河州(かしゅう)は、中国にかつて存在した州。五胡十六国時代から民国初年にかけて、現在の甘粛省臨夏回族自治州一帯に設置された。
魏晋南北朝時代
前涼により涼州の興晋郡・金城郡・武始郡・南安郡・永晋郡・大夏郡・武成郡・漢中郡の8郡を分割して河州が置かれた。河州刺史は枹罕に駐屯した[1]。
445年(太平真君6年)、北魏により枹罕鎮が置かれた。445年(太和16年)、枹罕鎮は河州と改められた。河州は金城郡・武始郡・洪和郡・臨洮郡の4郡11県を管轄した[2]。
隋代
隋初には、河州は1郡3県を管轄した。583年(開皇3年)、隋が郡制を廃すると、河州の属郡の枹罕郡は廃止された。605年(大業元年)、岷州より水池県が移管された。607年(大業3年)に州が廃止されて郡が置かれると、河州は枹罕郡と改称され、下部に4県を管轄した[3]。隋代の行政区分に関しては下表を参照。
唐代
619年(武徳2年)、唐が李軌を平定すると、枹罕郡は河州と改められた。742年(天宝元年)、河州は安郷郡と改称された。758年(乾元元年)、安郷郡は河州の称にもどされた。河州は隴右道に属し、枹罕・大夏・鳳林の3県を管轄した[4]。
宋代
北宋のとき、河州は秦鳳路に属し、寧河県と定羌城と南川砦と東谷・閻精・西原・北河の4堡と通会関を管轄した[5]。
金のとき、河州は臨洮路に属し、枹罕・寧河の2県と安郷関と南川寨・通会関・定羌城と積慶鎮を管轄した[6]。
元代
元のとき、河州は河州路に昇格した。河州路は陝西等処行中書省に属し、定羌・寧河・安郷の3県を管轄した[7]。
明代以降
1371年(洪武4年)、明により河州路は河州衛と改められた。1373年(洪武6年)、河州府が置かれた。1377年(洪武10年)、河州衛は左右に分けられた。1379年(洪武12年)、河州府は廃止され、河州左衛が洮州衛に改められ、河州右衛が軍民指揮使司とされた。1473年(成化9年)、河州が置かれ、臨洮府に属した。軍民指揮使司が河州衛と改められた[8]。
1738年(乾隆3年)、清により臨洮府は蘭州府と改称されたが、河州は蘭州府に属し、属県を持たない散州となった[9]。
1912年、中華民国により河州は廃止され、導河県と改められた。
脚注
- ^ 『晋書』地理志上
- ^ 『魏書』地形志二下
- ^ 『隋書』地理志上
- ^ 『旧唐書』地理志三
- ^ 『宋史』地理志三
- ^ 『金史』地理志下
- ^ 『元史』地理志三
- ^ 『明史』地理志三
- ^ 『清史稿』地理志十一