亀山理平太
亀山 理平太(かめやま りへいた[1]、1872年1月26日〈明治4年12月17日〉[2] - 1915年3月4日)は、日本の内務官僚。官選徳島県知事。地方行政官である[1]。族籍は岡山県平民[2]。
経歴
岡山県御野郡今村に生まれる[1]。岡山平民・亀山吉郎の三男[2]。1898年7月、東京帝国大学法科大学政治学科を卒業し、法学士の称号を受く[1][3]。同年12月、文官高等試験に合格。土木監督署書記となり、内務省に出仕し更に土木局に勤務する[1]。山形県警部長を経て、1903年6月、長崎県警部長に就任[4]。
1905年2月、統監府警視となり、次に釜山理事庁理事官を務める。1910年9月、台湾総督府に転じ民政部内務局長に就任。1911年10月、警視総長に転じ民政部地方部長を兼務した。
1915年1月、徳島県知事に着任後、地方官会議に出席の帰途、立ち寄った岡山県御津郡今村(現岡山市)の兄宅で発病し療養に努めたが、同年3月に死去した。
人物
1905年、家督を相続した[2]。
栄典
家族・親族
- 亀山家
脚注
- ^ a b c d e 『日本現今人名辞典』か89頁(国立国会図書館デジタルコレクション)。2020年3月16日閲覧。
- ^ a b c d e f g h 『人事興信録 第3版』か187頁(国立国会図書館デジタルコレクション)。2019年5月2日閲覧。
- ^ 『東京帝国大学一覧 明治31-32年』第二十一章 学士及卒業生姓名 法学士458頁(国立国会図書館デジタルコレクション)。2020年3月16日閲覧。
- ^ 『官報』第5990号、明治36年6月22日。
- ^ 『官報』第7578号・付録「辞令」1908年9月28日。
- ^ 『官報』第8068号「叙任及辞令」1910年5月17日。
参考文献
- 『東京帝国大学一覧 明治31-32年』東京帝国大学、1886 - 1912年。
- 『日本現今人名辞典』日本現今人名辞典発行所、1903年。
- 人事興信所編『人事興信録 第3版』人事興信所、1903 - 1911年。
- 『大正過去帳 物故人名辞典』東京美術、1973年。
- 歴代知事編纂会編『新編日本の歴代知事』歴代知事編纂会、1991年。
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