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小野 公誠(おの こうせい、1974年7月11日 - )は、東京都東大和市出身の元プロ野球選手(捕手、右投右打)・コーチ。
聖望学園高校では、2年夏に1年上のエース門倉健を擁して一塁手で県大会準優勝[1]。
高校通算28本塁打。また、改装後の県営大宮球場初の本塁打を放っている[2]。
門倉と同じく東北福祉大学に進み、バッテリーを組むと3年時には大学選手権準優勝[2]。4年時には正捕手として春季リーグ最優秀選手で大学選手権では延長サヨナラ本塁打の活躍でベスト4、明治神宮大会準優勝して日米大学野球では4番を打った[1]。3年時も春季リーグ戦最優秀選手、3・4年春の首位打者。ベストナイン3年春:三塁手、3年秋~4年秋:捕手[3]。
1996年、ドラフト4位でヤクルトスワローズに入団。
1997年7月20日の対読売ジャイアンツ戦にてプロ初打席で初本塁打を三澤興一から放った。
当時のヤクルトは古田敦也が絶対的な正捕手だったこともあり、2000年までは一軍出場はほとんどなかったが、2001年に35試合に出場し、古田に次ぐ2番手捕手としての地位を固める。またベンチではムードメーカーだった。
2005年には古田の衰えや故障離脱に伴い、自己最多の62試合出場、7本塁打を記録している。しかし、2004年に故障した膝の影響もあり、これ以降は米野智人や福川将和に押される形で一軍出場が激減。
2006年は守備固めで1試合に出場したのみに留まる。二軍では2006年から2年続けて3割台後半の打率を残した。
2007年には打力を買われて、アダム・リグスが故障してレギュラー不在になっていた一塁手で起用されたこともあったが、結果を残せなかった。この年は捕手としての一軍出場はなかった。
2008年10月12日に現役引退を表明。同日の対横浜ベイスターズ戦、同点の8回裏二死に代打で出場し、牛田成樹から決勝ソロ本塁打を打つ。小野はこの打席が現役最終打席で、一軍で2打席以上に立った選手としてはNPB史上初となる「プロ初打席と最終打席両方で本塁打を打った選手」となった[注 1]。試合終了後、同日の試合で同じく引退する真中満、度会博文、河端龍と共に引退セレモニーを行い、『ホームランで始まり、ホームランで終わった野球人生は宝物です』と最後の挨拶を行った。
2009年から2012年までスワローズのスコアラーに就任。2013年はヤクルトの二軍バッテリーコーチを務め、2014年シーズンから一軍バッテリーコーチへと昇格[4]。10月8日に球団から同年限りで退団することが発表された[5]。 2018年現在は球団職員(査定担当)[6]。