門脇 季光(かどわき すえみつ、1897年(明治30年)1月4日 - 1985年(昭和60年)6月18日[1])は、日本の外交官、実業家。1955年(昭和30年)3月1日から1957年(昭和32年)1月23日まで外務事務次官。外務省退官後、ホテルニューオータニに入社し社長等を務めた[1]。
経歴・人物
島根県八束町(大根島、現在の松江市)出身。門脇虎市の四男として生まれる[2]。旧制島根県立松江中学校、旧制三高を経て、1923年(大正12年)東京帝国大学法学部政治学科を卒業する。翌1924年(大正13年)外務省に入省した[1][2]。青島領事、駐イラン公使などを経て、1955年(昭和30年)3月1日から1957年(昭和32年)1月23日まで外務事務次官を務めた[1][2]。日ソ国交回復後、1957年ソ連駐箚特命全権大使に任命される。1959年にはモスクワ駐在のまま、国交回復後のルーマニア特命全権公使を兼務[3]。1961年(昭和36年)イタリア駐箚特命全権大使。1964年(昭和39年)外務省を退官。ホテルニューオータニに入社し副社長となる。1965年(昭和40年)同社社長に昇格。1973年会長、1977年相談役を経て、1984年退任した[1]。この間、1971年から1973年まで日本ホテル協会会長[4]。墓所は多磨霊園。
同期
脚注
- ^ a b c d e 門脇季光(歴史が眠る多磨霊園)
- ^ a b c 門脇家(島根県):閨閥学
- ^ 二国間関係(在ルーマニア日本国大使館)
- ^ 歴代会長日本ホテル協会
外部リンク
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在ロシア帝国全権大使 |
- 本野一郎1908-1916
- 内田康哉1916-1918
- 国交断絶(ロマノフ朝の崩壊から日ソ基本条約締結まで、日本は反革命の白系ロシア人勢力を支援してソビエト連邦と対立)
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