張家口市(ちょうかこう-し、モンゴル語:ᠴᠢᠭᠣᠯᠠᠯᠲᠣᠬᠠᠭᠠᠯᠭᠠ、転写:Čiɣulaltu qaɣalɣa、満洲語: ᡳᠮᡳᠶᠠᠩᡤᠠᠵᠠᠰᡝ[1]、転写:imiyangga jase)は、中華人民共和国河北省北西部に位置する地級市。かつてはモンゴル諸語で万里の長城の「門」をあらわすハルガ hālga またはカルガ kālga(その元の形はkaghalga)から、カルガン(Kalgan)の名でも知られていた。『北京の北門』とも呼ばれ、北京の北を取り巻く万里の長城の主要な門「大境門」のすぐ外側に位置し、ここを制したものは北方から北京を攻める場合にも、北京を守る場合にも有利になるという。
張家口市は河北省西北の山間の盆地に位置する。北は内モンゴル自治区、南は万里の長城をへだてて首都の北京市と河北省保定市、東は河北省承徳市、西は内モンゴル自治区と山西省に隣接する。市域は南北300km、東西228kmに渡って広がり、張家口市街のはるか北、張北県・康保県にまで広がっているが、逆に南側の懐来県・宣化区・涿鹿県にも広がっており、これらは北京から20kmも離れていない。
市域北部は高原で、南部は洋河の谷間になる。
蔚県と涿鹿県の境にある小五台山山地は太行山脈の北部に当たり平均海抜2000mで、その主峰の東台は2,882mの高さとなり、河北省の最高峰である。
張家口市の市街地は清水河の両岸に広がり、東・西・北の三面を山に囲まれ市街地は南北に細長く、南面にわずかな平原がある。万里の長城の支線が北の山をうねりながら伸び、市内から見ることができる。気候のせいもあり市外を囲む山々は緑が少ないが、市民の長年の努力で、いくつかの森林公園が完成した。
土地のうち、耕地が30%、牧草地が15%、森林が20%を占める。特に牧草地面積は河北省では承徳市に次いで第二位で、康保・尚義・張北・沽源の北部4県に集中している。これら北部地域は牧畜が主産業で、河北省の牧畜基地である。
南部を流れる桑乾河・洋河・潮白河の沿岸は肥沃な平野になっており、穀物や果物を産する。川や地下水が多く水資源は豊かで、127のダムのほか地下水くみ上げ施設などがあり、その水は灌漑に使われる。ダムのほとんどは小型ダムだが、大型ダムが2基存在する。
北京市と包頭市を連絡する鉄道の他、オリンピックの誘致を受けて高速鉄道ネットワーク(京張都市間鉄道)も建設されるようになった。河北省と内モンゴル、中国西北部・モンゴル国と北京とを結ぶ、交通の要衝であり、物資の集散地であり、軍事的な要地でもある。
冷帯の大陸性の乾いた気候であり、年平均降水量はわずか406mm、年平均気温は8.8℃である。
市域の北部は歴史的には遊牧民族の支配地域、市域南部は漢民族らによる農耕地域であった。しばしば遊牧民族による征服を受けたが、次第に農耕地域が拡大し遊牧は廃れていった。
春秋時代、北部は匈奴や東胡の居住地で、南部は燕国や代国の領土であったとされていた。
秦朝が中国を統一すると郡県制を施行し、市域は代郡及び上谷郡に属するようになった。漢代になると中原の統治権が弱体化し、北方民族である烏桓・匈奴・鮮卑らが進出し、魏晋南北朝時代を通じて北方民族の支配を受ける地域となった。
隋朝が成立すると市域も中原支配を受けるようになり、東部は涿郡、西部は雁門郡の管轄とされるようになり、唐代になると河北道に属し嬀州及び新州、一部が蔚州に属した。
五代十国時代、石敬瑭によりこの地域は遼に割譲され、遼代には嬀州・蔚州・奉聖州・帰化州・儒州に属した。後には金朝の領土となるも野狐嶺の戦いでチンギス・カンのモンゴル帝国軍との中国北部の支配権を賭けた決戦の地となり、金朝に勝ったモンゴル帝国に組み込まれることとなった。
クビライ・カアンによって元朝が成立すると、市域に中書省上都路宣徳府を設置、市西北部は共和路(現在の張北県一帯)に属した。また、第7代カアンのカイシャンのころにカラコルム・上都・大都に続く新たな都として元中都の建設が進められた[3]。
明代になると、延慶州・保安州・雲州・蔚州および万全都指揮使司十二衛の地となった。1429年(宣徳4年)には張家口堡を築き、京師宣府鎮に属させた。1449年(正統14年)には土木堡で土木の変が発生している。1613年(万暦41年)には来遠堡が設置され、モンゴルとの間の貿易拠点とされている。清代になると1724年(雍正2年)に遊牧民族を管理する口北三庁(多倫諾爾庁・独石口庁・張家口庁)が設置され、張家口市域の大部分は張家口庁に属していた。南部は宣化府(現在の宣化区)に属していた。
中華民国が成立すると当初は宣化府万全県に属したが、1913年(民国2年)の府制廃止に伴い直隷省察哈爾特別区口北道の管轄とされた。1928年(民国17年)以降は直隷省から分離し新設された察哈爾省(チャハル省)の省都とされた。1937年(民国26年)9月、日中戦争が勃発すると対日協力政権である察南自治政府が成立、その首都となる。1939年(民国28年)には蒙古聯合自治政府の首都となり、張家口特別市が設置された。ソ連対日参戦の際はソビエト連邦とモンゴル人民共和国の連合軍が侵攻して1945年8月21日まで在留邦人を後送させようとした日本軍(駐蒙軍)との激戦地となっており、ソ蒙連合軍烈士記念塔が建てられて現在もロシア連邦軍とモンゴル国軍の代表団も交えて記念行事が行われている[4]。同年8月23日にはソ連とモンゴルに続いて八路軍が制圧して晋察冀辺区政府に組み込まれ、1946年には軍事調処執行部(中国語版)(三人委員会)の米国代表ジョージ・マーシャル、国民党代表張治中、共産党代表周恩来は張家口に対する中国共産党の実効支配を認めることで合意した。内モンゴル自治運動連合会が置かれるも同年に始まった国共内戦では中国国民党軍に一時占領されることもあった。1947年に張垣市と改称された。
中華人民共和国が成立した1949年12月に内モンゴル自治区の政府機関所在地となるも、1952年に張家口市は河北省に編入された。1955年には宣化市を併合、宣化区とした。中ソ対立時代はソ連の侵攻に備え張家口の陸軍が増強された。1993年には周囲の張家口地区と合併し、地級市の張家口市が誕生した。
2022年北京オリンピックではノルディックスキー、フリースタイルスキー、スノーボード、バイアスロンが開催された[5]。
民族は漢族が主であるが、遊牧民族との境にあるため、また中国各地からの工場などへの流入があるため、民族構成は複雑である。回族、満族、モンゴル族、チベット族、朝鮮族、ペー族(白族)、ウイグル族、イ族(彝族)、リー族(黎族)、チワン族(壮族)、トン族(侗族)、プイ族(布依族)、高山族、トゥチャ族(土家族)、ミャオ族(苗族)、カザフ族(哈薩克族)、ダウール族(達斡爾族)、オロス族(俄羅斯族)、ヤオ族(瑶族)、ハニ族(哈尼族)、タイ族(傣族)、シェ族(畲族)、ラフ族(拉祜族)、シベ族(錫伯族)、エヴェンキ族(鄂温克族)など26の少数民族が住む。
6区10県を管轄する。なお、市内の行政区を再編する計画(県を市に変える、区を分割するなど)がある。
この節の出典[6][7][8]
産業はとうもろこし・コーリャン・小麦・そら豆・ジャガイモなどの農業の区域と、牛・馬・羊など牧畜業が盛んな区域の境目に位置し、食品製造産業、皮革・毛皮・毛織物産業が立地する。そら豆については最高級品が栽培されている。
また、石炭・鉄鉱石・鉛・リン・ゼオライト・グラファイトなど鉱業も盛んであり、精錬・機械工業もある。
「国家級貧困県」にも指定された貧困都市であったが、北京冬季五輪の開発需要でリゾートやインフラが整備されるようになった[9]。
北京と包頭を結ぶ京包線沿線の重要な都市である。ほかいくつかの支線(豊沙線、沙蔚線、大秦線)、鉱山鉄道(宣龐線、宣煙線)がある。張家口駅、沙城駅などが市内にある。
高速道路は北京~張家口を結ぶ京張高速公路、張家口市宣化~山西省大同市を結ぶ宣大高速公路、丹東~ラサを結ぶ丹拉高速公路が走る。包頭~フフホト~張家口を結ぶ高速道路も2005年夏に開通した。
また、軍民共用である張家口寧遠空港(中国語版)が2013年6月17日に開港している。
2019年12月31日に京張都市間鉄道が開通したが、北京オリンピック後は需要が激減。2022年現在、1日1往復の運行状況となっている[10]。
高等教育機関:
万里の長城の主要な門「大境門」や、元中都遺跡(中国語版)、古い城壁都市の宣化城などがある。宣化と蔚県は省級歴史文化名城に、蔚県暖泉鎮は中国歴史文化名鎮に、懐来県鶏鳴駅郷の鶏鳴駅村は中国歴史文化名村に指定されている。
崇礼区西湾子鎮の紅花梁には、中国国内で最初(2004年)に誕生したスノーリゾートであるとされる万龍スキーリゾートがある。
このほかに清遠楼・鎮朔楼・水母宮・賜児山雲泉寺・張世卿壁画墓・泥河湾遺跡・土木堡などの名勝古跡がある。