丸山 隆平(まるやま りゅうへい[7]、1983年〈昭和58年〉11月26日[4] - )は、日本の歌手、ベーシスト、俳優。SUPER EIGHT[注 1]のメンバーであり、主にベースを担当している[8]。
京都府京都市出身[2]。STARTO ENTERTAINMENT所属[9]。
愛称は「丸ちゃん」[41]。
幼い頃は人見知りはした事がなく[2]、小学生時代もどんなグループとも仲良くなれる性格で[10]、小・中学校の成績表にも「明るくて活発でムードメーカー」や「落ち着きが無くて集中力が足りない」の様な事を書かれる事が多かった[5]。そのため、関ジャニ∞(後のSUPER EIGHT)のメンバーの中ではムードメーカー的な存在であり、バラエティ番組やライブのMCではギャグを披露する事が多く[42][43]、「ジャニーズNo.1ギャガー」とも呼ばれている[44]。また、尊敬する芸人として、「西の師匠」が岡田圭右(ますだおかだ)、「東の師匠」が春日俊彰(オードリー)であると公言している[45][46]。関ジャニ∞のライブなどでの定番ギャグは、「せーので!」の掛け声とともに右手をグーからパーに開く一発ギャグ「パーン!」[47]。
中毒性のある独特な単語を作り出す事が多く、2009年から2010年にかけて放送されたバラエティ番組『関パニ』(テレビ朝日系列)では、「うさぎ」がお題の絵描き歌を作った際に、「丸みを帯びたU字の水槽」から歌い始まる絵描き歌を即興で披露し、放送から10年以上経っても定期的にTwitterなどのSNSで「U時の水槽」が話題になっている[48][49][50]。
部活動は陸上競技部に所属しており、陸上との出会いは小学3年生の時で、同級生の父親が「うちの息子と同じくらい速く走れるのはお前だけや」と熱心に誘われ、陸上の練習や市の記録会に参加していた[5]。尚、関西ジャニーズJr.時代に『8時だJ』(テレビ朝日系列)の「J1グランプリ・ホノルルハーフマラソン」に参加した際に、当時ジャニーズJr.内で圧倒的な人気を誇っていた滝沢秀明や嵐のメンバーらを追い抜き、まだ無名だった自身が1位(安田は2位)でゴールしてしまい、スタッフを困惑させてしまった経験がある[51][52][50]。
芸能活動を始めた当初は、高校で特にやりたい事もなく、勉強する意味も感じていなかったため、中学校を卒業したら高校に進学せずにそのまま働くつもりだったが、両親からは「オーディションに受かったからと言って、芸能の仕事が毎日あるわけではないし、その世界でやっていける保証もない」という考えから、進学を勧められていた[10]。そんな中、中学校の担任の先生が芸術コースのある高校を勧められ、パンフレットに目を通すと「普通に勉強するよりも楽しそう」「行ってみようかな」という気持ちになれたため、進学を決意[10]。しかし、私立高校で学費が高額だったため、「これ以上親に迷惑をかけられないから、行くなら絶対に留年しない様にちゃんと卒業しよう」と自分の中で誓い、実際に3年間無遅刻無欠席でその高校を卒業した[10]。
関ジャニ∞の中では最も上京したタイミングが遅く、一時期は東京で仕事がある時には村上が自分の家に泊めており、「丸山が東京に来る度に村上の家に泊まる」という事を繰り返すうちに、ほぼ同棲している様な状態になっていた[53]。これは、渋谷が「バンドリハやってる時のマル(丸山)の様子が変やったから、マルに聞いてみて」と村上に頼み、帰りに丸山を誘い、事情を聞くと「仕事に対して考えていた事があったが、気を遣ってしまい、言いにくい事があった」との事で、村上が丸山に対して「メンバーなんやから言わなアカン時は言え」と励ましたものの、それでも心配だった村上が「(村上の)家に来い!」と丸山を誘った事がきっかけだったという[54]。
初めて買ったCDは、KinKi Kidsの『硝子の少年』[55]。人生で影響を受けた楽曲は東京事変の「群青日和」とMr.Childrenの「ランニングハイ」[55]。
2011年に出演した映画『ワイルド7』の撮影のために、大型二輪免許を取得[29]。しかし、2017年にバイクは手放した[56]。
1996年9月22日[10]、1回目のジャニーズ事務所のオーディション受け、当日の最後に、渋谷すばるを含めた数人のみが呼び出され、雑誌の取材を受けた[5]。しかし、その後約半年間何も連絡が無い上に仕事にも呼ばれず[13][14]、当時同じオーディションを受けていた他の同期がテレビに出演しているのを見たため、「落ちたんやな」と勘違いしていた[12]。
それから数か月が経ち、ある日、自身が通っていた塾を無断欠席し、「家に帰ったら、親父に怒られる」という恐怖と、「また両親に迷惑をかけてしまったな。俺が居ない方が両親は幸せなんじゃないか」との複雑な想いから、自転車で大阪を目指して家出をしたが、当時はまだ小学5年生だった事もあり、家出した夜に宿泊させてもらった友人の説得を受け、1日で帰宅[12][10]。帰宅した際に家族会議が開かれ両親から叱られたが、母親は既に妹を妊娠していたものの、自身の家出を「本当に心配した」と涙を流していたのを見て、「オカンが大変な時やのに何をやってるんやろ、俺は」と反省し[10]、その話の後、父親が「まだいけるやろ」ともう一度履歴書を送っていた2回目のオーディションの通知が渡され[12]、これらの事から「今度こそ頑張ってみよう!」と再びオーディションを受ける事を決意[10]。偶然にも家出からの帰宅の翌日が2回目のオーディションの本番当日だった[12]。
1997年9月6日[11]に2回目のオーディションを受けるも、そこで当時社長のジャニー喜多川に「YOU受かってるのに何でここにいるの?」と言われ、1回目のオーディションの時点で合格していた事が判明する[12][13][14]。この2回目のオーディションには安田章大、錦戸亮、大倉忠義がいた[12]。これにより、1回目のオーディションでは渋谷が、2回目のオーディションでは安田・錦戸・大倉が同期となる[14]。
中学生の時の音楽の授業で、長渕剛の「乾杯」を演奏する課題があり、その時にギターを初めて触ったが、その時には全く興味が持てなかったという[10]。
楽器を始めたきっかけは、高校で舞台芸術科に通っており、周りに音楽や芝居の話題があった事から、自身もギターに興味を持ち始め[10]、高校1年生の時に、ゆずの楽曲を高校の友人が演奏しているのを見て「ギターを弾いてみたい」と思い[57]、お年玉を下ろし、両親と共に楽器屋でギターを購入し、ギターを始めた[58][57]。この「ギターを始める」という行動が、初めて自分から行動を起こした事であったという[58]。また、ギターを始めた事で「楽器を弾く」という喜びや楽しみを初めて知った[57]。その後、安田に誘われ[10]、大阪梅田駅の前で弾き語りの路上ライブをよく行っていた[59]。主にMr.Childrenなどの楽曲や通行人からのリクエストを演奏していた[59]。一度だけ、酔っ払った通行人が2人のライブを聴き、「凄い良かったよ!」と5000円ほどの大金を置いて行った事がとても嬉しくて「これはずっと使わないで、記念に取っておこな!」と大事に保管していたという[59]。
本業となるベースを始めたきっかけは、2001年1月にバンド形式のグループ・V.WESTを結成する際に、「楽器出来る人集まってください」と呼ばれたが[17]、集まった5人全員の弾ける楽器がギターだったため、当時の音楽プロデューサーに「背が高くて立ち姿が映える」という理由で未経験ながらベースを担当することになった[17][57]。このことに対して丸山は「これやらへんかったら、この世界に残られへんやろな」と思い、迷いは無かったという[17]。
初めて買ったベースは、安価でベース用のアンプと細いシールドがセットになったFender Japanのジャズ・ベース(以下、「ジャズベ」)[60][61][62]。
ベースを始めた当初は、V.WESTの冠番組『週刊V.WEST』(関西テレビ)の番組最後に楽曲披露をするコーナーがあり、そこで演奏する曲を覚えていき、「人前で演奏する」ということに慣れていった[60]。また、その当時はV.WESTのメンバーの影響でウィーザーやグリーン・デイやニルヴァーナの楽曲を演奏しており、特にグリーン・デイの「バスケット・ケース」や「スチュアート・アンド・ジ・アヴェニュー」を演奏していたという[60]。
ベースの楽しさに気付いたタイミングは、関ジャニ∞の冠番組『関ジャム 完全燃SHOW』(テレビ朝日系列)が始まった2015年以降だといい、それまでは、ベースプレイに関して周りから何かを言われる機会も無かったため[60]、自ら「ビジネスベース」というほど楽しみが見い出せず、自分のベースプレイに不甲斐なさや「自分には才能も技術も無いのに…」というような不安を感じていた[63]。しかし、『関ジャム』が始まったことにより、様々なミュージシャンと接する機会も増え、中でも2015年9月に放送されたポルノグラフィティとのセッションの際に、ドラマーの野崎真助から「凄く良かった」「もしベースのオーディションがあるなら、僕は君を選ぶかもしれない」と褒められたことから[60]、ベースを弾くからには「自分はベーシストである」と認めて鼓舞することで、「音楽から逃げない様にしよう」「嘘無く、等身大でぶつかっていこう」と思えたという[63]。また、渋谷の影響も大きかったといい、ツアー中に渋谷の歌声を聴いて「凄いボーカルの人と一緒にやってるんだな」と感動し、渋谷が所属していたほかのバンドのベーシストに嫉妬心もあり、「あの人より気持ち良く歌ってもらえてるかな」「もっとこの人(渋谷)をちゃんと支えて、自由に歌える音を出したいな」と考えたことで、「自分がベースを弾く意味」を見つけたという[64]。
2021年時点でのベースの所有本数は約60本から70本[65]。自身の自宅にはベースが一面に置いてあり[66]、親交のあるOKAMOTO'Sのハマ・オカモトからは「丸山ミュージアム」と言われている[67]。
丸山のベースプレイはプロのベーシストからも評判が高く[68][69][50]、前述のハマは、「彼(丸山)の演奏が人々の目に留まるのは、彼の異常なまでの向上心と音楽に対するリスペクトがあるからだ。断言出来る」[68]、「(丸山のベースプレイは)人間が出る」「普通の人間では、人が一生かかって一個やるようなことを、一人の人生の一回の中でやっているからこそ出る。だからいいベース」「普通の人間には真似できない。僕も真似できない」と絶賛している[70]。また、自身が尊敬している東京事変の亀田誠治は、丸山の指の長さや筋肉のつき方を「ベース指」と表しているほか、音楽への探究心があることから、「フィジカル的に上手く弾ける指や音感を持っている、そして表現者のマインドとしてミュージシャンシップもある」と称しており、丸山のことを「後輩」ではなく、自分と同じような気持ちを持った「仲間」の認識であると語っている[71]。
さらに、『関ジャム』で共演している俳優の古田新太は、古田自身がベーシストでもあることから番組開始当初は丸山にベースのダメ出しをすることもあったが、2017年時点のインタビューでは「破壊的に上手くなってます」「マルのテクニックたるや、ベーシストとして今(2017年)素晴らしいことになってます」「もう全然マルの方が上手い」と称賛しており[72]、関ジャニ∞のベストアルバム『GR8EST』で共演した東京スカパラダイスオーケストラの川上つよしからは「もうバンドマンレベル以上のテクニックを持っている」とも言われている[69]。
2016年頃、丸山が「本妻」と呼んでいるプレシジョン・ベース(以下、「プレベ」)を「弾きこなせていない」「乗りこなせてない」と思っていた時期があり、それを乗り越えるために、それから約1年間のライブや音楽番組ではほぼ「その本妻1本でやる」と自分に課し、その本妻に真剣に向き合ったことでプレベの使い方や鳴らし方が分かってきたという[73]。すると、プレベの特徴や魅力が理解できたことで、逆に以前よりもジャズベの良さが分かってきたという[73]。具体的には、ドームなどの大きな会場では、丸山いわくプレベでは「音がボワつきすぎて、音像が見えづらくなってしまう」という[74]。そのため、観客に音を届けることを考え、最重要視した結果、大きい会場の時は、丸山いわく「音が粒立ちやすい」ジャズベを使うようになったという[74]。
SUPER EIGHTの楽曲では、基本的にルートで音数が多く、そこにコード・トーンのフレーズが入ってくるようなポップ・パンクのようなタイプの楽曲では抜けが欲しいためジャズベを使うことが多いという[74]。例として、「LIFE〜目の前の向こうへ〜」のイントロのベースフレーズなどは、リスナーの耳に残りやすい印象的なフレーズであるため、ジャズベを使用しているという[74]。
父親の職業は太鼓職人[2]。当初は役者志望で俳優の養成所に通っていた経験があるが、結婚して丸山が生まれ、家族を養うために俳優の夢を諦めたという[2]。
ハマ・オカモト(OKAMOTO'S)とは、2015年に関ジャニ∞として出演した『ミュージックステーション』(テレビ朝日系列)での共演がきっかけだという[87]。その際に関ジャニ∞がバンドスタイルで初披露した「ズッコケ男道」[88]のアレンジとその演奏に感動し、OKAMOTO'Sが「曲を提供したいな」と思っていた所、丸山が同年の関ジャニ∞のアルバム『関ジャニ∞の元気が出るCD!!』を制作する際に、「OKAMOTO'Sさんとやりたい!」と提案した事で、実際にOKAMOTO'Sによる楽曲提供が実現し、「勝手に仕上がれ」が制作された[87]。更に、楽曲提供で親交を深めた直後に「ベースって地味に見られがちなので、派手なテクニックを身につけたい」と考え、『関ジャム 完全燃SHOW』(テレビ朝日系列)でハマから丸山にスラップ奏法を指南する企画を行い[89][50]、それ以降、ハマの事を友人でもありながら「師匠」と称えている[90]。更に、自身がベース専門誌『ベース・マガジン』の表紙に初めて抜擢された際には、ハマは「誰が(表紙に)なるより、あなたが表紙になるのが一番嬉しいかもしれません」とコメントを寄せている[68]。
東京事変および亀田誠治のファンを公言しており、『関ジャム』で東京事変特集を行った際には、通常のひな壇ではなく、自身が解説者となって東京事変の魅力を紹介している[91]。また、東京事変のベストアルバム『総合』が発売された際の、『音楽ナタリー』の著名人ファンによるアルバムレビューでも丸山がコメントを寄せている[92]。自身が東京事変を好きになったきっかけは、実家に住んでいた頃に、テレビデオで様々なアーティストのミュージック・ビデオを流す番組を観ていた際に、「群青日和」が紹介され、「うわ、このバンド、みんな格好良い!」と衝撃を受けた事であり、翌日にはそのCDを購入した[93]。しかし、最初は「凄く格好良い女性ギターボーカルのバンド」という認識で、ボーカルが椎名林檎であると気付かなかったという[55]。自身が亀田と初めて実際に会って話したのは、2011年に放送された『ザ少年倶楽部プレミアム』(NHK BSプレミアム)での対談である[93]。一方で亀田は、その前年である2010年に共演した『ミュージックステーション』(テレビ朝日系列)で関ジャニ∞が「LIFE〜目の前の向こうへ〜」を生演奏した事が印象に残っており、前述の対談のオファーがあった時に、「もしかしたら面白い出会いになるんじゃないか」と感じていたという[93]。その対談がきっかけとなり、プライベートでも連絡を取り合う様になった[93]。その後も交流は続き、2021年には丸山のオファーにより、アルバム『8BEAT』に収録されたタイトルトラック「8beat」を亀田が楽曲提供している[94]。
大野智(嵐)とは、自身の連続ドラマ初出演となった2009年のドラマ『歌のおにいさん』(テレビ朝日系列)での共演[24]以降、同じ11月26日生まれという事もあり、互いに誕生日プレゼントを送り合うのが毎年の恒例となっており[95]、一緒に誕生日会を行った事もある[96]。
演技作品をきっかけに俳優と仲良くなる事も多く、2013年のドラマ『泣くな、はらちゃん』(日本テレビ系列)で共演した菅田将暉とはメールをしたりカラオケに一緒に行ったりする友人であると語っている[97]。特に、2021年のドラマ『着飾る恋には理由があって』(TBS系列)で共演した横浜流星とは、丸山が横浜の事を「ソウルメイト」といい、横浜が学生時代の同級生を丸山に紹介して一緒に遊ぶほどの仲になっており、横浜は丸山の事を「尊敬できる人。仕事面でも、人間としても」と語っている[98][99]。
2020年9月24日、メンバーの大倉が新型コロナウイルス「COVID-19」に感染し、丸山が濃厚接触者に該当したことを発表[100]。前日の23日にメンバーにPCR検査を実施したところ全員陰性だったが、保健所の指導に基づく濃厚接触者の特定により、自身とマネージャー1名が濃厚接触者に該当した[100]。このことから自身は2週間の隔離生活で様子を見るとした[100]。そのため、自身がMCを務める情報番組『サタデープラス』(MBS/TBS系列)の同年9月26日・10月3日の放送を欠席し、メンバーの村上[101]・横山がそれぞれ代役MCを務めた[102]。その後、保健所の指導に基づいた2週間の隔離生活を経て体調に異変はないこと、期間中に2度実施したPCR検査も陰性だったことから同年10月6日に活動を再開した[103]。
2022年4月26日、新型コロナウイルス「COVID-19」に感染したことを発表[104][105]。発表によると、同日の朝より38.6度の発熱を訴え、PCR検査を実施したところ、陽性が確認された[104]。そのため、前述の『サタデープラス』の同年4月30日・5月7日の放送を欠席[106]。2020年と同様に横山が代役MCを務めた[107][108]。その後、一定の経過観察期間を経て、体調も回復し、PCR検査で陰性の確認が取れたため、同年5月10日に活動を再開した[109]。
※デビューしたグループのみ。
※グループ活動以外のライブやイベントのみ記述。
※初収録された映像作品を記述。
※特記の無い限り、丸山自身によるブログ。
(グループエージェント契約)