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この項目では、中国の歴史的地名である萊州について説明しています。山東省の県級市の萊州については「萊州市」を、ベトナムの萊州については「ライチャウ省」をご覧ください。 |
萊州(らいしゅう)は、中国にかつて存在した州。隋代から明初にかけて、現在の山東省煙台市一帯に設置された。
魏晋南北朝時代
470年(皇興4年)、北魏により設置された光州を前身とする。光州は東萊郡・長広郡・東牟郡の3郡14県を管轄した[1]。
隋代
隋初には光州は2郡6県を管轄した。583年(開皇3年)、隋が郡制を廃すると、光州の属郡は廃止された。585年(開皇5年)、光州は萊州と改称された。607年(大業3年)に州が廃止されて郡が置かれると、萊州は東萊郡と改称され、下部に9県を管轄した[2]。隋代の行政区分に関しては下表を参照。
唐代
621年(武徳4年)、唐により東萊郡は萊州と改められた。742年(天宝元年)、萊州は東萊郡と改称された。758年(乾元元年)、東萊郡は萊州の称にもどされた。萊州は河南道に属し、掖・昌陽・膠水・即墨の4県を管轄した[3]。
宋代
北宋のとき、萊州は京東東路に属し、掖・萊陽・膠水・即墨の4県を管轄した[4]。
金のとき、萊州は山東東路に属し、掖・萊陽・膠水・即墨・招遠の5県と衡村鎮を管轄した[5]。
元代
元のとき、萊州は般陽路に属し、掖・萊陽・膠水・招遠の4県を管轄した[6]。
明代以降
1368年(洪武元年)、明により萊州は萊州府に昇格した。1373年(洪武6年)、萊州府は萊州に降格した。1376年(洪武9年)、萊州は萊州府に昇格した。萊州府は山東省に属し、直属の掖県と平度州に属する濰・昌邑の2県と膠州に属する高密・即墨の2県、合わせて2州5県を管轄した[7]。
清のとき、萊州府は山東省に属し、掖・濰・昌邑・高密・即墨・平度州・膠州の2州5県を管轄した[8]。
1913年、中華民国により萊州府は廃止された。
脚注
- ^ 『魏書』地形志二中
- ^ 『隋書』地理志中
- ^ 『旧唐書』地理志一
- ^ 『宋史』地理志一
- ^ 『金史』地理志中
- ^ 『元史』地理志一
- ^ 『明史』地理志二
- ^ 『清史稿』地理志八