クリス・アーウィン

クリス・アーウィン
Chris Irwin 1968.JPG
アーウィン (1968年4月)
基本情報
国籍 イギリスの旗 イギリス
(イングランドの旗 イングランド)
出身地 同・ロンドン特別区
ワンズワース
生年月日 (1942-06-27) 1942年6月27日(82歳)
F1での経歴
活動時期 1967年 - 1967年
所属チーム ブラバムレッグ・パーネル・レーシング英語版
出走回数 10 (10スタート)
通算獲得ポイント 2
初戦 1966年イギリスGP
最終戦 1966年メキシコGP
テンプレートを表示

クリス・アーウィン(Chris Irwin、1942年6月27日 - )は、イギリス出身のレーシングドライバーであり、フォーミュラ1世界選手権(F1)には1966年から1967年にかけて10戦に出場した。

経歴

カンタベリーキングズ・スクールを卒業した後、印刷関係の会社に就職し、その傍ら、ユニヴァーシティ・カレッジ・ロンドン(UCL)の印刷課程で3年間学んだ[1]

1960年、18歳の時に退屈まぎれにスネッタートン・サーキットに行ったところ、そこで開催されていたレースに魅了された[1]。レース後にピットやパドックを回っていたところで、ジム・ラッセルと知り合い、ラッセルが同サーキットで運営していたジム・ラッセル・レーシングスクールに入った[1]。その後の1年ほど、ラッセルの下でレーシングカーの操縦方法の基礎を学び、1961年からフォーミュラ・ジュニアで走り始めた[1]

F3 (1964年 - 1966年)

ジュニアフォーミュラではプライベーターとして3年ほど走り[1]、1964年にイギリスF3選手権に初めてシーズンフル参戦して、この年のシーズン英語版のBRSCC選手権で2位となった。この活躍により、当時、イギリスの若手レーシングドライバーに与えられていた年間表彰のグローヴウッド賞英語版で3位を授与された[2]

1965年からプロドライバーとなり、1966年にはF3の国際レースに参戦し、計8勝を収めた[1]。この年はF2のレースにスポット参戦したほか、7月のイギリスGPでブラバムからスポット参戦してF1デビューを果たし、このレースで7位完走を果たした[3][注釈 1]。これは1戦のみのスポット参戦だったが、この結果に注目したBRMはワークスチームの2台に次ぐ3台目をレッグ・パーネル・レーシング英語版に提供し、翌1967年のアーウィンのF1デビューをお膳立てした[3]

F1参戦 (1967年)

1967年、レッグ・パーネル・レーシングと契約したアーウィンはF1にステップアップし、第3戦オランダGPから最終戦(第11戦)メキシコGPまで走った。7月の第5戦フランスGPで5位入賞を果たし[1]、結果として、これがF1における生涯唯一の入賞となった。

この1967年末には、F1のグランプリ・ドライバーズ・アソシエーション(GPDA)からその年のもっとも優秀な新人に与えられるフォン・トリップス記念トロフィーを授与された[4][5]

ぼくにとって、フォーミュラ・ワンへの進出は論理上の必然にすぎない。あるクラスのレースでトップについた以上、さらに上のクラスにのぼるのは当然のことだ。フォーミュラ3のレースでトップにとどまっているのは容易だが、それはたぶんウンザリするほど退屈なことだろう[1] — クリス・アーウィン(1967年シーズンの開幕前)

サーティース / ホンダとの契約 (1967年 - 1968年)

アーウィンのフル参戦初年度の戦績はレッグ・パーネル・レーシングに車両を供給していたBRMを満足させ、BRMは、当初の予定通り、練習期間の1967年シーズンを終えたアーウィンをワークスチームに昇格させようとした[3]。しかし、アーウィンはチーム・サーティースと契約することを選び、1968年はホンダに正式に加入した[6][注釈 2]

サーティースでは1967年からF2やル・マン24時間レースで走っており、8月末にホンダのRA300がイギリスで完成した際には、同車のシェイクダウンをアーウィンが担当した[7][8]

1967年のホンダはジョン・サーティースのみの1カー体制で参戦していたが、1968年は2台体制に強化し、セカンドドライバーにサーティースをサポートさせようと考えていた[9]。ジョン・サーティースとホンダの中村良夫はそのドライバーを選ぶにあたって、若手の中でも最も有望視していたアーウィンに白羽の矢を立てたというのが起用の経緯である[7][10][11][12]

そうして迎えた1968年シーズンだったが、ホンダの都合により、6月までは2台目の車両を用意することができない見通しとなったため[注釈 3]、それまでの間、アーウィンは他のカテゴリーでレースをして過ごすことを許され、サーティースからローラを駆ってF2にスポット参戦するなどして過ごしていた。

ホンダとしては、セカンドドライバーのスカウトにあたって“一流ドライバー”をあてにするわけにはいかなかった。そこで、われわれホンダ・チームは、ごく限られたタレントのなかから経験、才能、責任感の三拍子そろったドライバーを探し当てなければならなかった。この条件を満たしてくれたのがクリス・アーウィンで、彼を得ることができたわれわれはとてもラッキーだった[6] — ジョン・サーティースによるアーウィン評(1968年シーズンにあたって)[注釈 4]

事故 (1968年5月) と引退

フォード・P68(1968年。画像は2007年撮影)。ニュルブルクリンク・北コース序盤のジャンピングスポットであるフルーグプラッツの着地時に車両後部を路面に擦ってとんぼ返りをしたと言われている。
フォード・P68(1968年。画像は2007年撮影)。ニュルブルクリンク・北コース序盤のジャンピングスポットであるフルーグプラッツの着地時に車両後部を路面に擦ってとんぼ返りをしたと言われている。

1968年5月、アーウィンはニュルブルクリンク1000kmレース英語版フォード・P68英語版を駆って参戦した[2]

このレースの練習走行において、アーウィンは2周目でこの日のトップに近い8分40秒を出し、続く3周目で悪名高いフルーグプラッツ(Flugplatz)で車両のコントロールを失い、浮き上がった車体がとんぼ返りをする大事故を起こした[16][2]。大破した車両から救助されたアーウィンは、一命こそとりとめたものの、この事故で頭部に負った怪我は重く、顔に傷を負ったほか、脳の損傷により通常の生活を送る能力も著しく損なわれるほどの重い障害が残り、レースからの引退を余儀なくされた[2]

この事故の原因は不明だが、P68は新型車であり、高速からブレーキをかけた時に車体が浮き上がる不具合が事故以前からあり、それが解消されていなかったという説と[16][注釈 5]、大破した車両からウサギの死骸が見つかったと報告されていることから、ウサギとの接触により車両の空力に不具合が生じていたためという説がある[2]

事故によりアーウィンの容貌はすっかり変わってしまい、事故から2か月後の7月のイギリスグランプリでアーウィンを見かけた生沢徹は、一目見ただけではアーウィンと気づかず、その変わりようを見てレースがつくづくいやになり、怖くもなったと述べている[17]

レース戦績

略歴

シリーズ チーム レース 勝利 PP FL 表彰台 ポイント 順位
1964 イギリスF3選手権英語版(BRSCC選手権) マーリン・レーシング英語版 不明 不明 不明 不明 不明 不明 2位
1965 イギリスサルーンカー選手権 ドン・ムーア 1 0 0 0 0 0 NC
1966 フォーミュラ1 ブラバム 1 0 0 0 0 0 NC
1967 フォーミュラ1 レッグ・パーネル・レーシング英語版 9 0 0 0 0 2 16位
ル・マン24時間レース ローラサーティース 1 0 0 0 0 - DNF
ヨーロッパF2選手権 8 1 1 0 0 15 6位
1968 ヨーロッパF2選手権英語版 3 0 0 0 0 0 NC

フォーミュラ1

key

エントラント シャーシ エンジン 1 2 3 4 5 6 7 8 9 10 11 12 WDC ポイント
1966年 ブラバム ブラバム・BT22 コヴェントリー・クライマックス・FPF 2.8L 直4 MON BEL FRA GBR
7
NED GER ITA USA MEX NC 0
1967年 レッグ・パーネル・レーシング英語版 ロータス・25 BRM P60 2.1L V8 RSA MON NED
7
16位 2
BRM・P261英語版 BEL
Ret
GBR
7
BRM・P83英語版 BRM・P75英語版 3.0L H16 FRA
5
GER CAN ITA USA MEX
1968年 オーウェン・レーシング・オーガニゼーション BRM・P126 BRM P142 3.0L V12 RSA ESP MON
DNP
NC 0
ホンダ・レーシング ホンダ・RA300 RA273E 3.0L V12 BEL
DNP
NED FRA GBR GER ITA CAN USA MEX

脚注

注釈

  1. ^ なお、ヨーロッパF2選手権(1.6リッター規定)が始まるのは翌年の1967年からで、この1966年までF2は1リッター規定で争われており、この年から3リッター規定が導入されたF1とは排気量の違いが大きかった。
  2. ^ ジョン・サーティースはホンダにとってはただのドライバーではなく、サーティースはホンダの中村良夫と協力し、イギリスでホンダの前線部隊となるホンダ・レーシングを組織していた。チーム・サーティースもそれに協力し、人員のほか、ファクトリーの半分を車両整備などの作業場としてホンダに貸していた。
  3. ^ イギリスのホンダ・レーシングは2月にRA301の車体を完成させてテスト走行のために日本に送っていたが、日本の本田技術研究所では空冷F1車両のRA302の開発を優先していたため、RA301のエンジンは(設計は終わっていたにかかわらず)製造と組立てが後回しにされ、完成は開幕直前の4月半ばまでずれこんだ[13]。本田技術研究所はその後もRA302の開発に忙殺され、ホンダ・レーシングはRA301・2号車用のエンジンどころか、1号車用のエンジン部品の補給も満足に受けられず、(アーウィンの事故から半年後の)11月の最終戦メキシコGPまで、2台のRA301をレース走行可能な状態で持ち込むことができなかった[14]
  4. ^ 1967年時点でサーティースと中村はアーウィンの腕を買っていたが、F1で走らせることはしなかった。これは同年に登場したロータス・49フォード・コスワース・DFVエンジンの戦闘力の高さを正確に高く評価していたためで、急造したRA300は1967年時点ではサーティース車しかなく、旧型のRA273にセカンドドライバーを乗せても対抗不可能で、戦力分散と費用の浪費になるだけと判断したことによる[15]
  5. ^ 決勝レースに参戦したもう一台のフォード・P68も、オープニングラップでブレーキトラブルを起こしている[16]

出典

  1. ^ a b c d e f g h オートスポーツ 1968年1月号(No.30)、「クリス・アーウイン物語」(久保正明) pp.104–107
  2. ^ a b c d e Chris Irwin biography” (英語). Historicracing.com. 2023年2月23日閲覧。
  3. ^ a b c Chris Irwin” (英語). Grandprix.com. 2023年2月23日閲覧。
  4. ^ オートスポーツ 1968年2月号(No.31)、「68年シーズンの展望」(久保正明) pp.104–108
  5. ^ オートスポーツ 1968年2月号(No.31)、「国際スポーツ・トピックス」(ピーター・G・ベラミ) p.122
  6. ^ a b オートスポーツ 1968年5月号(No.35)、「68年型ホンダF-1の臨戦体制」 pp.77–80
  7. ^ a b グランプリ 2(中村1970)、p.130
  8. ^ HONDA-F1 '64~'68(1978)、「私の手記・HONDA F1グランプリ」(中村良夫) pp.53–105中のp.90
  9. ^ 伝説のレースを追って(中部2007)、「第3話 ホンダ・レーシングの情熱は封印されたのか──1968年7月7日 F1 フランスグランプリ」pp.65–87 ※初出はRacing On No.379
  10. ^ HONDA-F1 '64~'68(1978)、「ホンダF1/グランプリドライバー群像」(露戸理) p.121
  11. ^ グランプリレース(中村1979)、p.236
  12. ^ HONDA F1 1964-1968(中村1984)、p.92
  13. ^ F1地上の夢(海老沢1993)、「21」
  14. ^ グランプリレース(中村1979)、p.247
  15. ^ HONDA F1 1964-1968(中村1984)、「二度目のピーク」 pp.76–91中のp.91
  16. ^ a b c オートスポーツ 1968年7月号(No.37)、「ニュルブルクリンク1000km」(折口透) pp.39–42
  17. ^ オートスポーツ 1968年9月号(No.39)、「アメリカで戦い、イギリスで2連勝!」(生沢徹) pp.65–42

参考資料

書籍
雑誌 / ムック
  • 『オートスポーツ』(NCID AA11437582
    • 『1968年1月号(No.30)』三栄書房、1968年1月1日。ASB:AST19680101 
    • 『1968年2月号(No.31)』三栄書房、1968年2月1日。ASB:AST19680201 
    • 『1968年5月号(No.35)』三栄書房、1968年5月1日。ASB:AST19680501 
    • 『1968年7月号(No.37)』三栄書房、1968年7月1日。ASB:AST19680701 
    • 『1968年9月号(No.39)』三栄書房、1968年9月1日。ASB:AST19680901 
  • 『auto technic』(NCID AA12803620
    • 『別冊 HONDA-F1 '64~'68グランプリレース出場の記録』山海堂、1978年7月5日。 
  • 『Racing On』(NCID AA12806221
    • 『No.379』ニューズ出版、2004年6月1日。ASB:RON20040501 

Strategi Solo vs Squad di Free Fire: Cara Menang Mudah!