弘前公園(ひろさきこうえん)は、青森県弘前市下白銀町にある公園。都市計画公園名は鷹揚公園(おうようこうえん)[1]、条例上(弘前市都市公園条例)の名称は鷹揚園(おうようえん)である[2]。
弘前公園・鷹揚公園は日本の都市公園100選、日本の歴史公園100選、日本さくら名所100選に、公園内の弘前城は日本100名城、美しい日本の歴史的風土100選、人と自然が織りなす日本の風景百選、平成百景に選定されている。
弘前公園は国指定史跡となっており[3]、史跡指定面積は約49.2ヘクタールである[1]。弘前市都市公園条例での名称は「鷹揚園」であり、公園施設として弘前城、弘前城植物園及び庭球場を定めている[2]。都市計画公園名としては「鷹揚公園」(1948年(昭和23年)10月29日都市計画公園決定)で、江戸時代に再建された天守と5つの城門、3つの隅櫓が重要文化財に指定されている[1]。
なお、名称については「弘前城公園」とすることも検討されている[4]。
園内には2,600本の桜があり、春には弘前さくらまつりが開催される[1][3]。
弘前城は明治時代に入り、1871年(明治4年)9月に兵部省、1872年(明治5年)に陸軍省の管轄となった[5]。1873年(明治6年)には全国城郭存廃ノ処分並兵営地等撰定方(廃城令)で日本全国の城郭や陣屋について存城と廃城の区別が行われたが、弘前城については「諸国存城調書」にも「諸国廃城調書」にも明記されず、その後の弘前城は陸軍省用地となったことから存城として扱われたとみられる[5][注 1]。ただ、存城となっても盛岡城のように解体された例もあり、弘前城でも1884年(明治17年)に本丸御殿等が取り壊された[5]。
弘前城には、のちに第八師団が設置されるまで青森県の管轄部分も含まれ、県は使用の見込みもなく毎年保存修理に費用がかかるとして、1880年(明治13年)7月に旧三の丸の建物と附属庫の入札を実施した[5]。しかし、参謀本部は同年8月4日に臨時に必要とする場合があるため「其儘存置」するよう指示した[5]。その後、旧藩士や地方庁から跡地を利用したいとの要望があったものの陸軍省はこれらを却下した[5]。
旧藩主の津軽承昭も陸軍省に旧弘前城の払い下げを請願したが不認可となり、公共用であれば使用してよいとの回答を受けた[5]。弘前城の払い下げを求めていた承昭はこの条件に着目して公園の設置を考え、弘前市と内議を行い、市が公園化を出願し、公園の管理と費用負担は津軽家が担う形がとられた[6]。1894年(明治27年)10月に津軽家と弘前市との間で交わされた「弘前市公園ニ係ル契約証」では、弘前市参事会から津軽家家職の斎藤璉と須郷元雄に公園管理を委託し、設置費用に公費は充てず寄付金で賄うこととされた[5]。そして管理規程などが設けられ、1895年(明治28年)5月20日に弘前公園は開園した[5]。
1896年(明治29年)には弘前市に第八師団が置かれることが決定し[5]、1898年(明治31年)に弘前陸軍兵器支廠の敷地とするため旧三の丸の大半が陸軍省へ返還された[6]。これにより将来的な払い下げが難しくなったことなどから、津軽家は1902年(明治32年)5月13日付で公園の管理の委嘱を辞退し、管理規程の改正により同年7月1日から公園は弘前市の予算で管理されることになった[6]。
いずれも、市内の小中学生や65歳以上の市民などは無料。団体割引(10名以上)や、本丸・北の郭と植物園の共通入場券も販売されている。料金など詳細は、弘前市のサイトなどを参照。