櫓(やぐら)とは、城郭内に防御や物見のために建てられた仮設または常設の建築物である。
日本では、石垣や土塁の上に木造の建築を建てて、攻め手への攻撃と防御を有利に働かせた。多くの例は、通常の窓のほかに攻撃用の小規模な開口を複数箇所設けてある。
一方、ヨーロッパの城では、中世からルネサンス期の城にも櫓(Hoarding)がある。多くは石造城壁上の木造物で、城壁上の敵に対して攻撃可能な開口部が設けられる。
ここでは、おもに日本の城の櫓について解説する。
日本の中世の城では、塀の内側に木材を組んで盾板を建てた櫓が登場し、攻撃のための「高櫓」(たかやぐら)や物見のための「井楼」(せいろう)と呼ばれる簡易な建物を建てて、防御を行っていた。また、常時矢を始めとする武具や生活道具なども保管する倉庫としての役割もあった。そのため、「やぐら」の字には「矢蔵」「矢倉」ともあてられる。戦国時代末期から江戸時代までには、鉄砲などの銃器の導入に伴う戦い方の変化から、より頑丈な建物が設置された。その形状も多様に及ぶようになり、意匠には寺社建築の要素も取り入れられて破風や外壁仕上げにより装飾して領主や城主の権威を誇示する要素を含むようになった。
初期の頃は、『後三年合戦絵詞』や『一遍上人絵伝』など中世の絵巻物に見られるように、篭城戦での防御・物見のための仮設の建造物としての要素が強かったが、戦国時代後期、近世城郭が築かれ始めると、櫓の柱は礎石の上に建ち、防火と防弾を考慮して厚い土壁が塗られ、屋根は瓦が葺かれるなど恒久的な建築へと発展した。織田信長の近畿平定の頃からは、その家臣団達の居城に建てられ始め、全国的に広まった。
豊臣秀吉が天下統一をなし遂げた天正末期より築造され、高石垣とともに瓦葺の櫓は豊臣系大名の築城した城郭に特有の構造と指摘される。特に西国の城では二重櫓や平櫓を多く建て並べた。この頃のものは構造も旧式といわれている望楼型が主流である。
なお、この時代の櫓は天守を除き現存するものがなく、最古の櫓として残るのは関ヶ原の戦い以後の慶長6年(1601年)前後に建てられた熊本城宇土櫓、福山城伏見櫓(伏見城からの移築)である。
関ヶ原の戦い後、各地に移封され、大幅に加封された外様大名達によって次々に城が築かれ、既存の城も多くで改築を施された。この時期、徳川幕府による天下普請の媒介もあり、近世の築城技術が全国に広まった。天守を除き現存する櫓のほとんどはこの時期に建設されたもので、関ヶ原の戦い以前に上げれたものは現存例がない。現存しないものも含め一城郭内での櫓数は多い順に、広島城76棟、姫路城61棟、津山城60棟であった[1]。
櫓も元和頃までに大きく発達し、構造は新式の層塔型が主流になり、機能では石落とし・狭間が増加し、隠狭間が登場した。
慶長末期になると、外様大名による築城は幕府への遠慮などにより自主的に憚られるようになった。さらに大坂の陣後、1615年(元和元年)7月に2代将軍の徳川秀忠が伏見城で諸大名に発布した武家諸法度によって新規築城が原則禁止されると、天下普請による大坂城再築や、福山城など一部の譜代大名を除いて城は築かれなくなり、櫓も次第に実戦から離れていった。天守を失った城では江戸城の富士見櫓のように櫓が天守を代用することもあった。
明治まで、城には多くの櫓が立ち並んでいたが、廃城令に伴う取り壊しや火災、幕末から明治初頭にかけての日本国内の紛争や第二次世界大戦時の都市空襲などの戦災によって失われた。櫓の現存数は現在109棟である。
櫓は、天守と同様の土壁の大壁である。天守に比べて、造りはおおむね貧弱で、使用される部材も細めのものが多い。そのため、櫓は天守より耐用年数が短く、また土蔵と同様に、厚い土壁が湿気を呼ぶため構造材が腐りやすく、多くの櫓は江戸時代の内に建て替えられたり、また、城主の財政難で維持管理が難しくなることにより倒壊したり、失火や落雷で焼失するなどして創建当初の櫓は明治にはあまり残っていなかった。
大型の櫓の平面構成は、中央に身舎(もや)を設け、周囲に入側・武者走(いりかわ・むしゃばしり)を廻らしており、その構成は天守に近いものである。熊本城の五階櫓のように身舎の内部に壁を設けていくつかの部屋に区切ることもあった。
江戸城・大坂城・名古屋城など徳川幕府による天下普請によって築かれた城や徳川幕府と関わりの深い大城郭に建てられた櫓は、中央に設けられた身舎をさらにいくつかの部屋に区切るなど天守とほぼ同じ構成をとり、規模は小規模な天守を凌ぎ、幕府権力の象徴となっていた。
地方の城郭に建てられた小型の櫓では、内部が一室で身舎と入側の区別もなく、1階の中央に1本か2本ほど独立した柱を立てるか、室内に1本も柱を立てないものが多かった。二重櫓と三重櫓は、天守と同じく望楼型・層塔型に区別でき、前者が旧式、後者が新式である。現存例は層塔型の方が多い。櫓には通柱(2階以上を貫き通す柱)があまり使われず、すべての柱を1階の梁で止めていることが多かった。
櫓の外観は、全体的に同じような意匠にすることが多い。壁の材質、色、屋根の葺き方、屋根の反りなどをほぼ統一することで、一体化した美観を作ることもできた。天守がない城では、事実上の天守や天守の代わりにしていた三階櫓などを他の櫓との格式の違いを示すために、長押や、装飾性の高い破風、特殊な窓(連子窓、突上窓、火灯窓など)などで飾ることも多くあった。また、特別な役目を持つ櫓も同様に飾られることがあった。
櫓は戦時の防御機能の他、物資を貯蔵する倉庫としての役割があったが、その他には、以下のような用途も兼ねた櫓もあった。
櫓は防御の目的だけではなく、ものを観察・監視するためにも用いられる。これを物見櫓(ものみやぐら)という。物見櫓は、弥生時代にはすでに建てられており『魏志倭人伝』では、「楼観」という記述が見られ、同時期の遺跡と考えられている吉野ヶ里遺跡では物見櫓と見られる掘立柱建築の跡が出土している。時代を遡り、縄文時代中期に当たる紀元前3000年 - 紀元前2000年の遺跡である三内丸山遺跡(青森県)では大型の掘立柱の構造物または建築物の跡と見られる遺跡が出土しており、物見櫓の跡であるという説がある[3]。同様の目的の構造物は城郭だけに限らず、京都市街の路上に建てられた監視用の櫓が『一遍上人絵伝』に描かれており、現在でも街中で見ることのできる火の見櫓もその類である。中世の城郭にも、丸太材や角材をくみ上げた井楼と呼ばれる高層櫓が建てられたが、このような中世城郭の物見櫓は戦国時代末期から江戸時代までには、近世城郭に見られる礎石の上に建てた土蔵造りの恒久的な建物となった。
天守を焼失・破却した城、または都合で天守が建造されなかった城で、御三階櫓などと称して事実上または実質上の天守と位置づけられた櫓。
御三階櫓としての現存例は弘前城跡と丸亀城跡にある。それ以外の呼称で天守代用とされた櫓の現存例は、明石城(坤櫓)と江戸城(富士見櫓)がある。
復元例としては新発田城(御三階櫓)・白河小峰城(三重櫓)・白石城(大櫓)・宇都宮城(清明台櫓)がある。