鬼怒川 (きぬがわ)は、関東平野 東部を北 から南 へと流れ利根川 に合流する一級河川 である。全長176.7 kmで、利根川の支流の中で最も長い[ 2] [ 3] 。
江戸時代 以前、鬼怒川は常陸川 などと共に香取海 (太平洋 に銚子 でつながる内海)へ注ぐ鬼怒川水系の本流であったが、利根川 が東遷 されそれまでの常陸川の河道および太平洋までを流れることになったに伴い、鬼怒川も利根川に注ぐ支流河川とされた。
名称は、当初は毛野国 (栃木県 ・群馬県 域の古地名)を流れる川として「毛野川 (毛野河)」と記されたが、中世から近世には「衣川 (衣河)」や「絹川 (絹河)」の字があてられ、明治初期から「鬼怒川」の文字があてられるようになった[ 4] [ 5] 。
上流域にある栃木県日光市 の鬼怒川温泉 周辺を指す地域名としても使用される。
地理
日光国立公園 内にある栃木県 日光市 の鬼怒沼 (奥鬼怒 )に源を発し、湯西川 ・男鹿川 ・大谷川 を合わせ、塩谷町 南端・さくら市 ・宇都宮市 の境界部・高根沢町 ・宇都宮市の境界部・宇都宮市東部・上三川町 東部・上三川町・真岡市 の境界部・真岡市西部・下野市 東南端・真岡市・小山市 の境界部を流れ田川 と合流し、茨城県 との県境を成して茨城県筑西市 に入り、筑西市と結城市 の境界部・結城郡 ・八千代町 ・下妻市 の境界部・下妻市南西部・常総市 ・常総市とつくばみらい市 の境界部・守谷市 を流れ、茨城県と千葉県 の境界部に達し、茨城県守谷市と千葉県柏市 ・同野田市 の境界部で利根川 と合流 する[ 2] [ 3] [ 6] [ 7] 。
鬼怒川の上流部は火山地帯で、深い山間の渓谷を流れる。深さもあって川の色は深緑色を呈し、川辺には白い大きな岩も目立つ。また流域には奥鬼怒温泉郷 ・女夫渕温泉 ・川俣温泉 ・湯西川温泉 ・川治温泉 ・鬼怒川温泉 ・日光湯元温泉 といった温泉地 が点在する[ 1] [ 2] [ 6] [ 7] 。
鬼怒川中流部は中小の白い石が目立つ広い河原 、かつての氾濫原 の中をゆったりと流れ、土手沿いには雑木林 や杉林 、松林 などがあって治水 されており草深い。深さはあまり無く川の色は水色 ないし濃紺色を呈する。夏季 には鮎 漁で賑わい、川面には個人の釣り人が友釣り する姿や、観光やな で遊ぶ観光客の姿が夏の風物詩 となっている。流域には多くの親水公園 や運動公園 が整備され、四季折々のスポーツ が楽しめる。また、塩谷町から宇都宮市にかけては多雨期に増水する鬼怒川の豊富な水量を別つため、放水路と用水路の役割を有する西鬼怒川に分流される。西鬼怒川は佐貫頭首工および逆木サイフォンで取水され根川用水 ・西鬼怒発電所 を経て西鬼怒川となり、御用川 を分流し、白沢河原 を経て宇都宮市岡本と高根沢町宝積寺の境界部で鬼怒川本流に合流する。また宇河地区(宇都宮、河内郡 地区)に広く上水 を供給する松田新田浄水場も鬼怒川高間木取水堰から取水している[ 2] [ 6] [ 7] [ 8] [ 9] [ 10] [ 11] 。
鬼怒川水系の豊富で上質な水は栃木県 の県都宇都宮市 ほか諸都市の水源となっており、上水 ・灌漑用水 として利用され、市民の都市生活および流域の米産やほか農業や工業にも広く利用されている。宇都宮市で盛んな飲料製造業は鬼怒川の清水に拠るものである[ 1] [ 12] 。
歴史
江戸時代以前の利根川、荒川、渡良瀬川、鬼怒川水系
常総市・つくばみらい市境より守谷市方向を臨む。
鬼怒川。奥に羽黒山 、男体山 を望む
羽黒山(写真中央)近くを流れる鬼怒川
現在の鬼怒川は利根川 の支流となっているが、江戸時代初期以前は太平洋 へ注ぐ東関東の本流の水系だった。
鬼怒川は約3万年前は高見沢・協和台地・桜川 ・霞ヶ浦 (西浦)を通る流路で太平洋に至る河谷を作った。関東造盆地運動 が進んだ結果、約2万年前から龍ケ崎の南を通り常陸川 と合流する現在に近い流路となり同じく太平洋へ至る長く深い河谷を形成した。縄文海進 時には下妻 付近まで入り江が湾入し(常陸川、飯沼川へも同様)、太平洋 につながる古鬼怒湾(香取海 )を形成した。
縄文時代以降、鬼怒川は常陸川と共に古鬼怒湾(香取海 )へ注ぎ、その湾の河谷は土砂で次第に埋まり沖積層 の陸地となった[ 13] [ 14] 。古代の鬼怒川の中流流路は下総国 と常陸国 の境界とされ、現在の常総市 とつくば市 の境界付近を南下し、香取海へ流れた。
中世頃まで香取海は完全には淡水化せず、鬼怒川の香取海への河口は現在の河内町 から稲敷市 柴崎付近だった。また現在の水海道 付近より河口に至る鬼怒川・小貝川 下流域は広大な湿地帯 (氾濫原 )が形成されていた[ 15] 。805年に河口にも近いこの氾濫原の東南端(利根町 と龍ケ崎市 の間)で鬼怒川を渡船する経路が下総国 から常陸国 へ入る東海道 の新経路として整備された[ 16] 。
江戸時代初期の1629年に鬼怒川を小貝川と分離し板戸井 の台地を4キロメートルに亘って開削し河道を移動させ、常陸川との合流点を約30キロメートル上流へ移動させた。
一方の利根川 ・渡良瀬川 は元は江戸湾 (現在の東京湾 )に注いだが、江戸時代初期に瀬替え(東遷 )させ、鬼怒川水系の常陸川へつなぎ、元来の鬼怒川下流河道(香取海)には利根川・渡良瀬川の水も流れることとなった。鬼怒川はそれに伴い支流の扱いとなり、利根川(常陸川)合流点までとなった(現在も鬼怒川水系は利根川水系に組み込まれている[ 2] [ 3] [ 5] )。
名称
鬼怒川は、古く『常陸国風土記 』には「毛野河」と見え、常陸国 各郡の境界を成す旨が記されている[ 4] 。また『続日本紀 』神護景雲 2年(768年 )条には、古来「毛野川」は下総国 と常陸国 の境界を成すと見える[ 4] 。平安時代 の文献(『延喜式 』兵部式、『倭名類聚抄 』など)には「河内郡 衣川」や「下野国 驛家衣川」などと見え、江戸時代 の古地図にも「衣川」とある。明治 時代に編纂された『日本地誌提要 』では「絹川」とされるほか、『下野國誌 』には「衣川」と見えるように、「きぬがわ」はかつて「衣川」「絹川」と表記されていた。「きぬ」という音については、この地方の豪族の紀氏 に因む「紀の川」の転訛説もある[ 2] [ 5] 。
現在に見る「鬼怒川」という表記は、一説に明治9年(1876年 )頃以降とされ[ 17] [ 18] 、明治以降の『古事類苑 』など諸文献に見られる。
水害の歴史
治水
五十里湖
1683年 (天和 3年)の日光地震 により鬼怒川支流の男鹿川 が現在の海尻橋付近で土砂に堰き止められ自然湖・五十里湖が出現したという記録が日光東照宮 の輪番記録に残されている。この堰き止め湖は高さ70mで湛水面積は後に五十里ダム 建造により生まれた「五十里湖」より大きく、40年間存在していた。この間会津藩 により洪水吐き工事が行われたがうまくいかず、その間男鹿川沿いの会津西街道 は通行不能になり会津藩 3代藩主・松平正容 によって1695年 (元禄8年)に代替街道として会津中街道 が整備された。会津西街道を通行止めにしていた五十里湖はその後1723年 (享保 8年)の大雨で決壊し、死者1200人を出す土石流となり、宇都宮近辺まで被害が及んだ[ 23] 。
東北本線 は開通当初、現在の東北新幹線 のルートに近い宇都宮駅 より真北に向かう進路を取っており、古田停車場 と長久保停車場 の間の絹島村 で西鬼怒川 と東鬼怒川(鬼怒川本流路)の2河川を渡っていた。しかし当時未治水であり、夏季に雷を伴い激しく降雨する栃木県北部山間部を水源とする鬼怒川は幾度となく大水となり、その激流は橋脚を傷め、1890年 (明治23年)8月22日 の降雨の際には橋脚が傾斜し修繕にかかる経費と時間が莫大なものとなったことをきっかけとし、東西両鬼怒川が合流し流路帯が狭くなった箇所に線路を移設することとなり、1897年 (明治30年)2月25日 より宇都宮を出て直ぐに北東に曲がる現在の経路での営業運転に切り替えられた[ 24] 。
2015年 (平成 27年)9月10日 には平成27年台風第18号 から変わった温帯低気圧の豪雨で増水し、上流の鬼怒川温泉 では川に面した温泉ホテルの一部が崩落、下流の常総市 では数か所で破堤 、越流し、市街地が広範囲にわたり浸水した。越水 した常総市若宮戸の鬼怒川左岸 の堤防 は、前年にソーラーパネル設置工事で、高さ2m、長さ150mが削られ、堤防のない状態になっていた[ 22] 。但し、ここから 600 m 下流側の自然堤防が削られなかった地点からも同様に溢水しており、工事が行われなかったとしても被災状況は変わらなかったと考えられている[ 25] 。
産業
北関東自動車道 と交差し日産自動車 栃木工場 近くを流れる鬼怒川。写真左から右に流れる。2008年3月29日撮影
鬼怒川の支流のひとつ大谷川 の上流にある日光市 清滝地区では、足尾銅山 の銅 鉱石と周辺の豊富な水力発電 の電力 を利用した古河電工 日光電気精銅所が1906年 (明治39年)に開設され、旺盛な送電など電線需要に対応した[ 26] 。続いて1913年 (大正 2年)1月には当時日本最大級の最大3万1,200キロワットの電力を発生する鬼怒川水力電気 下滝発電所 (現・東京電力 鬼怒川発電所)が現在の鬼怒川温泉 の辺りで運転を開始し、東京市 電気局に電力 を供給した。この時建設に利用された軌道 が後の下野軌道となり、現在の東武鬼怒川線 に受け継がれている[ 27] 。
支流
橋梁
玉台橋。常総ニュータウン きぬの里 地区と絹の台 地区を結ぶ。2009年4月26日撮影
上流より記載
鬼怒川の画像
脚注
^ a b c d e 国土交通省 関東地方整備局 鬼怒川ダム統合管理事務所 流域とダムの紹介
^ a b c d e f 国土交通省 関東地方整備局 下館河川事務所公式ホームページ 鬼怒川・小貝川の紹介
^ a b c 環境省 第7回水生生物保全環境基準類型指定専門委員会 資料3-1
^ a b c 「鬼怒川・小貝川」『日本歴史地名大系 8 茨城県の地名』 平凡社、1982年
^ a b c 茨城県霞ヶ浦環境科学センター公式ホームページ 霞ヶ浦への招待
^ a b c スーパーマップル 広域首都圏道路地図(昭文社)
^ a b c Yahoo! Japan 地図 鬼怒川
^ 栃木県鬼怒川漁業協同組合公式ホームページ
^ 宇都宮市公式ホームページ おすすめスポーツ情報 サイクリングモデルコース サイクリングモデルコース全体図(鬼怒川編)
^ 栃木県公園&観光ガイド とちぎナビ 鬼怒川緑地運動公園
^ 鬼怒グリーンパーク 公式ホームページ
^ 栃木県 鬼怒水道事務所 公式ホームページ
^ 古くは758年(天平宝字2年)に鬼怒川鎌庭付近の洪水被害の記録が残され、「毛野川氾濫して二千余頃の良田を荒廃に帰せしめ」と記されている(土木学会(1973):『明治以前 日本土木史』)。
^ 768年(神護景雲2年)、鬼怒川筋での流路付け替えの記録が残されている。
^ 現在の下妻市中郷には鬼怒川の土砂が小貝川を堰き止めて湖を作った騰波の江 があった。
^ これ以前の経路は香取海を稲敷市 柴崎付近で渡船した。
^ 「鬼怒川」『日本歴史地名大系 9 栃木県の地名』 平凡社、1982年
^ ただし『茨城県の地名』(平凡社)「鬼怒川・小貝川」項では、江戸時代の史料(寺田家文書)に「新鬼怒川堀割、寛永元甲子年也」とあるとする。
^ a b c d e f 明治9年ごろまで、鬼怒川を「絹川」「衣川」と書いたようだが、なぜ変更されたのか。昔は洪水で度々氾濫する川であったと見たが、関係があるか。 レファレンス協同データベース
^ a b c d 利根川中・下流域水害史・治水・利水史略年表 千葉県立中央博物館 大利根分館
^ a b c d e f 鬼怒川洪水の記録 下館河川事務所
^ a b 関東・東北豪雨:太陽光装置設置工事で堤防削る 鬼怒川越水部分 毎日新聞 2015年09月12日 東京朝刊
^ 栃木県公式ホームページ 県土整備部 日光土木事務所 激動とともに生きる五十里
^ 土木学会 関東支部栃木会 栃木県の土木遺産 鬼怒川橋梁上り線(東北本線)
^ [1] 『平成27年9月関東・東北豪雨』の鬼怒川における洪水被害等について、2015年10月29日、国土交通省 関東地方整備局
^ 古川電気工業株式会社公式ホームページ 会社案内 沿革
^ 水力ドットコム 東京電力鬼怒川発電所
^ “LRT事業に係る都市計画決定(変更)の手続きについて ”. 宇都宮市公式webサイト. 2022年1月9日 閲覧。
関連項目
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外部リンク