熙州(きしゅう)は、中国にかつて存在した州。隋代に現在の安徽省安慶市一帯に設置された。
魏晋南北朝時代
南朝梁により設置された晋州を前身とする。侯景の乱のとき、晋熙郡に晋州が置かれ、蕭嗣(蕭範の子)が晋州刺史となった[1]。寿春が東魏に占領されると、晋州は豫州と改称された。
555年(天保6年)、北斉の儀同の蕭軌が南朝梁の晋熙城を落とすと、豫州は江州と改称された[2]。
576年(太建8年)、南朝陳により江州の晋熙郡・高塘郡・新蔡郡が分割されて晋州が置かれた[3]。
隋代
583年(開皇3年)、隋により晋州は熙州と改称され、3郡4県を管轄した。隋が郡制を廃すると、熙州の属郡の晋熙郡・高塘郡・大雷郡は廃止された。607年(大業3年)に州が廃止されて郡が置かれると、熙州は同安郡と改称され、下部に5県を管轄した[4]。隋代の行政区分に関しては下表を参照。
唐代
621年(武徳4年)、唐により同安郡は舒州と改められた。742年(天宝元年)、舒州は同安郡と改称された。757年(至徳2載)、同安郡は盛唐郡と改称されたが、同安県は桐城県と改称された。758年(乾元元年)、盛唐郡は舒州の称にもどされた。舒州は淮南道に属し、懐寧・太湖・宿松・望江・桐城の5県を管轄した[5]。
宋代
1147年(紹興17年)、南宋により舒州が安慶軍と改められた。1195年(慶元元年)、安慶軍は安慶府に昇格した。安慶府は淮南西路に属し、懐寧・桐城・太湖・宿松・望江の5県と同安監を管轄した[6]。
脚注
- ^ 『梁書』鄱陽王範伝
- ^ 『北斉書』文宣帝紀
- ^ 『陳書』宣帝紀
- ^ 『隋書』地理志下
- ^ 『旧唐書』地理志三
- ^ 『宋史』地理志四