戦は少なく、ほとんど名目上のものであった[注釈 1] 。1996年 以降はインディカー・シリーズの最大イベントレースとして組み込まれている。
普段のインディカーレースが平均して50万人程度の視聴者数なのに対し、インディ500は500万人以上がTV観戦するほど注目度は高い[2] 。現地でも、普段は空席の目立つオーバルに40万人が大挙し埋め尽くす、国民的な大イベントとして存在している。
2014年シーズン から2022年シーズン の決勝レースでは順位に応じて通常与えられるポイントの2倍が与えられていた。
車両
1960年代までのインディ500は、様々なエンジン形式、駆動方式が参加可能であった。1952年 にポールポジション を獲得したターボ ディーゼルエンジン 搭載のカミンズ ・ディーゼル・スペシャルや1967年 (英語版 ) と1968年 (英語版 ) に登場したガスタービンエンジン 搭載車が有名である。
CART やインディカー・シリーズなどのオープンホイールレース選手権の1戦に組み込まれるようになると、参戦車両は選手権のレギュレーションに対応したものに変わった。インディ500では「スーパースピードウェイ・パッケージ」と呼ばれる高速オーバル用のエアロパーツが取り付けられる。これは前後共に一枚板構造(シングルエレメント)を持ち、空気抵抗を最小限に抑えることで超高速走行を実現している。
危険性
速度域の高さや接戦の多さから、レース中には事故(クラッシュ)もたびたび発生している。レーシングマシンの安全性が低かった時代には何度か死亡事故も発生しているが、2021年現在、1996年 (英語版 ) のスコット・ブレイトン がインディ500のレーススケジュール中に起きたものでは最後の死亡事故となっている。詳細はインディアナポリス・モーター・スピードウェイでの死亡事故一覧 (英語版 ) を参照。
伝統
小さなサポートイベントなどを含めると約2週間にわたって行なわれること、予選グリッドの決め方が独特であることや、レース優勝者には牛乳 が与えられるなど(下述)、他のレースと異なる「伝統」を持ったレースである。また、準優勝者(二位)には「最も速かった敗者」、初参戦のドライバーで最も活躍した者(基本的には最上位を獲得した者だが、2017年 のように途中何度も1位に立ったがリタイアした選手に贈られる場合もある。)には「ルーキー・オブ・ザ・イヤー」の称号が与えられる。また、決勝の順位ごとに賞金が与えられるほか、「決勝1周目をトップで通過したドライバー」、「最後に予選を通過したドライバー」など、さまざまなケースのボーナス賞金がある。
ボルグワーナー・トロフィー
インディ500の優勝トロフィーとして「ボルグワーナー ・トロフィー」がある。このスターリングシルバー 製トロフィーのチェッカーフラッグ 状の壁面にはインディ500の歴代優勝者全員の顔を立体的にかたどったレリーフが埋め込まれ、それぞれ下のブロックに優勝者の氏名・開催年・優勝者の決勝レースにおける平均速度(マイル毎時 (mph))が刻まれている。トロフィーという名称ではあるが優勝者が持ち回りで所有できるわけではなく、また約153ポンド (69.4 kg) という重さのため持ち上げることもできない。普段はIMS内のミュージアムに展示されていて、インディ500決勝日にヴィクトリーレーンに飾られるモニュメント的な存在である。インディ500優勝者にはトロフィーの壁面に自分の顔のレリーフを埋め込む権利、決勝レースの翌日にトロフィーと一緒に写真を撮る権利が与えられ、後日ボルグワーナー・トロフィーを模したミニトロフィーが授与される(こちらは永久保持が可能)。1935年 に制作されてから82年間、アメリカ国外に出たことがなかったが、2017年 に佐藤琢磨 が優勝したことを記念した日本での凱旋ツアーのために史上初めて国外に出ることとなった。
大会日程
インディ500は5月中旬に開幕し、練習走行・予選・決勝レースなどのレースプログラムと、サイン会やパレードなどの観客向けイベントが約3週間に渡って開催される。期間中にはインディカー・シリーズの公式戦である「グランプリ・オブ・インディアナポリス」やインディ・ライツ の「フリーダム100」といったレースイベントも開催される。以下は例年行われるレース関連行事である。
ルーキー・オリエンテーション・プログラム (ROP)
いわゆるルーキーテストのことで、4月中旬または下旬に行われるオープンテスト初日に行われるが、ここでクリアできなかった選手やオープンテスト以後にエントリーした選手向けにレーススケジュール中のプラクティス初日の最初にも行われる場合がある。初出場のドライバーや長らくオーバルでのレースに出場していないドライバー(「リフレッシャー」と呼ばれる)が対象となっていて、これに合格しないとインディ500への出走が認められない。インディ500では常に350 km/h (217 mph) 以上の巡航速度でレースが進むため、極端に遅いマシンはレースの妨げになり大変危険である[注釈 2] 。そこでコースレイアウトに慣れることと、安定したペースで周回を重ねられるようになることが主な到達目標に据えられている。細かい部分は年によって異なるが、目標となる平均速度毎にいくつかの「フェーズ」が用意され、それらを1つずつクリアしていく方式がとられる。
練習走行
5月第3週の火曜日から金曜日に行われる自由練習期間。前半は概ねマシンセッティングの確認が行われる。後半は予選に向けたハイペース走行や、決勝を意識したスリップストリームを使う練習が行われる。特に最終日の金曜日は"ファストフライデー"と呼ばれ、この日のトップタイムを記録したドライバーには賞金が贈られる。
予選
5月第3週の土曜日、及び翌日曜日の2日間で行われる(2001-2009年などは4日間)。複雑な方式によって行われるため、それについては下記の予選方式 にて解説する。
カーブ・デイ
決勝レース2日前、金曜日 (2004年までは木曜日) 午前に1時間だけ行われる最終練習。予選を通過した33台すべてが決勝レース用のセッティングを施してコースに入り、ドラフティングを利用しながらレースを想定した練習走行をする。カーブ・デイとはカーブレーション・デイの略であり、かつて決勝レースの前にカーブレーター=キャブレターを調整できる最後の時間であったためにこの名がついた。また、この日の正午過ぎにフリーダム100が開始される。午後には一部のドライバーと担当ピットクルーがピット作業の速さを競う「ピットストップ・コンテスト」が行なわれる。
予選方式
インディ500の予選方式は何度か変更されているが、2022年現在はおおむね以下の方式によって行なわれている[3] 。
基本事項
予選通過枠は33台、スターティンググリッドは3台✕11列。
予選1日目を土曜日、2日目を日曜日に行う。
ドライバーは1回の計測(アテンプト)で4周走行し、その平均速度が参照される。
予選2日目が雨のためセッションが行われない場合、順延されず1日目の上位12台の順位で確定されるが、ラストチャンス・クオリファイは翌日以降に順延される。
ドライバー交代
インディ500では、予選と決勝でドライバーを交代させることができる。これは、予選が「決勝に進出するドライバーではなくマシンを選ぶ」という理念に基づくものであることによる。1960年代までのようにヨーロッパのF1選手権シリーズとの間での人的交流が盛んだった時代には、このシステムを利用して「予選を通過したマシン」に決勝だけ乗り込むF1ドライバーも稀ではなかった。ただし、ドライバー交代が行われたシャシーはグリッドが最後尾に降格する。2台以上で交代があった場合、選手権ポイントが少ない方が最後尾につく。
予選1日目
予選1日目でまず30位までの決勝進出者が決定する。エントリーする全ての選手が最低1回のアテンプトを行い、その暫定順位によって以下のように振り分けられる。
1位-12位:予選通過確定、予選2日目進出
13位-30位:予選通過、及び予選順位確定
31位以下:予選2日目のラストチャンス・クオリファイへ
1日目は予選時間中であれば、回数に制限なくアテンプトを行える。1回目は前日のくじ引きにより決まった順番にアテンプトする。2回目以降のアテンプトに臨む際は、直前に記録されたタイムを取り消すか残すかを選択できるが、取り消した選手が優先的に出走でき、取り消して再アテンプトする選手がいない場合に限り、取り消さない選手の再アテンプトが可能となる。
なお、エントリーが33台以下で予選落ちが発生しない場合は、1日目で予選13位-33位の予選順位が確定し、予選2日目の「ラストチャンス・クオリファイ」は行われない。
予選2日目(ポール・デイ)
予選2日目は、3つのセッションが行われる。予選2日目に参加する選手は前日の記録はすべてリセットされる(暫定順位は保存される)ため、再びアテンプトを行う必要がある。なお予選上位12台にはこの日確定した順位をもとに選手権ポイントが与えられる。
トップ12・クオリファイ
前日の予選1位から12位の選手を対象に、順位の低い選手から一度だけアテンプトを行い、上位6台がファスト・シックスに進出。7-12位の選手は予選順位が確定する。
ラストチャンス・クオリファイ
31番手から33番手のスターティング・グリッドを確定させるセッションが行われる。予選1日目の暫定予選順位31位以下の選手を対象に、参加選手中、1巡目は金曜日のくじ引きの早い順に一度アテンプトを行い、その後は制限時間中であれば再アテンプトは可能だが、その場合直前に出した記録は必ず取り消される。最終的に平均速度が速い順位で31位 - 33位(参加者中上位3台)の選手が予選通過、34位以下は予選落ちとなる。なお、前日30位以上の選手より速い記録を出しても、31位以下からのスタートとなる。
ファスト・シックス
ファスト・シックスではポール・ポジション から6番手までのスターティング・グリッドが確定する。トップ12・クオリファイの1位から6位の選手を対象に、順位の低い選手から一度だけアテンプトを行う。
歴代優勝者
^ (雨) は降雨によって途中で打ち切られたレース。
^ 太字 はその時点での最速記録。ただしインディ500ではフルコースコーション中も周回数が数えられるため、実際のレーシングスピードは記録を上回る。
^ a b c d e f g h i インディアナポリス500における「ルーキー・ドライバー」による優勝。
^ 1916年のレースはレース距離300マイルとして開催。
^ 1924年のレースでは、ローラ・L・コラムがスタートさせた車をレース途中でジョー・ボイヤーが引き継ぎ優勝したため、両名が優勝者として扱われている。
^ 1941年のレースでは、フロイド・デイビスがスタートさせた車をレース途中でマウリ・ローズが引き継ぎ優勝したため、両名が優勝者として扱われている。
^ a b 1965年のチーム・ロータス と1974年のマクラーレン は、同年にF1 のコンストラクターズタイトル も獲得している。
^ 2019年コロナウイルス感染症の影響 により8月23日に延期し、無観客開催。
^ 平均レース時速最速記録。
記録
予選速度の変遷
100mph台 - リーン・トーマス (104.785 mph, 1919年)
110mph台 - アール・クーパー (110.728 mph, 1925年)
120mph台 - フランク・ロックハート (120.546 mph, 1927年)
130mph台 - ジミー・スナイダー (130.492 mph, 1937年)
140mph台 - ジャック・マクグラス (141.287 mph, 1954年)
150mph台 - パーネリー・ジョーンズ (150.729 mph, 1962年)
160mph台 - ジム・クラーク (160.973 mph, 1965年)
170mph台 - グラハム・ヒル (171.887 mph, 1968年)
180mph台 - ビリー・ブコビッチ (185.797 mph, 1972年)
190mph台 - ボビー・アンサー (196.678 mph, 1972年)
200mph台 - トム・スニーヴァ (200.535 mph, 1977年)
210mph台 - トム・スニーヴァ (210.689 mph, 1984年)
220mph台 - リック・メアーズ (220.453 mph, 1988年)
230mph台 - ロベルト・ゲレーロ (232.618 mph, 1992年)
レース
最多ポール・ポジション - リック・メアーズ/6回 (1979年, 1982年, 1986年, 1988年, 1989年, 1991年)
最高レース平均速度 - 190.690 mph (306.885 km/h)/エリオ・カストロネベス (2021年)
最高予選速度(1周) - 237.498 mph (382.216 km/h)/アリー・ルイエンダイク (1996年)
最高ファステストラップ - 236.103 mph (379.971 km/h)/エディ・チーバー (1996年)
最多ラップリード - 198周 (3 - 200周目)/ビリー・アーノルド (1930年)
優勝ドライバーの最少ラップリード - 1周/ダン・ウェルドン (2011年)
最多リーダー人数 - 15人 (2017年, 2018年)
最多リードチェンジ - 68回 (2013年)
1位と2位の最小タイム差 - 0.043秒/1位:アル・アンサーjr, 2位:スコット・グッドイヤー (1992年)
最大ポジション上昇 - 32 (38番手スタートから6位フィニッシュ)/ジーク・メイヤー (1932年)
ドライバー
最年少優勝 - トロイ・ラットマン/22歳80日 (1952年)
最年少出走 - A・J・フォイト4世/19歳0日 (2003年)
最年長優勝 - アル・アンサー/47歳360日 (1987年)
最年長出走 - A・J・フォイト/57歳128日 (1992年)
勝利数
連勝
2連勝したドライバーが6名いる(3連勝以上したドライバーは存在しない)。
他カテゴリとの間の記録
モナコグランプリ 、ル・マン24時間レース と関係する記録は世界三大レース を参照のこと
アメリカ合衆国の他カテゴリと複数制覇
ゲームソフト
日本では、1968年に関西精機製作所 (Kasco)からエレメカ ゲームの「インディ500 」がリリースされている。また、トミー(現:タカラトミー )から1997年5月23日にプレイステーション 用ゲームソフトとして「Indy500 」がリリース、セガ からもアーケードゲーム として「インディ500 」がリリースされている。
日本との関係
日本以外では、インディ500にアジアの国が関わった例はほとんどないため[注釈 3] 、「日本初」としている記録はたいてい「アジア初」となる。
ドライバー
1991年のヒロ松下 の初参戦以降、2017年までに計10名の日本人ドライバーが挑戦している[4] [注釈 4] 。
日本人ドライバー初の完走は1991年にヒロ松下によって記録された(16位[注釈 5] )。
日本人ドライバー初のルーキー・オブ・ザ・イヤー (英語版 ) [注釈 6] は2003年に高木虎之介 によって記録された(5位完走)。翌年、松浦孝亮 (11位完走)もルーキー・オブ・ザ・イヤーを授与された。
日本人ドライバー初のリードラップは2003年に高木虎之介によって記録された(2周)。
日本人ドライバー初の優勝は2017年に佐藤琢磨 によって記録された。
日本人ドライバー初のフロントローは2020年に佐藤琢磨によって記録された。
日本人ドライバー初の複数回優勝は2020年に佐藤琢磨によって記録された。
日本人ドライバーのポールポジション獲得はまだ無く、予選最上位は2020年に佐藤琢磨によって記録された3位。
以下、参戦ドライバーと決勝順位を記載する。
色と結果
優勝
2位
3位
4位・5位
6位 - 10位
完走 (11位以下)
リタイア[注釈 10]
予選落ち (DNQ)
チーム
いずれも現地チームを母体とした提携ではあるものの、スーパーアグリ が2004~2006年に「スーパーアグリ・フェルナンデス・レーシング 」、2007年に「スーパーアグリ・パンサー・レーシング」として、チーム郷 が2020年に「デイル・コイン・レーシング with チーム郷」として参戦した例がある。
日本のチーム・コンストラクターがインディ500用の車両を製作したことはない。
実現に至らなかったものとしては、1960年代のF1の一戦に含まれていた頃に、ホンダが参戦を検討していたことがある[5] 。
サプライヤー
エンジン供給は、ホンダ (1995年、2003年以降)のほか、過去に日産自動車 (1997~2002年;インフィニティ 名義)とトヨタ (2003 - 2005年)が行っている。初優勝は2003年にトヨタによって記録された(ドライバーはジル・ド・フェラン /チーム・ペンスキー )。
エンジン関係では、1987年から1991年にかけてジャッド により供給されていたエンジンは元々はホンダがインディ500を含むCART 参戦用に開発していたエンジンから発展したという経緯を持つという関係がある。
タイヤ供給は、ブリヂストン がファイアストン 名義で行っている(1995年以降)[注釈 11] 。
日本インディ
1966年10月、神彰 の呼びかけにより、当時のインディ500出走ドライバーを招聘して「日本インディー200マイルレース」(通称「日本インディ」)が富士スピードウェイ で開催された[6] 。
テレビ放送
日本では、地上波ではかつてTBS やテレビ朝日 で全国ネット生中継、2003年からは日本テレビ で後日ダイジェスト放送(関東ローカル)がされていたが、2012年からは放送されていない。衛星放送 ではインディカー・シリーズの一戦としてGAORA が生中継している。2019年からはこのほかNHK BS1 で当日夜に録画中継。
アメリカでは1965年から2018年までABC が毎年生中継をしていて、映画デルタ・フォース のテーマ曲The Delta Force Theme がオープニングや挿入曲として使われていた。2019年より24年までNBC が生中継を行う[7] 。ただしインディアナポリス周辺では観戦を促進するためブラックアウト を行ってる。原則として放映権を持つ系列局では夜間の中継録画となる。ただ2016・2020・21・24年は生中継された。
エピソード
優勝者は牛乳を飲む
インディ500では、優勝したドライバーは牛乳 を飲むという慣習 がある。1933年、ルイス・メイヤーは自身二度目の優勝を飾ったが、レース終了後にバターミルク をリクエストした。ルイス・メイヤーは1936年にも自身三度目の優勝を果たし、この際もバターミルクをリクエストしたが、コップではなくボトルで手渡され、それをそのまま飲んだ。その飲んでいる写真が新聞の記事になり牛乳会社の目に止まった。それ以降優勝者には牛乳が提供されるようになった(1947年から1955年までの間を除く)。
この「ヴィクトリーレーンで牛乳を飲む」という行為にもスポンサー(2017年現在はインディアナ州酪農組合)がついており、仮に牛乳を飲まなかった場合や、飲むのが規定のスケジュールを外れた場合は該当スポンサーからの賞金は与えられない。
なお実際には、通常の成分無調整乳 (whole milk)以外に低脂肪乳 (2% fat milk)、無脂肪乳 (fat-free milk) も選択できる。このため予選通過が決まったドライバーは、優勝時にどれを飲むかを事前に選択することになっており、毎年選択の結果は「Milk List」として公表される[8] 。伝統に則りバターミルクをリクエストするドライバーも少なくないが、スポンサーのインディアナ州酪農組合では「メイヤーが飲んだのは、彼の母が作った伝統的なバターミルク だが、現代では同様のバターミルクは入手困難」「伝統的なバターミルクは非常に腐りやすい」の2点を理由として、このリクエストを断っている[9] 。また、今後ヴィーガン のドライバーが出走した場合に備えて、植物性ミルク が選択肢に追加される可能性も指摘されている[10] 。
この慣習に従わなかったドライバーもいる。ボビー・アンサーは1968年の優勝時にはこれを拒否したが、その後の2回の優勝時には従っている。エマーソン・フィッティパルディは1993年の優勝時に自身がブラジルでオレンジ農園を営んでいるという理由から、牛乳より先にオレンジジュースを飲んでいる[11] [12] 。このため牛乳を飲むのが規定の時間を外れてしまいスポンサー賞金を受け取れなかったが、後でフィッティパルディが陳謝することで事は収まった。
1998年 に優勝したエディ・チーバー は、この「Winner's Milk」を表彰台でボトル2本も飲み干した[13] 。
「Back home again in Indiana」
オープニングセレモニーの終盤、スタートコマンドの直前に「Back home again in Indiana」の独唱が行われる。セレモニーにおいてアメリカ合衆国国歌 よりも後に歌われるこの曲は、インディアナ州の「州歌」と言えるほど有名な曲だが、1946年にジェームス・メルトンが、自分が代表を務める自動車クラブのパレードに合わせて歌ったものがセレモニー内で歌われた最初である。この歌が好評となり、メルトンは1947年以降は招待されてこの歌を歌うようになった。この歌が正式にスタートコマンドの直前に歌われる現在の形に決められたのは、1948年のことである。以降、現在に至るまで何人もの歌手が独唱を披露してきた。
もっとも知られている歌手は、1972年から2014年までの42年間に渡り、36回歌ったカントリー歌手のジム・ネイバース である。2014年、36回目にして最後の歌唱を終えたネイバースは、マリ・ハルマン・ジョージとともにスタートコマンドも行っている。
2017年以降はセレモニーなどでの国歌歌唱を行う歌手ジム・コーネリソン (英語版 ) が行っている。
スタートコマンド
レース開始前のエンジン始動の号令(スタートコマンド)「Ladies and gentlemen, start your engines! 」は、代々インディアナポリス・モーター・スピードウェイにゆかりのある人物が行ってきた。
もともとはIMSのオーナーだったトニー・ハルマンがアナウンスを行っていたが、トニーは1977年に死去。翌1978年からはトニーの妻のメアリー・フェンドリッチ・ハルマンが行うようになった(1982年のみ、インディアナポリス・モーター・スピードウェイの場内放送アナウンサーだったトム・カーネギーが行っている)。そのメアリーが1998年4月に死去すると、1998年から2015年までトニーとメアリーの娘のマリ・ハルマン・ジョージが引き継いだ。その後2016年はマリが嫁いだハルマン・ジョージ家の家族一同で行い、2017年から2019年まではマリの息子のトニー・ジョージが行った。そして2020年は、新たにIMSのオーナーとなったロジャー・ペンスキー が行っている。
かつてはレースに参加するドライバーは男性ばかりだったので、スタートコマンドは「Gentlemen, start your engines!(紳士諸君、エンジンを始動しなさい)」だったが、女性ドライバーが参加するようになり、「A(One) lady and gentlemen, start your engines!(淑女と紳士諸君~)」と改められ、女性が複数人参加した際にはさらに複数形に改められ、「Ladies and gentlemen, start your engines!」となる。2017年と2018年、ペンスキーが行うようになった2020年以降は性別に関係なく使用できる「Drivers , start your engines!」というスタートコマンドが使われているが、結果的にトニ・ジョージ最後のコマンドとなった2019年は「Lady and gentlemen, start your engines!」に戻された[14] 。
優勝者にはキルトが贈られる
1976年以降、優勝者には手作りのキルトが贈られている。これは、地元のキルターであり、自らも元女性レーサーであったジャネッタ・ホールダーが手作りしたもの。レースをこよなく愛するホールダーは、レーサーのサインを集めて刺繍(ししゅう)したオリジナルのアップリケキルトを毎年作り、優勝者に贈っている。そのため、彼女は「キルト・レディ」として、レーサーや関係者に親しまれている。
そのうちの一人、数回の優勝経験をもつボビー・アンサーはヘンリー・フォード・博物館(ミシガン州ディアボーン)にキルトを寄贈した。また、アル・アンサーは自ら設立したアンサー・レーシング博物館(ニューメキシコ州アルバカーキー)に授与されたキルトを飾っている。
[15]
チャンピオンリング
他の多くのアメリカンスポーツ同様に、本レースでも優勝者にはチャンピオンリング が授与される。リングの製作は1983年 から2016年 までは同じインディアナポリスを本拠とする「Herff Jones」が担当していたが、2017年 よりミネソタ州の「Jostens」に変更された。なおJostensは、他にもピットストップチャレンジの勝者等に渡されるリングや、主催者が同じNASCAR のブリックヤード400 のチャンピオンリングなどの製作も担当する[16] 。
優勝者の超過密日程
優勝者は名誉と共に超過密日程をこなす責務を負うこととなる。レース翌日は午前9時から行われる3時間の撮影会の後に優勝者記者会見、午後は5時間に渡って行われるセレモニーイベント「インディ500ビクトリー・バンケット」に出席し、それが終わると休む間もなく 1000 km以上離れたニューヨーク へ移動し、僅かな仮眠の後に翌朝はFOX5ニューヨーク の「グッデイ・ニューヨーク」とCNBC の「スクワークボックス 」に出演、その後はナスダック へ向かい午前9:30の取引開始のベルを鳴らす。更にこの後にはエンパイア・ステート・ビル でメディア向け撮影会をこなした後様々なテレビ、ラジオに出演、その後約 3000 km離れたテキサス州 アーリントン へ移動しアメリカを象徴するスポーツチーム、NFL ダラス・カウボーイズ を表敬訪問し、ここでも数多くの取材をこなす。さらに2012年 から2019年 および2022年 以降はそのまま週末にレースが行われるデトロイト に移動してレースに備えなければならない[17] 。
脚注
注釈
^ この期間に参戦したF1ドライバーは1952年 のアルベルト・アスカリ 、1958年 のファン・マヌエル・ファンジオ (エントリーしたが予選に参加せず)くらいである。なお世界選手権から外れた直後の1960年代にはこれよりも多くの参戦例がみられる。
^ これはインディ500に限らず他のオーバルレースでも同様であり、インディカーシリーズではシリーズに参戦するドライバーに対しROPとは別にルーキーテストを課している
^ エントリーしたドライバーとしてはフィリピン のライセンスを使用したジョビー・マルセロ (1992年、練習走行中に事故死)、中華人民共和国 のライセンスを使用したホーピン・タン (2011年、予選落ち)、アラブ首長国連邦 のライセンスを使っているエド・ジョーンズ (2017年初参戦)くらいしか例がない。
^ 人数には予選落ちして決勝を走っていない桃田健史 と日系人のロジャー安川 を含んでいる。
^ 優勝したリック・メアーズ から51周遅れ。
^ メディアの投票によって選出される。いくつかの選出基準があるが、通常はルーキーの中で最上位の順位を記録した者に与えられることが多い。
^ 本名は松下弘幸だが、競技ライセンスでは「ヒロ松下 (Hiro Matsushita)」をエントリー名としていた。
^ エントリー名は「Tora Takagi」
^ アメリカ合衆国生まれ、日本育ちの日系アメリカ人 。アメリカ合衆国の競技ライセンスで出走している。
^ リタイアした場合も周回数に応じて順位が与えられる。そのため、完走したドライバーより上位となることもある。
^ ファイアストン社はブリヂストンに買収された1988年以前にも、1911年の第1回大会から1970年代までインディ500にタイヤを供給していた。
出典
関連項目
外部リンク