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この項目では、山西省の歴史的地名について説明しています。その他の用法については「太原郡 (曖昧さ回避)」をご覧ください。 |
太原郡(たいげん-ぐん)は、中国にかつて存在した郡。秦代から隋代にかけて、現在の山西省太原市一帯に設置された。
秦代
前247年、秦により太原郡が設置され、県治が晋陽(太原市南西部汾水東岸)に置かれた。始皇帝の時代には7県を管轄していた。
漢代
前205年、前漢は秦制を継承したが、前201年に太原郡を廃止、管轄する21県は韓国に統合された。しかし同年、韓王信が匈奴に投降したことにより韓国は廃止、旧地には太原郡及び雁門郡が設置された。前196年、両郡は再び廃止され代国が設置、前114年(元鼎3年)に代国が廃止され再び太原郡が設置されている。前106年(元封5年)には并州刺史部の管轄とされた。『漢書』によれば、前漢末に16万9863戸、人口68万488人があった[1]。
後漢が成立すると太原県の管轄県は16県に削減、213年(建安18年)に并州が廃止されたのに伴い太原郡は冀州に移管されている。
魏晋南北朝時代
220年(黄初元年)、魏は并州を再設置、太原郡を太原国と改め管轄県は12県に減少、続いて西晋の時代になると13県を管轄するようになった。
西晋末年以降は北方民族がこの地に侵入し政権を樹立する五胡十六国時代を迎えることになる。太原郡は前趙・後趙・前燕・前秦・後燕などの支配を受けたが、太原郡の行政区画名称は各政権で継承されている。575年(武平6年)、北斉は太原郡治を竜山県に移転、以下10県を管轄する郡となり、北周に継承されている。
隋代
583年(開皇3年)、隋が郡制を廃すると、太原郡は廃止されて、并州に編入された。607年(大業3年)に州が廃止されて郡が置かれると、并州が太原郡と改称された。太原郡は晋陽・太原・交城・汾陽・文水・祁・寿陽・楡次・太谷・楽平・和順・遼山・平城・石艾・盂の15県を管轄した[2]。
618年(武徳元年)、唐により太原郡は并州総管と改められた[3]。
行政区画
脚注