板戸井(いたとい/Itatoi)は、茨城県守谷市の地名。旧北相馬郡板戸井村。郵便番号は302-0101。
地理
守谷市北部に位置する。地域の中心に鬼怒川が流れ、地域内を県道野田牛久線が通り、新守谷駅前通りの終点となっている。地域内には北守谷公民館がある。地域の中央を鬼怒川が流れていることから、鬼怒川の東を通称「東板戸井」、西を「西板戸井」と呼ぶ[3]。
東は松前台、西は常総市菅生町・野田市木野崎、南は大木・薬師台、北は常総市内守谷町と接している。
河川
- 鬼怒川 - 地域の中央を流れる一級河川。かつて鬼怒川は当地を通っていなかったが、利根川東遷事業の一環で掘削された。掘削による河川のため、下流に位置するにもかかわらず台地の間を貫いている。
歴史
当地域は、古くは守谷郷に属し、全域が下総国相馬郡板戸井村となっていた。
元は鬼怒川は流れていなかったが、鬼怒川掘削のために働いていた内守谷村の人夫が1625年(寛永2年)に土砂崩れで死亡した記録がある[4]ことから、それ以前に鬼怒川の掘削が始まっていたと推測され、1634年(寛永11年)ごろ掘削が完成し、現在のように地域内に鬼怒川が流れるようになったと考えられている[4]。1637年(寛永14年)頃は一色忠次郎の知行所であり、「下総国相馬郡板戸井村差出帳」によると、1669年(寛文9年)から1694年(元禄7年)にかけて計4回行われた検地の全てで一色氏の知行所となっており、1699年(元禄12年)の第五回検地においては牧野備前守の所領となっている[5]。
江戸末期には代官小笠原甫三郎及び田安領となっており、1706年(宝永3年)の「板戸井村書上帳」によると 民家108軒、人口555人の村となっていた[4]。また、少なくとも幕末には名主が鬼怒川以東と鬼怒川以西に1人ずつ存在した[4]。
「旧高旧領取調帳」によると、幕末には田安領(712石8斗3升5合)と幕府領(12石8斗8升9合)となっており、幕末より下総野鎮撫府、下総知事県の管轄となり、1869年(明治2年)には葛飾県、1871年(明治4年)には印旛県の管轄となり、1873年(明治6年)の大区小区制では第十四大区六小区となったが、これは本来は仮定であり、実地不便の向きもあるということを理由に第五大区七小区へと再編されている[3]。また、同年千葉県となる。1875年(明治8年)には千葉県から茨城県に移管され、第九大区二小区となる。1878年(明治11年)の郡区町村制で大区小区の区分けは廃止され、同時に相馬郡が利根川を境に南相馬郡と北相馬郡に分離し、北相馬郡板戸井村となる。1889年(明治22年)3月1日には同じ北相馬郡の大木村、大山新田、立沢村と合併し、板戸井は大井沢村の大字となり、1955年(昭和30年)3月1日には同じく北相馬郡守谷町、大野村、高野村と合併し、守谷町の大字となる。1976年(昭和51年)5月より、地域の北端を日本住宅公団(現:都市再生機構)が「常総ニュータウン北守谷」(開発中の名称は「公団北守谷団地」などで、開発後期より街開き後しばらくまでは「常総ニュータウン守谷」と呼ばれていた[6])として開発し、1985年(昭和60年)5月には松前台五~七丁目、薬師台二丁目~七丁目として分離した。2002年(平成14年)2月2日の守谷市の市制施行により、守谷市の大字として現在に至る。
地名の由来
承平、天慶年間(931 - 946年)に平将門が東国に兵を起こした時、相馬地方に七つの井戸を掘って万一の場合の飲み水に備えたという伝説が残っており、その伝説により「板戸井」(井は井戸の意)という地名が付けられたと伝えられている[7]。
沿革
世帯数と人口
2017年(平成29年)8月1日現在の世帯数と人口は以下の通りである[1]。
交通
首都圏新都市鉄道つくばエクスプレス・関東鉄道常総線守谷駅と新守谷駅を結ぶ路線バス・守谷駅から北守谷公民館までを結ぶ路線バスと、守谷市コミュニティバス「モコバス」が地域内を走っている。
路線バス
地域内には「守谷高校入口」・「北守谷公民館」の2つの停留所がある。
また、現在は廃止されたが、かつては以下のバス停留所が存在した。
- 馬坂台(現在のモコバス「西三」停留所付近)
- 西板戸井(現在のモコバス「西二」停留所付近)
- 滝下(現在のモコバス「滝下」停留所付近)
- 東板戸井(現在のモコバス「大八洲農協前」停留所付近)
- 大井沢小学校前(現在の「もりや学びの里」前)
モコバス
地域内には「守谷高校前」、「守谷高校入口」、「大八洲(おおやしま)農協前」、「前原」、「西三」、「西二」、「いこいの広場前」、「滝下」の8つの停留所がある。また、当地域内は右回り、左回り共に同じルートである。
系統 |
主要経由地 |
行先 |
運行会社
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Aルート(右・左) |
守谷高校前・前原・滝下・守谷高校前・大野橋 |
守谷駅西口 |
■関鉄
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小・中学校の学区
市立小・中学校に通う場合、学区は以下の通りとなる。
施設
- 滝下橋
- 北守谷公民館 - 板戸井1977番地2
- もりや学びの里(アーカススタジオ) - 板戸井2418番地
- 清滝寺 - 板戸井字竹原
- 清滝神社
史跡
- 井戸跡
- 地名の由来となった井戸の跡。滝下橋より300mほど東の水田の一角に井戸の跡が存在する。
- 小屋場の家
- 鬼怒川掘割工事の時に作業小屋を設けた場所。古くよりその地は民家と変わっており、民家が建てられたことより小屋場の家と称されるようになった。
祭事・催事
- お滝さまの祭礼
- 地域では古くより「お滝さま」と呼ばれる清滝神社で行われていた祭礼。毎年秋の取り入れが終わった十月に行われていた[8]。
- 板戸井の村芝居
- 「お滝さまの祭礼」で行われていた村芝居。いつから行われるようになったかは明らかではないが、江戸時代には行われていたもので、明治以降も数十年もの間続いた[8]。芝居内容は忠臣蔵の狂言で、「いたで(板戸井)芝居は忠臣蔵よ、帰りがけなら見ておいで」という謡にも歌われるようになっていた[8]。
参考文献
- 守谷町史(守谷町史編さん委員会 編)
- 北相馬郡志(北相馬郡志刊行會)
- 角川日本地名大辞典 9 茨城県(角川書店)
脚注
- ^ a b “平成29年(2017年)の人口 - 常住人口 町丁別”. 守谷市 (2017年8月3日). 2017年8月24日閲覧。
- ^ “市外局番の一覧”. 総務省. 2017年5月29日閲覧。
- ^ a b 守谷町史(守谷町史編さん委員会 編)
- ^ a b c d 「守谷町の歴史 近世編(守谷町教育委員会発行)
- ^ 広報もりや 昭和48年6月25日発行(第106号)
- ^ 広報もりや 昭和56年12月10日発行
- ^ 守谷町史(守谷町史編さん委員会 編)
- ^ a b c 広報もりや 昭和48年5月25日発行(第104号)
関連項目