松平 恒雄(まつだいら つねお、旧字体:松󠄁平󠄁 恆雄、1877年〈明治10年〉4月17日 - 1949年〈昭和24年〉11月14日)は、日本の外交官、政治家。外務次官、駐英大使、駐米大使、宮内大臣、初代参議院議長を歴任した。位階・勲等は従一位勲一等[1]。
来歴・人物
1877年(明治10年)4月17日、旧会津藩主で京都守護職を務めた松平容保の六男として福島県会津若松市の御薬園で生まれた。母は容保の側室・名賀(川村源兵衛女)。
学習院から第一高等学校を経て、1902年(明治35年)に東京帝国大学法科大学政治学科卒業後、外交官及領事官試験に首席合格して外務省に入省。
ロンドン在勤、清国在勤を経て、天津総領事、欧米局長、外務次官兼情報部長、駐米大使、駐英大使を歴任。ほかにロンドン海軍軍縮会議首席全権を経験するなど、幣原喜重郎と並ぶ親英米派外交官として知られるようになる。
1928年(昭和3年)、長女の松平節子と秩父宮雍仁親王の婚約が内定する[注釈 1]。
1936年(昭和11年)、二・二六事件で殺害された斎藤実内大臣の後任に擬せられたが、岳父が青年将校の標的になることを懸念した秩父宮の反対により、かわって3月6日に国政への影響力をもたない宮内大臣に任じられた[2]。それでも外交官としての経験を生かしてイギリス王室との宮廷外交などを模索したが、時節柄その効果は限定的だった。
宮内大臣として9年3か月にわたり在職したが、第二次世界大戦中の1945年(昭和20年)にアメリカ軍による5月25日の山手大空襲で明治宮殿を焼失した責任を負って辞任した。
戦後は枢密顧問官に任じられる。また、一時は大命降下を目前にして公職追放になった日本自由党総裁の鳩山一郎の後継に擬せられ、本人もこれを受ける意思があることを表明したが、数日後に鳩山と直接会ってみたところ全く折が合わず、この話は立ち消えとなった。新憲法の施行を目前に控えた1947年(昭和22年)の第1回参議院議員通常選挙に地元会津の福島地方区から立候補して当選する。当選後は緑風会に所属するが、すぐに初代参議院議長に選出される。議長在任中には国立国会図書館館長選任問題[注釈 2]を裁定している。
1949年(昭和24年)11月14日午後5時25分、心臓麻痺のため東京都品川区荏原七丁目524番地の自宅で急死した。享年73(満72歳没)。17日には史上初の参議院葬が執り行われた。墓所は青山霊園にある。戒名は鷲峰院殿真月常住法恒大居士。
栄典
- 外国勲章佩用允許
家族
長女・節子は秩父宮雍仁親王妃となって勢津子と改名したが、皇室典範で皇族男子の妃は皇族または華族の女子と規定されているため、節子はいったん叔父の子爵松平保男の養女となってから秩父宮に輿入れした。長男一郎の次男・恒孝は徳川宗家の徳川家正の養子となって第18代当主を相続した。
回想
- 『松平恒雄追悼録』故松平恒雄氏追悼会、昭和36年(1961年)
- 東京PR通信社編さん、親族・友人知人数十名による追想録
補注
注釈
- ^ 成婚後「勢津子」と改名した。晩年に回想『銀のボンボニエール 親王の妃として』(主婦の友社)を刊。
- ^ 新設の国立国会図書館館長に推薦された中井正一が共産主義者だとみなされたため、中井の就任に対し反対運動が起きた事件。この際、松平は参議院議長として中井を副館長とするという案でまとめた。
出典
参考文献
関連項目
宮内大臣(第11代:1936年-1945年) |
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第1回 (定数4) |
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定数1 (第23回以降) |
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↓:途中辞職、失職、在職中死去など、↑:補欠選挙で当選。 |
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a 外務少輔・外務卿代理を一時期兼ねる b 再任 c 遣アメリカ合衆国特命全権大使(在アメリカ合衆国特命全権大使の野村に加えての大使) d 1941年12月の日米開戦後に大使館が閉鎖されたため実質的に失職、両名は翌年8月の抑留者交換船で帰朝
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