伊集院 彦吉(いじゅういん ひこきち、1864年7月22日(元治元年6月19日) - 1924年(大正13年)4月26日)は、明治、大正時代の日本の外交官。外務大臣。男爵。妻の芳子は大久保利通の長女[1]
。
経歴
伊集院彦吉は1864年7月22日(元治元年6月19日)に薩摩藩鹿児島城下高麗町において、薩摩藩士・伊集院吉次の長男として生まれた[2]。1890年7月に帝国大学法科大学政治科を卒業した後、すぐに外務省に入省した。同期には石井菊次郎がいる。1892年からは翻訳官となり、1893年には 芝罘(のち山東省煙台)の副領事として清朝支配下の中国大陸に渡った。1894年にはロンドンの日本公使館の書記官としてイギリスに赴任し、1896年6月まで務めた。9月には釜山一等領事として大韓帝国に赴任し、仁川の領事も務めた。
1901年2月には天津の領事となり、1902年1月には総領事に昇任した。伊集院は豪放磊落な言動で知られ、周囲からは「伊集院公使」と呼ばれた。彼の領事時代に天津の日本人居留地は拡大し、華北地方における日本の策源地へと成長した。また、北洋大臣直隷総督の袁世凱、その部下の唐紹儀と親交を結んだ。1908年6月には北京駐在の特命全権公使となった。しかし1911年に勃発した辛亥革命においては、立憲君主制が存続する見通しを持ち、袁世凱らを支援しようとしたが、袁世凱が革命派に寝返ったことで中華民国が成立した。伊集院は自らの政治的失敗を認め、公使の辞職を上申したが、「貴官ノ進退ハ時局ニ容易ナラサル関係ヲ有スル」という内田康哉外相の裁定によって却下された。1916年にはイタリア特命全権大使として赴任し、15年間駐在した中国大陸を離れた。
第一次世界大戦後に開催されたパリ講和会議においては全権の一人となった。しかし会議の最中に行われた中華民国の猛烈な宣伝工作に対し、日本側は「サイレント・パートナー」と呼ばれる消極的な外交しかできなかった。外務省の若手官僚達は「革新同志会」を設立し、対外アピールのための組織改革を訴えた。1920年4月には外務省内に情報局が設立され[6]、伊集院をその局長とした。
1922年には関東長官(関東庁の長官)に転じ、外務省を離れた。1923年9月に成立した第二次山本権兵衛内閣では外務大臣となったが、内閣が虎ノ門事件で総辞職したために3ヶ月の在任であった。1924年4月26日、胃ガンに依り薨去。墓所は青山霊園。
家族
- 妻:芳子(大久保利通の長女)
- 子:虎一、仁二、清三、清子、四郎、恭子、清彦、藤子
年譜
栄典
- 位階
- 勲章等
脚注
- ^ 伊集院彦吉(いじゅういん ひこきち)とは - コトバンク
- ^ 上田正昭ほか監修 著、三省堂編修所 編『コンサイス日本人名事典 第5版』三省堂、2009年、107頁。
- ^ 官制上の設立は1921年8月15日
- ^ 『官報』第2776号「叙任及辞令」1892年9月27日。
- ^ 『官報』第3142号「叙任及辞令」1893年12月18日。
- ^ 『官報』第4004号「叙任及辞令」1896年10月31日。
- ^ 『官報』第4764号「叙任及辞令」1899年5月22日。
- ^ 『官報』第5628号「叙任及辞令」1902年4月12日。
- ^ 『官報』第6652号「叙任及辞令」1905年8月31日。
- ^ 『官報』第7678号「敍任及辞令」1909年2月2日。
- ^ 『官報』第468号「叙任及辞令」1914年2月21日。
- ^ 『官報』第3502号「叙任及辞令」1924年4月29日。
- ^ 『官報』第3704号「叙任及辞令」1895年11月1日。
- ^ 『官報』第5243号「叙任及辞令」1900年12月21日。
- ^ 『官報』第5848号「叙任及辞令」1902年12月29日。
- ^ 『官報』号外「叙任及辞令」1907年3月31日。
- ^ 『官報』第7578号・付録「辞令」1908年9月28日。
- ^ 『官報』第1310号・付録「辞令」1916年12月13日。
- ^ 『官報』第2431号「授爵・叙任及辞令」1920年9月8日。
- ^ 『官報』第1499号・付録「辞令二」1931年12月28日。
参考文献
外部リンク
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